Ⅷ 『ゼデミューンデの戦い』
牧草地を風巻く蟒蛇の啀み。竜頭に刈り払われた雑草が、頬の一皮を撫で付けていく。果敢にも笛
吹き男に挑んだグレーテルの攻撃は、奮闘むなしく暖簾に腕を押し、彼の『夢操幻鞭術』を前に膝
から崩れ落ちる形になった。
「やれやれ……もうお終いですか? 口ほどにもない。まったく……先ほどまでの威勢は、いった
いどこへと行ったのです?」
右手の鞭柄を肩に抱き、笛吹き男が教鞭を振るう。
「つ……うっ……」
手のひらに青草を握りこみ足腰に力を入れる。ヌイグルミが無いという不利な状況にもかかわらず、
グレーテルは奥歯を噛みしめて尚も立ち上がった。
「健気ですねぇ……お友達のために身命を擲つとは。私にはとうてい理解できません。何故です?
何故、身を削ってまで、夢の世界にいるお友達を守りたいのです? 彼女たちは今、幸せな世界
にいるのですよ?」
不惜身命に立ち上がった傷だらけのグレーテルを見て、笛吹き男が分からないという顔ばせになる。
彼女たち――グレーテルの友達はみな、夢の世界に生きて、幸せな毎日を送っている。それなのに
何故それらを否定し、現実の厳しい世界に連れ戻そうとするのだろうか?
夢の世界ほど幸せなところはない。たとえ世界のすべてが幻だったとしても、そこに幸せを感じて、
その場所で〝生きていたい〟と思うのなら、それこそ『物語』はハッピーエンドに成り得るはずだ。
それだというのに何故――
「やくそく……したから……」
「約束?」
「花飾りの作りかたを教えてもらうって、ユーデリカちゃんと約束したから!」
グレーテルの頭部で桃色の花飾りが揺れる。観賞料を肩代わりした日、ユーデリカにお礼にと作っ
てもらった大切な花飾り。友情・希望・感謝を花言葉に持つ、周年の花ガーベラだ。
「そのような雑草のために、彼女たちの幸せを奪うとでも言うのですか?」
「雑草なんかじゃない!! この花は……」
ユーデリカの愛らしい表情が昨日のことのように浮かぶ。また明日ね。と手を振って帰っていった、
ユーデリカのあの幸せそうな表情が。
「この花は……一緒に花飾りを作るって約束した思い出の花。だから……」
乏しい語彙力をグレーテルなりに繋ぎ合わせ、笛吹き男に『本当の幸せ』を伝える。
「思いを想いのままで終わらせたくない! わたしはこの想いをカタチにしたい!!」
もう一度ユーデリカと会うために、彼女に花飾りの作りかたを教えてもらうために、グレーテルは
友達との約束を〝実現したい〟と強く訴えた。
「想いをカタチに、ですか。どこかで聞いたことのある言葉ですねぇ……」
笛吹き男が目を細め、グレーテルの心意気を瀬踏みする。その行為は、彼女の『想い』を感じ取っ
ているようにも、詮索しているようにも見えた。そして、
「なるほど……どうやら私は、貴女のことを甘くみていたようだ。先ほどの言葉といい、貴女から
は『真っ直ぐな温もり』を感じます。《幸遺伝子》――とでも言ったほうがよろしいですかな?」
鞭の先を地面へと垂らし、男はグレーテルが他の子ども達とは一戦を画した存在であると見極める。
「《童術・幻想魔笛ハーメルンフレーテ》」
利休白茶色の魔法円が彼の足元に出現する。右手に構えていた革鞭が下からの光に照射され、次第
にその形を変えていく。森の広場で男が語るように吹奏していた、彼の代名詞《銀色の横笛》へと。
「目障りなんですよ……宛てのない希望にすがる、聖職者ぶったその行為がね。幸せなんてものは、
偽りと幻想だけで充分です」
ギリリと奥歯を噛み殺し、男が銀色の横笛を口にする。指先が静かに動き始めたことを合図に、笛
吹き男による独奏会が開催された。牧歌的なメロディーが風に乗って泳ぎだす。いくつもの音楽記
号が森の中に溢れ返り、その場は瞬時にして、コンサートホールへと早変わりした。
「――っ!?」
不思議な音色を耳にしてグレーテルが立ち眩みを起こす。森の広場でも聞いていた、情緒纏綿な自
然曲。この旋律を耳にしていると、どうにも身体が宙ぶらりんになってしまう。すべての活力が根
こそぎ奪われて、多彩だった思考が一点のみに定められていく。
幻覚・幻聴・幻臭……五感のどれもが横笛の魔力に惑わされ、グレーテルは一種のトリップ状態に
陥った。身体が自分のものではなくなったみたいに重い。意識が笛吹き男から遠のいていく。
「眠りなさい。《童術・英霊鎮魂クリプタ・ロマーナ!》」
幻想の柱がグレーテルを貫き、彼女の視界が暗転する。深く深く、地下よりも深く身体が宵没する。
そして、次に目覚めた場所は、懐かしくも何かが違う、故郷の小さな小さな木造建ての実家だった。
「シュラーフ・グート・トロイメ・ズュース……それでは良い夢を――」
♪
『――テル、――レーテル』
まどろみの中に声が降ってくる。聖母のような悪魔のような、優しくも力強い活発的な女性の声だ。
『グレーテル!』
自身の名を強く呼ばれ、グレーテルは慌てた様子でハッと目を覚ました。
『グレーテル、どうしたの? さっきからボーっとして』
声の持ち主であろう女性が、こちらの顔色を伺うように覗き込んでくる。その女性を見て、グレー
テルは今の今まで、自分が食卓にて家族と食事を取っていたことに気づかされた。
「お……母さま? それに、お父さま??」
おそるおそる、目の前の女性に話しかけてみる。隣に目をやれば、そこには男性の姿もあった。紛
れもない。今、眼前に座っている男女の二人は、実家にいるはずの父親と母親だった。
『グレーテル。あなた、今日は少し様子が変よ。どこか体調でも悪いの?』
母親は食事の手を緩め、グレーテルの額に手を当てた。食卓には、グレーテルの大好物ばかりが並
んでいる。母親の手は少し冷たかったが、何よりもその手触りに、実感があったことが驚きだった。
『ん~熱はないようね。私の気にしすぎかしら』
グレーテルの額から母親が手を遠ざける。そんな母娘の様子が微笑ましかったのか、母親の隣でパ
ンを食べていた父親が静かに口を開いた。
『グレーテルが大人しいのは俺に似たのかもしれないな。父さんも小さい頃は物静かな子どもだっ
たからね。いつも家で本ばかり読んでいたよ』
父親は自分の過去を振り返り、自身の幼少期とグレーテルを重ね合わせた。
『あら? そんなはずないわ。グレーテルは私の子どもの頃にそっくりよ。赤い髪に天使の輪。お
料理にお洗濯に、お裁縫まで上手で、おっとりしているけど、しっかりしているとこなんて、私
と同じじゃない』
自慢の愛娘は自分に似たんだと、母親が父親に向かって反論する。
『いいや。確かに顔の造形は君にそっくりだけど、素直なとこや前向きなところは、俺の遺伝を引
き継いでいるね』
売り言葉に買い言葉。父親も負けじと抗弁する。
『そう。それじゃあ私は、素直じゃないってことかしら?』
『コ、コホン……』
ニヤニヤと意地悪な顔ばせになって母親が父親を困らせる。グレーテルはそんなカカア天下な日常
を懐かしく眺め、こちら側が現実で、黒い森に居たという事実こそが夢だったと錯覚し始めていた。
『ごちそうさま。それじゃあ仕事に行ってくるよ』
朝食を終え、仕事場へ向かう父親を玄関から送り出し、母親が食卓へと戻ってくる。
『ほらほら、グレーテルも早く食べちゃいなさい。そろそろお友達がやってくるわよ』
「おともだち?」
汁物にスプーンを沈ませたまま、グレーテルが母親を見上げた。母親は呆れた様子で息を吐き、
『あなた本当に今日は少し変よ。お友達って言ったら、ユーデリカちゃんたちに決まってるでしょ』
今だ状況が飲み込めていない娘の食事を急かす。グレーテルがスープの最後の一滴を飲み干したと
ころで、玄関付近から姦しい声が聞こえてきた。
『『『『『グレーテルちゃん! あーそーぼっ!!』』』』』
数人の女々しい声が一つになって戸を叩く。母親はグレーテルの髪を今一度梳いてやり、白いウサ
ギ型の背負い鞄をグレーテルに背負わせた。
『いい? 教会の夕鐘が鳴るまでには帰ってくるのよ。約束を破ったら、お夕飯はなしですからね』
母親がキョトンとしているグレーテルを玄関口まで誘導する。
「お、お母さま……わたし、朝食のあと片付けが……」
『後片付け? もーなに言ってるの。朝食の後片付けはお母さんのお仕事よ。グレーテルのお仕事
は、ユーデリカちゃんたちと遊ぶことでしょ。ほら、みんな待ってるわよ』
そう言って母親は玄関口を開け、グレーテルを外へと押し出した。淡く緩やかな陽射しが、涼風と
共に彼女を出迎える。空は青々としていて、季節は春真っ盛りだった。
玄関前には、グレーテルと同い年の少女が5人。それぞれが精一杯お粧しして、グレーテルが家か
ら出てくるのを待っていた。
『グレーテルちゃん、おはよー。昨日はよく眠れた?』
頭をお花盛りにした女の子が真っ先に話しかけてくる。女の子は花柄生地の白いワンピースに、花
柄模様の小さなハンドバック。両手首にたくさんのアクセサリーを身につけた、愛らしい出で立ち
をしていた。
グレーテルは何度も目を屡叩かせ、返そうとしていた挨拶を誤嚥した。頭の中に、白く、
溶け落ちるような衝撃が走る。
『ねえ、ねえ。ユーデリカちゃん。早く行こうよ』
ユーデリカの服を、後ろから別の女の子が引っ張った。
グレーテルと同じくらい長い、綺麗な長髪が特徴的な、お人形みたいな女の子だ。
『うん。グレーテルちゃん、いこっ』
二の句が告げず、軒先で立ち尽くしているグレーテルに、ユーデリカが手のひらを差し出した。淑
やかで、柔らかみのある小さな掌だ。
グレーテルは差し出された手のひらに、水をも漏らさぬ態勢で自分の手のひらを重ね合わせた。ふ
にゃりとした柔肌感が、体温越しに伝わってくる。
母親の時とおんなじだ。これらは全て自身の理想でしかないはずなのに、その感覚は、返すがえす
も現実味を帯びている。グレーテルは虚構すらも通説的事実に変えてしまう臨場感に、いよいよこ
れは夢なんかじゃないとユーデリカの手を握った。
フラウミルにナスターシャ、オリヴィアにバスティエンヌが、わいわいがやがやざわざわと、ユー
デリカとグレーテルの側に集まってくる。どうやら今日はオリヴィアの提案で、教会の裏手にある、
この村で一番大きいという築山を目指すことになっていた。
母親に見送られ、友達と共に軒先を離れたグレーテルは、忘れていたことを思い出したように、輪
の中心で愛想を振り撒いた。
そう――みんな、この村に住んでいる、小さいときからのお友達。最初から自分は『黒い森』にな
んて行っていなかったのだ。おおかた、長い夢でも見ていたに違いない。
これは現実。これは現実。これは現実。思えば思うほど、この村での生い立ちが鮮明になってくる。
父親がいて、母親がいて、友達がいて。大きくはないけれど帰ってこられる暖かいホームがあって。
間違いない。これが、この村での生活こそが、自分の『本当の物語』だ。決め手ならある。だって、
今、すっごく幸せを感じている。このままずっと、時間が止まってしまえばと心から思えるほどに。
グレーテルの背中で、白いウサギ型のリュックサックが揺れている。その姿はまるで、森に放たれ
た野兎のようだった。野兎は帰る場所を忘れたかのごとく、ぴょんぴょんと森の深層へ入っていく。
知らず知らずのうちに、自身が迷子になっているとも気づかずに――
♪
平地に近い山のふもとに辿り着き、6人はそれぞれ自分の鞄から、ピクニックシートを取り出した。
子どもたちだけで山頂に登ることは禁止されているので、この場所で腰を落ち着かせることにする。
『オリヴィアちゃんのピクニックシートかわいいね~』
『えへへ……きのう、パパに新しいの買ってもらったんだぁ。ナータちゃんのシートも綺麗な色~』
ナスターシャとオリヴィアが、原っぱにシートを広げながら互いのシートを持て栄やす。二人のシ
ートは、眺めていると目がチカチカするほど鮮やかでカラフルだった。赤色と黄色を縦横に配置し
たトーンオントーンのチェックはオリヴィア。木に葉っぱに果実にと、植物をふんだんに模した緑
色の図柄模様はナスターシャのものだ。
『オリヴィアちゃんとナータちゃんのシート羨ましいなぁ~私なんてコレだよ。すっごく地味』
そう言ってバスティエンヌが自身のピクニックシートを広げた。ほとんどの色が茶色で構成された
彼女のシートは、二人に比べれば、たしかに甘さを排した印象だが、それはそれで味わいがあった。
グレーテルの両隣にユーデリカとフラウミルが陣を獲る。少し大人びた花柄模様と、白色と水色の
縞模様に挟まれて、グレーテルは自分のピクニックシートを押し広げた。
何の飾り気もない紺一色のピクニックシート。控えめなバスティエンヌのシートと比べても、その
野暮ったさは際立っている。6人それぞれがシートを繋ぎ合わせたところで、各々(おのおの)は鞄からお菓子
を取り出した。
『はい、グレーテルちゃん。一粒あげる』
鞄からグミを取り出したユーデリカが、友達みんなにグミを分配した。グミの形はいくつもあって、
ハート型にフルーツ型、アニマル型に魔女型なんてものもあった。
グレーテルは手渡されたヒツジ型のグミを、おそるおそる口の中に放り込んだ。グミなんて高級品、
食べたこともなければ、都会でしか売っていないと聞く。そんな、未知なるものを食べたグレーテ
ルの表情が、たちまちのうちに綻んだ。
柔らかくて、モチモチしていて、それでいて甘くて……グレーテルはグミを噛みしめるたび、世の
中には、こんなにも美味しいものがあるのかと幸せな気持ちになった。
『グレーテルちゃん。これも食べて』
ナスターシャが箱の中に詰まった菓子パンを勧めてきた。アーモンドと砂糖を練り合わせて作った、
『マジパン』と呼ばれるものだ。グレーテルも昔、母親と一緒にマジパンを作った記憶がある。が、
今ではそのアーモンドがなかなか手に入らない。アーモンドはクルミやナッツよりも割高だからだ。
『そういえば、そろそろ村祭りの時期じゃない? 楽しみだなぁ』
ふいにオリヴィアが、何かを決意したかのように話し始めた。村祭りとは、月末に村の広場で開か
れる大規模なマーケットで、その日は朝から晩まで多くの出店が立ち並び、ちょっとしたお祭り騒
ぎになる。隣で村祭りの事を聞いたバスティエンヌが、ニヤニヤしながらオリヴィアに詰め寄った。
『オリヴィアちゃん。今度の村祭り、男の子を誘う気でしょ? 私、知ってるんだから』
『ち、違うよーそんなんじゃないよ。ただちょっと、いいなぁ~って気になってただけで……』
『なになに? なんの話? オリヴィアちゃん、好きな人がいるの??』
バスティエンヌとナスターシャに迫られて、オリヴィアが頬を赤らめる。
『す、好きっていうか……好みというか……』
『もー白状しちゃいなさいよ。好きなんでしょ? ブレージくんのこと』
まさかの実名報道に、オリヴィアが慌てて火消しに入った。
『ブレージくんって、あの金物屋のブレージくん? 私たちより2コくらい年下の子だよね?』
『あ~あの色が白くて女の子みたいな男の子かぁ……たしかに美少年だよね~』
ユーデリカとナスターシャが、ブレージの詳細を露にしていく。一方のオリヴィアは耳まで真っ赤
にして『違う違う』と連呼していた。いつもはボーイッシュな彼女が、乙女の一面を見せてくれる。
『わたしは、男の子よりも女の子がいいなぁ』
『えーそれって変だよフラウミルちゃん。女の子同士はキス出来ないんだよ?』
フラウミルの告白にバスティエンヌが盾を突く。フラウミルは隣のグレーテルに抱きついて、
『ううん。女の子どうしでもキスはできるもん。ねーグレーテルちゃん』
グレーテルの頬っぺたに軽くキスをした。グレーテルはびっくりして、バスティエンヌは顔を紅潮
させた。見てはいけないものを見てしまった恥ずかしさで、返す言葉がうまく出てこない。
『あーあー。グレーテルちゃんも一緒に学校にいけたらなぁ……』
グレーテルの身体に抱きついたまま、フラウミルは、教室にグレーテルがいない不満を燻し出した。
この中で学校に通えていないのはグレーテルだけで、他の子たちはみんな、村のバス停から近隣の
学校へ通学している。
『しかたないよ……グレーテルちゃんのお家、たいへんなんだから……』
『グレーテルちゃん、気にしないで。わたしたちが学校のこと全部おしえてあげるから』
ナスターシャとオリヴィアがグレーテルの様子を気にかける。学校のある日は週に5日。それ以外
では、今日のような休日にしかグレーテルとは遊ぶことができない。グレーテルの家は一人っ子と
いうこともあって、ナスターシャたちが学校に行っている日は、いつも一人ぼっちになってしまう。
一緒に学校に行けたらどんなに幸せなことか。
『わたし、グレーテルちゃんが学校にいけるように、先生にお願いしてみる』
ユーデリカがおもむろに立ち上がる。たしか、成績優秀な子には学費の免除とか、奨学制度なるも
のがあったはずだとみんなに訴える。
『うん。せっかく仲良しになれたんだから、学校でも一緒じゃなきゃ』
『わたしもグレーテルちゃんと一緒に、絵を描いたり、校庭で遊んだりしたいなぁ』
バスティエンヌとナスターシャが、ユーデリカの言葉に同意する。
『グレーテルちゃん可愛いから、変な男の子に絡まれないよう、私が守ってあげる』
『わたしもー』
オリヴィアが立ち上がり、フラウミルがグレーテルの手を引っ張った。みんながみんな、グレーテ
ルが学校へ行けることを望んでいる。その気持ちだけで、今まで遠かった学校という存在が、何倍
にも、何百倍にも近くなったような気がした。
『グレーテルちゃん。ぜったい、一緒に学校いこうね』
♪
その日の夜。夕食のコーンスープを口にしながら、グレーテルはユーデリカたちの言葉を思い返し
ていた。一緒に学校へ行こうと誘ってくれた数々の言葉。それらを思い返すたび、嬉しさと学校へ
の期待が高まっていく。ユーデリカたちと一緒に学校へ行きたい。それは、紛れもない本心だった。
『どうしたんだい、グレーテル? やけに上機嫌じゃないか。何か良いことでもあったのかい??』
父親が食事の手を緩め、グレーテルの表情から喜事を読み取った。
『ほら。今日はユーデリカちゃんたちが来てたから』
『ああ~そうだったね』
友達が遊びに来ていたという報告を母親から聞いて、父親は納得したように頷いた。
ユーデリカたちは、グレーテルがまだ小さかった頃から仲良くしてくれていて、学校に行けず、友
達のいないグレーテルを、毎週末、遊びに誘ってくれている。彼女たちのおかげで、グレーテルは
ずいぶんと明るくなった。グレーテルがふて腐れることなく、気遣いのできる優しい子に成長でき
たのも、ユーデリカたちの存在が大きかったからだ。
彼女たちは、間違いなくグレーテルの未来に希望を与えてくれた。グレーテルの未来に、夢を見ら
れるほどに。父親は、口にゆっくりとスープを運ぶグレーテルに、将来の夢路について尋ねてみた。
『グレーテル……グレーテルの夢は何だい?』
「ゆめ……?」
『ああ。こんなことをしてみたいとか、将来こうなりたいとか、何でもいい。今、グレーテルが一
番叶えたい夢を言ってごらん』
父親は、愛娘の将来が気になっていた。ユーデリカたちのおかげで娘の未来に希望が持てたことを、
嬉しく思っていたからだ。娘の将来が気になるのは親心からくるものだろう。
「わたしの、叶えたいゆめ……」
スープに浮かんだ、崩れた禾穀を眺め、グレーテルは様々な思考を張り巡らせた。
将来のことなんて、まったく考えたこともなかった。今日、明日を生きるのが精一杯な状況で、将
来のことを考えるのは、まさに『夢』のようだったからだ。
グレーテルは内心に秘めていた、強く、儚い想いを、父親に強くぶつけてみた。
「わたし……学校にいってみたい」
無理だということは分かっている。それでも……想いだけは強く持っていたかった。
ユーデリカたちと一緒に登校して、教室で勉強したり校庭で遊んだり、将来の夢について語り合っ
たり……たとえ叶わない夢だとしても、それを希望にしていれば、頑張れる気がしたからだ。
『学校? ふむ。学校か……』
父親の表情に陰りができる。やはり、夢は夢でしかないのが現実だ。うちの経済状況くらい分かっ
ている。グレーテルは、いくら夢とはいえ、父親に無理を言って困らせてしまったことを後悔した。
グレーテルの口数が少ないのは、両親に迷惑をかけまいと、彼女なりに気をつかっていたことが原
因でもある。幼少期より家庭の経済状況を理解していたグレーテルは、両親に無理を言って困らせ
てしまわぬよう、自己の主張を押し殺すことで、それが回避行動に繋がるものだと思っていた。
はたから見れば、我がままを言わない、大人しい子どもで通るかもしれないが、それは、グレーテ
ルが両親を想うがゆえに身に付けてしまった、一種の閉鎖的な症状とも言えた。
父親は少し考えたあと、真っ直ぐこちらを見ているグレーテルに、応じ報いるよう答えた。
『わかった……父さん、グレーテルが学校に行けるように、仕事の量を増やしてみるよ』
父親の口から出た思いがけない一言に、グレーテルが目を丸くする。
『あなた、仕事の量を増やすって……』
母親もグレーテルと同じような顔になっていた。グレーテルを学校に行かせてあげたいのは母親と
て山々だったが、一家の収入では、どうすることもできなかったからだ。
『いや、前々から話は貰っていたんだが、なかなかその話を切り出せなくてね。実は、俺が伐採し
た樹木や加工品を、近郊の町に持って行って売らないかって組合から言われていたんだ。なんで
も、この村で伐採される材木は品質が良いとか何とかで、高く評価してくれる人たちが町に大勢
いるらしい』
森林組合いわく、この村から伐採される材木はどれも品質が良いらしく、郊外でも取り引きが出来
るほど、信用に長けていると言う。
『でも……そうなったら……』
『そうだな。一度町に行くと数日間は帰ってこられない。出稼ぎに行くわけだからね。こうして家
族みんなで食事を取ることさえも、今より少なくなってしまうだろう。だからこそ、なかなか踏
み切れなかったんだ。母さんやグレーテルのことが心配だからね。だけど、グレーテルの夢を聞
いて決心がついたよ。俺はグレーテルの夢を叶えてあげたい。グレーテルを学校に連れて行って
あげたいってね。グレーテルには今までずっと我慢ばかりさせてきた。欲しいものも買ってやれ
ず、みんなと同じようなことをしてあげられなかった。だからこそせめて、学校にだけは行かせ
てあげたいんだ』
愛娘に対する父親の気持ちを聞いて、母親も青雲の志を抱いた。
『そうね……私も何か仕事がもらえないか、明日、村中を回ってみるわ』
母親が父親と顔を見合わせて相談をし始める。両親の口から出てくる言の葉は、どれもグレーテル
を学校に通わすための内容ばかりだった。
学校にいける、の? 目の前で話す両親の会話に聞き耳を立てる度、グレーテルは無理だと思って
いた出来事が現実になりそうな気がして、強い期待感に駆り立てられた。
これは夢なんじゃないかと何度も思った。学校のことで、こんなにも前向きに検討してくれている
両親は初めてだったからだ。グレーテルは心のどこかで、無理だと諦めていた学校への憧れが、少
しずつカタチになっているような感覚を覚え始めていた。
『グレーテル。父さんと母さんが、お前を近々学校に通わせてやる。だからグレーテルは、学校に
行けるようになったとき、みんなに勉強で置いていかれないよう、今からしっかりと勉強してお
くんだぞ』
父親から夢みたいな言葉をもらい、グレーテルは目を輝かせ、前髪が跳ね返るほど大きく首肯した。
(学校に……学校にいけるんだ……)
父親がいて、母親がいて、ユーデリカたちがいて……そして、学校にも行ける話になって、グレー
テルは、この上ない幸せに満たされていた。このままずっとこの世界にいたいと思うほど、この世
界は幸福感に溢れている。
だけど、何かが足りなかった――すべてが幸せで満たされているはずなのに、何かが足りていない。
グレーテルの物語から、何か、大切なモノが欠けているのだ。
そして、その欠けたピースがいったい何であったのか、それがグレーテルには分からなかった――
☆
薄暗い森の中。微かに冴える月明りの下で、少年少女が互いに『想い』をぶつけあっていた。
森の中央では、狼と面長の少年イーアーが、岩場付近では、王子と逆毛を立てたヴァオが、そして、
岩場の上では、白雪と和風な少女キカリが、それぞれ相手の出方を見計らっている。
そんな緊迫した状況の中、雑木林にもつれ込んだ赤頭巾と猫目の少女ミャウは、すでに戦闘を開始
していた――
「やあああっ!」
閑静な森の中に物騒な音が響き渡る。雑林から飛び出した赤頭巾は、オートマチック型のリボルバ
ー銃を構え、赤頭巾の姿を探し、立ち竦んでいるミャウに攻撃を仕掛けた。
「――!?」
背後を突かれたミャウが慌てて振り返る。
「わ、わっ、わぁ! 子どもが銃なんて撃ったらダメダメなんだからー!」
言い捨てて、『足踏み』の動作に入った。赤頭巾に向かって左足を半歩踏み開き、右足を左足に引
き付けて一足で扇形に展開する。両の足先が外八文字に展開したところで、ミャウは赤頭巾との射
位を確認し、大地を踏みしめた。
「《童術・弦鳴竪琴アルプハルプ!》」
承和色の魔法円が、赤頭巾との間に出現する。輝かしい光に押し返されて、赤頭巾が思わず視界を
蔽いこむ。光の消失後、ミャウの腕の中には四弦のストリングスが美しい、小型の改造ハープが握
り込まれていた。
「……楽器? ハープ?」
自ずと視線がミャウのハープに注がれる。見た限り、相手の術は赤頭巾と同じ『童具型』のようだ。
ミャウが『胴造り』を始める。腰を据え、左右の肩を沈めて総体の中心を腰の中央に置く。心気を
丹田に修め、『弓構え』の体勢に入った。
左手に構えたハープから、後方の右手にかけて『童術の矢』が形成される。四弦あるストリングス
のうち、一つだけに矢を取懸けて、両拳を同じ高さのまま静かに打起した。
「ちょ、ちょっと待って! その楽器ってまさか……」
赤頭巾の鉢額から冷たいものが滴り落ちる。今は亡き祖父がまだ生存していたころ、猟銃ではなく、
目の前の〝それ〟で獲物を狩猟していたことが脳裏を過ぎったからだ。
「待たないよ。散々、私のこと撃ったんだから、これでおあいこだねっ!」
左手拳を赤頭巾に向かって推し進め、右手拳を肩先まで矢束いっぱいに引く。頬づけを交わせる距
離で弦を軽く胸部に押し付けて、縦横十文字の規矩を構成した。
「わ、わっ、わぁ! 子どもが矢なんて放ったらダメダメなんだからー!」
言い捨てて、赤頭巾は踵を返した。
「敵に背中を見せるなんて『グリムの仔達』失格だよっ!」
矢束を引き締めたミャウの右手から『童術の矢』が離れる。ポロロロ~ン♪ と、矢が平行に並ん
だ他のストリングスを巻き込んで優雅な音を弾き出す。波長によって空域が揺れ、風が赤頭巾の足
元を掬った。
「いっ――!?」
雑林を前に転倒し、赤頭巾が背後を振り返った。ドゴォオオン!! 『童術の矢』が爆発を起こす。
辺りは深い霧のごとく白煙に包まれて、残煙から畑焼きの臭いが漂ってくる。
「うぅ~森に姿を消すなんて卑怯だよ」
草むらに残った数発の銃痕を捉え、ミャウが地団駄を踏んだ。
「ハァ、ハァ……卑怯だなんて言われても、これが私の戦い方……おじいちゃんに教えてもらった、
狩人術の一つなんだもん……」
樹木の一つに身を隠し、赤頭巾は呼吸を整えた。彼女は左手の銃で『童術の矢』を牽制し、右手の
銃で地面に反動をつけて森に転がり込んでいた。
「あの子の術も遠距離型かぁ……飛び道具同士って相性悪いんだよね……」
短銃のグリップ底から魔法円を形成し、タクティカルリボルバーに『童術の弾』を充填する。相手
の《童術》が遠距離型と判明した以上、撃ち合いになることが予測されたからだ。
「でもっ――!」
充填を終えた赤頭巾が木陰から転がるように飛び出した。両手の短銃をバッテンに構え、ミャウに
向かって連射する。タタタタタッと両銃口が火を噴いて、数十発の『童術の弾』が一気に飛翔した。
「そっちは『弓矢』で、こっちは『拳銃』よ! 撃ち合いなら、私のほうが有利なんだからっ!!」
「――っ!」
相殺が間に合わないと判断したのか、ミャウは矢を練成することを諦め、そのまま右手でハープを
弾き鳴らした。たおやかなメロディーが波打つ波長を作り出し、進退きわまる銃弾の嵐を押し返す。
「ええーっ!?」
草むらに沈む銃弾の骸を蹴散らして、ミャウが今一度『足踏み』の動作に入った。
「ちょっと、ちょっと! その楽器、攻撃も防御も出来るなんて卑怯じゃない?」
「あなたのほうが有利なんでしょ? 悪いけど、今度こそ射抜かせてもらうよ!」
『胴造り』から『弓構え』までの動作をスムーズに終え、再び右手に『童術の矢』を練成する。標
的はもちろん赤頭巾だ。赤頭巾はやむを得ずミャウから距離を取り、矢を放つ瞬間を見極めていた。
(大丈夫……さっきのあの速度なら私の瞬発力でも避けきれる……)
ピーンと張った人差し指をトリガーにかけ、赤頭巾がジリジリと草むらを踏み鳴らす。
「射抜いて! アルプハルプ!!」
『打越し』から『離れ』まで、ミャウが無駄のない動きで矢を解き放つ。その眼には、矢所の着点
である、赤頭巾の姿が映っていた。美しい流音がポロン♪ と鳴り響く。矢は赤頭巾に向かって一
直線に走った。
赤頭巾が動く。矢が射抜かれるよりも先に、横への回避行動を取り、そのまま残身中のミャウに短
銃の筒先を向ける――その、手はずだったのだが……。
「ああっ!」
『童術の矢』が赤頭巾のわき腹をえぐり取り、後ろの木立に突き刺さる。射抜かれたと気づいた時
には、すでに地面を鮮血で染めており、鋭い痛みが容赦なくやってきていた。
「――っ! あ、ああ……」
わき腹を押さえ、よろよろと後ずさる。遠くでミャウが妖猫の顔になっているのが分かった。
(……なんで? どうして? どうして読みが外れたの……?)
流血と痛みを必死に押さえ込み、赤頭巾がミャウから背走する。このまま次の矢を放たれたらお終
いだ。一旦、森に身を隠さなければ……草むらに血痕を残しながら、赤頭巾が森の中に身を引いた。
「ふ~ん。また逃げるんだ……いいよ。だったら炙り出してあげる」
ミャウが『打越し』の体勢になる。しかしながら、今度は少し構えが違った。矢の先を雑林より上
に向け、斜面に打越しを行う。
「知ってる? ネコの目って視野が広く、暗闇の中だってよく見えてるってこと」
幽かに映える小望月に焦点を結び、斜め上に『引分け』る。
「早く出てこないと、串刺しになっちゃうよっ!」
ポロロロ~ン♪ 素敵な音色を爪弾いて、ハープから『童術の矢』が放たれた。矢はなだらかな起
状を描き、山なりに沿って雑林へと伸びて行く。月光に照らされた『童術の矢』が、キラキラと輝
き放ちながら対象物を襲った。
「痛ったぁ……これ後で傷跡が残っちゃうよ……」
ポケットから取り出したハンカチで傷口を塞ぎ、わき腹の出血を止血する。30以上のサバイバル
術を身に付けている赤頭巾にとって、応急処置はお手のものだった。
「あとはこの薬草を塗りこんで、っ! なんとか……痛みは治まりそうね」
さらに彼女は、万一に備えて準備しておいた『オトギリソウの実』を搾り、搾り汁を傷口に塗布し
て痛みの鎮痛に役立てた。
「それにしても……どうしてあの時、矢の速度が違ったのかしら……『会』の体勢は同じだったは
ずなのに……」
木立の影からそおっと顔を出し、赤頭巾がミャウの姿を探した。一先ず森の中なら安心だ。まばら
に立ち並んだ樹木たちが、矢避けの役割を果たしてくれる。同じ遠距離型とはいえ、赤頭巾はどち
らかというと、中・近距離型の銃使いだ。森の中にミャウが入ってきたら、近接戦に持ち込むこと
だってできる。
「さっきみたいなヘマはもうしない。一気に距離を詰めて、楽器を弾き鳴らす暇さえ与えなければ」
ハープ攻略の算段を立て、赤頭巾が木立から出ようとした時だ。頭上から月の光が射し込んで来た。
「――!? うそでしょ!?」
草むらを這うように木立から離れる。先ほどまで赤頭巾が座っていた場所に『童術の矢』が打ち刺
さった。思わず空を、満月に近い小望月を見上げた。
雲居の隙間から、数十本の矢が柳のごとく曲線を描いている。そしてそれらは、すべてこちらを目
指して次々に降ってきた。
「曲射!? なんでこっちの居場所が分かるのよー!!」
霰のような矢の雨を掻い潜り、所狭しと雑林を駆け回る。空には次々と矢が打ち上げられ、赤頭巾
の逃げ道を雑林の外へと誘導していた。
「もー! あったまきた。絶対、絶対、ぜーったい、眉間に風穴、開けてやるんだからー!!」
曲射の嵐を乗り切って、赤頭巾はミャウに誘導されるがまま雑林の奥から転がるように抜け出した。
「ようやく出てきたね。これで終わりだよ」
矢束を引いて、頬づけを交わす。ミャウはすでに次矢をセットしていて、赤頭巾が這い出てくる場
所に、矢所の着点を敷いていた。
「あわわわっ! ピンチの予感!?」
「エンドの間違いだね」
言うより早く、ハープから『童術の矢』が解き放たれた。ポロロ~ン♪
(矢の速度が――! また違う!?)
「きゃあああっー!!」
『童術の矢』が赤頭巾に直撃した。爆風でお気に入りのケープが捲れ上がる。二つ結びにしていた
リンゴの髪留めが弾き飛び、両手から鶏銃が零れ落ちた。
ダァーン。赤頭巾の身体が草むらに打ち付けられ、弾みで何度か反り返った。
「ハァ、ハァ……やった。『グリムの仔達』を相手に、初めて勝ったよ……」
ヘナヘナと草むらに膝を着き、ミャウが小さく勝利を噛みしめた。
「私は悪くないもん……あなたたちが……あなたたちが私たちの邪魔をするのがいけないんだから」
☆
赤頭巾とミャウの戦闘が始まって数分後。岩場の下で睨み合っていた、王子とヴァオも動き始めた。
「さあーて、どうしてやろうか」
少しめんどくさそうに、ヴァオが髪先を弄くった。ハリネズミのように尖がった灰色の髪は、触れ
たら怪我をしそうなくらいがっちりと固められていて、ちょっとやそっと動いたくらいでは、崩れ
ない造りになっていた。もはや、凶器と言っても過言ではない。
「雪のことが心配なんでね。悪いけど早々にケリを付けさせてもらうよ」
「はっ。笑えねぇ冗談言うなよ。見たところ、場数を踏んでいるようには見えねーんだけど?」
挑発的なヴァオの言葉に、岩場の上から少女の鼓舞がする。
「ヴァオ……油断すんな。こいつら、あたいたちと同じ『グリムの仔達』だ……どんな能力を隠し
持っているか分からない……」
目の前の敵――白雪から視線を逸らさず、キカリがひょうひょうとしているヴァオに忠告を促した。
「分ーってるって。お前こそ、そこの可愛い子ちゃんに見た目でやられんなよ」
「ちっ……よけいなお世話だ。自分が美人ではないことくらい分かっているっ」
ふて腐れて募った苛立ちを、両手に持った金管楽器に籠める。スライド管の支柱を朝顔が下にくる
よう握り締め、ウォーター・キイから煙のようなものを吐き出した。
「上空に……跳ぶおつもりですね?」
「ああ。これがあたいの戦い方なんでね。卑怯だなんて言葉は、あの世に持っていきな」
「卑怯だなんてとんでもございませんわ。それが貴女の戦い方なら、私はそれに打ち勝つのみです」
白薔薇のフルーレを目の前で掲げ、白雪が典礼の型を披露する。その一連の動きに隙はなく、キカ
リの両手には、流れるほどの手汗が出来ていた。
(この女……育ちが良いだけのお嬢様じゃないようね)
両膝を折り曲げて力を込め、朝顔から熱気を噴射して、キカリが月夜に舞い上がった。
「《童術・吹鳴喇叭キュールタイン!》」
停止耐管に溜めていた空圧を、マウスピースから両門一気に開放した。反動風が主管抜差管を通り、
朝顔から逆噴射される。吐き出された空圧は、やがて空砲弾に変わり、地上にいる白雪を襲撃した。
「おっ? キカリの奴……殺る気だな。オーケィ。んじゃあこっちも、ちゃっちゃっと始めようぜ」
「――!?」
灰藍色の魔法円が輝きと共にヴァオの左右に展開する。左右の魔法円に両手を差し込んで、
「 《童術・鈴鳴太鼓レルム・ベル!》」
光の消失から僅か数秒で王子に飛びかかった。王子は腰に隠していた剣でヴァオの攻撃を防御した。
王子の所持していた長剣が真っ二つに折れる。シャリーン♪ 鈴の音と、刃の折れる音が共鳴した。
「おいおい……そんな陳腐な長刀で防ぎきれるとでも思っていたのかよ。ええ?」
ヴァオの両手には、数個の鈴が付いたヘッドレスタンバリンが握られていた。通常のタンバリンと
違うのは、胴枠全体が鋭利な刃物になっていて、投擲武器として円形刀にも、打撃武器としてナッ
クルダスターにも併用できる、暗殺者向けの『近接童具』に改造されていたことだ。
「ならば――!」
王子が地面に片手を着き、地上に黄色い魔法円を出現させる。光が彼の身体を包み込み、見る見る
うちに光が大きくなっていく。
「《童術・変想ファンタスマゴリーク F/レーヴェ!》」
タエマナシ王子は、光の消失と共に、人間の形姿から金色のタテガミが美しい、白毛の獅子へと変
身した。ヴァオの表情から余裕が消える。
「おっと……こいつは骨を折りそうだな」
小望月に向かって、白獅子が遠吠えを挙げた。伸びのある、高音域の獅子吼は、さながら開戦の幕
開けを連想させた。
☆
森の津津浦浦で、仲間たちが激しい剣戟を繰り広げている中、音楽隊の首席奏者であるイーアーと、
『黒い森』最強の男――狼は、今だ、笛吹けども踊らず、互いに夜風の波に浚われていた。
「よい月だな。演奏にはもってこいの夜だ」
満月に近い小望月を眺め、イーアーが夜風を扇いだ。森のあちこちからは、様々な楽器音が小枝を
揺さぶるよう響いている。
「音楽はいいぞ~誰もが幸せな気持ちになれる。音符一つで、多くの笑顔が生まれているのだ」
「ふん。興味ないな」
狼が面倒くさそうに切り捨てる。彼にとって深夜の楽器音は、ただただ眠りを妨げるだけの迷惑行
為にしか見えないようだ。
「ふむ……なんとも不幸な男よ。音に愛されず、楽のない世界で育ってきたのだな」
哀惜の気持ちを狼に向け、イーアーがありえないと首を振る。
「なら、せっかくだ。この俺が、素晴らしい演奏を披露してやろう。遠慮はいらぬぞ。気持ちが幸
せになるまで、たっぷりと聞いていくがよい」
イーアーの『想い』が松葉色の魔法円に変わり、静かな夜に張り詰めた空気が流れ込んだ。演奏前、
指揮者の最初の構えで、奏者・客席が一瞬静まり返る、あの始まりの空間に似ている。
「《童術・打鳴鍵盤シュヴァルヴァーシルト!》」
魔法円の輝きが最高潮になり、溢れんばかりの光源からイーアーの愛用楽器が現れる。マーチング
キーボード、そう呼ばれている鍵盤楽器だ。
イーアーの指が鍵盤に触れる。キャリングホルダーは付いていないのか、キーボードの先端をギタ
ーのネックを握るように持ち、右手で器用に白黒を打つ。途端、キーボードが弾かれたように振動
し、鍵盤の周囲に、内蔵されていた電子部品が外枠のように飛び出した。
鍵盤型の大型盾――それが彼の童術だった。
「ソード・シールドってやつか……」
イーアーの楽器型童具を拝見して、狼がこれまた厄介なモノを出してきたなと辟易する。だいたい
盾というものは、守りに関しては鉄壁を誇る代物だが、攻めの武器としては心許ない代物だ。
だが、電子部品が展開したイーアーの盾は、その形状が根本的に違った。
高音盤に近い先端部分は、電子部品が組み合わさって、大型の半月刃を形成しているし、鍵盤を囲
む外枠は、頑丈な金属部品で覆われている。そのため、守るための武器――と言うよりかは、殴る
ための武器――と言ったほうが、さながら賢明だった。
「役者は揃った。今宵、愚者を導くための葬奏会を始めよう」
ドスン! キーボードの底を草むらに打ちつけ、イーアーの目が狼を捉えた。
「音符を抱いて、散るがよい」




