Ⅶ 『夢の中②』
『夜』というものを、グレーテルはほとんど知らない。
『夜』について知っていることと言えば、夜になっても家に帰らない子どもたちを、道化のような
物の怪が拐っていくという言い伝えだけ。
それ故にグレーテルは、『夜』=『怖いモノ』――そう認識するようになっていた。
いつだったか、母親に尋ねてみたことがある。
道化のような物の怪とは、いったいどのようなものなのかと。
母親は少し困ったような表情をしていたが、グレーテルに向き合ってすぐに答えてくれた。
あの時のことは今でも覚えている。
そして、母親にあんなことを聞かなければよかったと、泣く泣く後悔した。
道化のような物の怪――あれは絶対に母親のことを指していたんだと思う。
だって悪魔のような形相で、「こんな感じよ」なんて言ってくるのだから。
グレーテルはますます『夜』が恐ろしくなった。悪魔なんかに拐われたら一たまりもない。
夜は怖いモノ……夜は怖いモノ……夜は怖いモノ……。自分に何度も何度も言い聞かせた。
夜は怖いモノ――そう、夜は『怖いモノ』なんだと、ずっとずっと乖離感覚に陥っていた。
光が見えないのは嫌だ。光が無いのは嫌だ。光が消えるのは嫌だ。気がつけば、光を欲するあまり、
グレーテルは『夜』という存在を、自身から遠ざけるようになっていた。
日頃は早寝早起きに順応し、夜頃は絶対に外を出歩かない。そんな生活を何年も続けているうちに、
自然と身体は夜を求めなくなった。夜陰が近づけば、阿吽の呼吸で睡魔も近づくというように。
それがいつからだろう。真夜中に目を覚ますようになったのは。
いつも夢うつつで、鮮明に覚えているわけではないが、空を、星を、月を観ていたことだけは記憶
にはっきりと残っている。おそらくこれは、自身の不安から生まれた欲望的な現象なんだろう。
朝起きて、隣に兄の姿がなかったら……スヤスヤと自分が眠っている間に、もし兄が消えてしまっ
たら……そんな恐怖にも似た不安感が、知らず知らずの内に症状として表れていたのかもしれない。
だからだろう。真夜中に目を覚ますようになったのは。自分の隣に兄がいることを、きちんと確か
めたかったんだと思う。そしていつしかそれは、安心から楽しみへと変わっていた。
真夜中に目を覚ませば兄がいる。兄が窓辺に寄り添って夜空を眺めている。起き出せば、必ず兄は
振り返ってくれる。そんな大好きな兄と一緒になって眺める星空が、グレーテルにとって密かな楽
しみになっていた。
夜は怖いモノ……そう思っていたはずなのに、兄と一緒なら不思議とそれが和らいでいく。真夜中
に目を覚まし、窓辺で夜空を観ている兄を発見すると、ものすごく安心した。いつまでも一緒にい
たいと思った。
いつしか『夜』は、『怖いモノ』から『楽しいモノ』へと変わっていた。
真夜中の黒い森を、一人でも歩いて行けるほどに――
――恐れるもモノなんて何もなかった。牧歌的なメロディーが、物怖じしていたはずの夜らを薫風
と共に振り払ってくれる。そして、代わりに用意された光景は、吸い込まれるような深い青に、金
のさし色が入り混じった、まさにラピスラズリを想わせる満天の星空だった。
グレーテルが思わず「すごい……」と口にする。
さらに星空は、天体だけの独占場ではなかった。グレーテルが歩いている闇路には、井桁に組まれ
たガラス板が等間隔で敷き詰められていて、そこに天伝いの星空が照応するかのように映えている。
そのため、ガラス板の真下にも天満星が広がって見え、まるで宇宙の中心を歩いているようだった。
肌に当たる風が心地よい。冷たいわけでもなく、暖かいわけでもない。このまま眠りにつけそうな
くらいの柔らかさがある。気がつけば、グレーテルは子羊の背中に跨っていた。
子羊が背中にグレーテルを乗せ空を飛ぶ。地上から空上へと視界が移り、道の先に地平線が見えた。
「わぁ……」
星空が回る。鐘やら魚群やら花火やらがグレーテルの周りを過ぎて行く。地上のガラス板に再び視
線を戻すと、そこには『△(さんかく)』と『□(しかく)』だけで出来た、積み木のような家が何件か建っていた。
小さな積み木の家がクルクルと自転する。目を凝らして観て見ると、家はどれも☆の形をしている
ではないか。その星型の家に灯りが点り、小窓が一つ、また一つと夜空に昇っていく。夜空に着く
頃には、小窓も星の形になっていた――
「ようこそ。夢の町『ハーメルンヘヴン』へ」
男の声が真夜中のパレードに終わりを告げる。満天の星空もガラスの中道も、空飛ぶ子羊も柔らか
な風も、すべてが夢幻だったと言うように一瞬で終わりを迎えた。
「ここは……」
現実に引き戻されて、グレーテルが辺りを見渡した。
森の中は森の中なのだが、雰囲気が近辺の森とは少し違う。黒い森の中でも都のような場所だ。
まず、川がある。でもそれは、鉱山から流れているような小さな川ではない。橋がなければ渡れな
いほどの、大きな大きな大河だ。河川の側を水流に沿って歩いていくと、川岸から川岸に向かって、
アーチ状の石橋が架かっていた。橋の向こう側は暗くてよく見えないが、石橋に隣接するように水
車小屋が設けられている。誰かが手入れを施しているのか、水車はゴロゴロとゆったり回っていた。
「水車小屋を見るのは初めてですか?」
橋のほうから男の声がする。男はアーチ橋の縁に腰をかけ、月明かりの下で優雅に横笛を吹いてい
た。風変わりな帽子に、色調の異なる色鮮やかなまだら服。一見、宮廷道化師を想わせる、奇妙な
格好の少年だ。森の広場でも寡黙に吹奏していたのを覚えている。
「貴女とお話をするのはこれで二回目ですかね。ようこそいらっしゃいました。貴女様でちょうど
100人目でございます」
まだら男が縁から腰を上げ、グレーテルに向かって深々と一礼をした。
「100人目……?」
「はい。貴女は名誉ある100人目の『ハーメルン市民』に選ばれました」
奇妙な帽子の下で男が不適に笑う。
「詳しい話は石橋の向こう側――夢の町『ハーメルンヘヴン』でするといたしましょう。貴女様の
大切な〝お友達〟もお待ちになっておりますよ」
友達? グレーテルがユーデリカやフラウミルたちのことを思い出す。もしかして、この橋の先に、
彼女たちが口にしていた『夢の世界』とやらがあると言うのだろうか。
ユーデリカたちに会えることを期待して、グレーテルはまだら男が立っているアーチ橋に近づいた。
「ご案内します。どうぞこちらへ」
☆
まだら男に案内された所は、これまた不思議な場所だった。先ほどまで真っ暗な夜だったはずのに、
石橋の向こう側は、緩やかな陽光に照らされていたからだ。
空は青色、雲は白色、大地は緑色。今しがた自分が渡ってきた石橋は、虹色のアーチ橋に成り変っ
ている。本当にここは黒い森の敷地内なのだろうか。下草揺れる緑野の先には、白壁造の建物が門
を構えてグレーテルを待っていた。
「あちらに見えていますのが、夢の町『ハーメルンヘヴン』の市門でございます」
牧草地を進みながら、まだら男が観光案内人のようにグレーテルを引率する。グレーテルは不安を
抱えながらも男の後についていき、市門の先にユーデリカやフラウミルたちがいることを心願した。
男が市門の手前で立ち止まる。門扉は重い樫の木で作られていて、表には鉄の薄板が打たれていた。
門の幅はおおよそ8~10メートルほどで、人馬と荷台が余裕をもって通れる広さだった。
男は横笛を口にして、開門の調べを礼奏した。キリキリキリキリと鎖が巻き上がり歯車が回りだす。
重門が仕掛けによって響動めいて、下から徐々に市門の先が露になっていく。
「では、参りましょう」
町への入り口が完全に開かれ、まだら男とグレーテルは夢の町へと足を踏み入れた。夢の町はグレ
ーテルが生まれた小さな村とは違って、いわゆる都会圏に属する領域だった。
「先ほどの門は、『ヴェーゼル門』とも『ヴェーゼルフォルテ』とも呼ばれているんですよ」
真正面に黒ずんだ建物を捉え、まだら男は門の命名が近くの川に由来していることを語った。どう
やら黒い森と夢の町の間を流れていた、あの大河のことを言っているらしい。
まだら男とグレーテルは黒ずんだ建物を通り過ぎ、交叉する広道を左へと折れ曲がった。
「ここから先は『ベッカー通り』と呼ばれていて、この町のメインストリートにもなっています」
立派な木組み白壁造の家が、道路を挟んでずっと奥にまで伸びている。まだら男が説明したとおり、
たしかにメインストリートと呼ばれるだけの道がそこにはあった。しかしながら、ここにきてグレ
ーテルの気がかりがますます強くなる。市門を抜けた辺りからオカシイとは感じていたが、ベッカ
ー通りを前にして、いよいよそれは違和感ではなかったと証明された。
町のメインストリートなのに、住民が誰一人として歩いていないのだ。町並みはこんなにも都会的
なのに、人の姿だけが一切見当たらない。この場所が夢の町だとして、住民がグレーテルを合わせ
て100人しかいないということを考慮したとしても、あまりにも静かすぎないだろうか。
グレーテルのそんな疑問に、まだら男がニッコリと答えた。
「この辺りは『ボニファティウス津院』のイムニテート(権力の介入が許されない)領域なのですよ。
エーフェルシュタイン家とフルダ修道院の関係はご存知ですかな? 簡潔に説明しますと、ボニ
ファティウス津院は、もともとフルダの支配下だったのですが、津院がミンデン司教区に併合さ
れたため、フルダの支配から脱することになりました。津院にはフルダの修道司祭が何人か残っ
ていましたが、その影響力は津院の長を承認する程度のもので、それもやがて、独立を援助した
エーフェルシュタイン家によって取って代わられました。以後、津院の支配権はエーフェルシュ
タイン家に移り、この町の支配者、フルダ修道院の権力が及ばない場所へとなったのです」
つまるところ、この領域にはフルダの権力が介入できないと言うことなのだろう。住民の姿が見当
たらないのは、この辺りの領域がハーメルンにおける旧市場定住地だったからと説明された。おそ
らくは、ここで市民を味方につけたエーフェルシュタイン家が、ハーメルンの町を一層大きくして
いったに違いない。ベッカー通りをしばらく突き進むと、そこには新しい町の中心があった。
まず広場の右手にはホッホツァイトハウス(結婚式の家)。そこから東門にかけては『オスター通り』
と呼ばれる、ベッカー通りに次ぐメインストリートが走っている。ホッホツァイトハウスの隣には
『市参事会堂』、裏手には教会が建っていた。
教会の名は『マルクト教会』――人によっては『ニコライ教会』とも言及されていて、ビール醸造
業者であった、守護者〈ニコラウス〉に捧げられたものだと語られている。
市参事会堂の前を通り過ぎ、少し進んで左に入ると、まだら男がおもむろに立ち止まった。
そこはハーメルンの町が出来る以前からの『隷農の村落』だった。空気は埃っぽく、牛や鶏の匂い
が微かに鼻につく。この辺りの家はベッカー通りの家々と比べて、大変貧しい佇まいになっていた。
ハーメルン市民の中でも、醸造権を持っていなかった下層市民の家々だと思われる。
「ここは『原初村落ハーメルン』……ハーメルンの始まりにして終わりの場所。貴女方『良い子た
ち』を、夢の町『ハーメルンヘヴン』へと運ぶ、出発地点でございます」
男が再び笛を口にする。次の瞬間、村落の光景が滑らかに変化した。
村が、町が、人が。ハーメルンの古い記憶が甦る。まるで、遠き日のハーメルンを見ているかのよ
うに、モノクロの幻影がパッと現れてはパッと消えていく。幻影の中には、まだら男の幼少期と思
われる姿も映っていた。
そして、モノクロの世界に光が舞い込んだ。白黒だった情景に、様々な色調が付け加えられていく。
気がつけば、先ほどまで立っていた場所は草原と化していて、代わりにガラス細工のような球体が、
グレーテルを取り囲むように浮かんでいた。球体はガラス細工よりも圧倒的に薄く、少しばかり触
れるだけで、簡単に割れしまいそうなほど繊細だった。
球体の一つに近づいて、グレーテルが中身を覗き込む。
「――!!」
驚いた様子のグレーテルに、背後から笛吹き男が声をかけた。
「何をそんなに驚いているのです? 貴女と〝お友達〟の感動の再会ではありませんか」
まだら男がグレーテルに歩み寄る。
グレーテルは男から下がるように距離を取って、背中のヌイグルミに手をかけた。
「あ……!」
グレーテルが後ろを振り返る。大切なヌイグルミが背中に無い――いつも当たり前のように背負っ
ていたから、今の今までヌイグルミを忘れてきたことに気がつかなかったようだ。
「心配なんかしなくてもいいんですよ。貴女もあのお友達のように、すぐに夢の世界へ連れて行っ
てあげますから。さ、無駄な抵抗はおよしなさい」
ジリジリとまだら男が近づいてくる。球体の中にいたのは、間違いなくユーデリカだった。彼女は
安らかな表情で夢でも見ているかのように眠っていた。ユーデリカが球体の中にいるということは、
ここに浮いてある全ての球体に、森の広場から消えた子どもたちが閉じ込められていることになる。
フラウミルにナスターシャ、オリヴィアにバスティエンヌ。みんなもきっと、この中にいるはずだ。
「夢の世界はいいところですよ。きっと、帰りたくないほどの世界が貴女を待っています。お友達
の安らかな表情を貴女もご覧になったでしょう? 現実の黒い森で生きていくより、夢の世界に
いたほうが彼女たちは幸せなんですよ」
まだら男の手がグレーテルに伸びる。夢の世界にいることが幸せだって? それはユーデリカたち
が望んだ本当の幸せだというのだろうか。
――バシッイィ!
グレーテルがまだら男の手を弾き返す。森の広場でユーデリカが見せたあの笑顔に偽りはなかった。
彼女だけじゃない。広場にいた子どもたち全員が、紙芝居の中に幸せを感じていたはずだ。
また明日ねと約束をしたユーデリカが、自ら望んで夢の世界に行くなんてはずがない!!
「みんなを……ここから返して!」
灰色の瞳がまだら男を睨みつける。手元にヌイグルミがない以上、どこまで戦えるかは分からない
が、彼の考えにはどうしても賛成できなかった。
「やれやれ……まさか『良い子たち』の中に『悪い子』が混じっていたとは。どうやら幻術のかか
りが弱かったみたいですねぇ……」
まだら男が横笛の先端をグレーテルに突きつける。
「いいでしょう。すぐに後悔することになりますよ。夢の世界にいたほうが幸せだったとね」
☆
月の輝きが弱くなる。同じ黒い森だというのに、中央区の森は東区の森よりもいっそう暗く感じた。
「……ったく、いったいどこに向かってやがる」
木立の影に身を這わせながら、狼が先頭を切って子どもたちを追尾する。中央エリアに入ってから、
かれこれ15分はこの調子だ。子どもたちが笛吹き男と合流する気配は一向にない。
「油断は禁物だよ狼くん。どこに笛吹き男が潜んでいるか分かんないんだから」
イラ立ちを隠せない狼の側に、赤頭巾が引っ付くように身を滑らせる。
「ふん。そんなことは分かっている。俺が気にしているのは、〝何故あいつらは真っ直ぐに目的地
に向かわないのか〟ってところだ」
「え? 真っ直ぐに……? それってどうゆうこと??」
赤頭巾がキョトンとした表情で狼の横顔を見上げた。狼は月光に冴える白樺の森を細見し、今いる
この森が、すでに通り抜けてきた森であることを赤頭巾たちに伝えた。
「もしかして……私たち、同じところをグルグル回っているの?」
「いや、同じ場所と言っても、まったく同じ道を通っているわけではない。どうにも、あいつらと
俺たちでは〝見えているモノ〟が違うようだ」
「見えているモノが違う……? じゃあ、あの子たちはいったい何を見て……」
『夢の世界だ』
森の岩場、月輪に照らされたその上から野太い声が響き渡る。
「ちっ……面倒なことになったな」
狼が軽く舌打ちを噛まし、岩場に立つ4つの影を睨み付けた。
『一つ……生きとし生ける者に明日への希望を』
『ふたぁーつ! 夜の悪事は許、し、ま、せん!!』
『み、みっつ……みんなが待っている……』
『…………』
岩場から順番に名乗りが始まり、最後に4人――いや、3人全員が声を合わせ、
『『『我ら、ブレーメンの音楽隊!!』』』
ドーーン!! 背後で空想の爆発が起きた。岩下には4つの影が一つに合わさって、大きな大きな
お化けのような影を創り出している。ヘンゼルたち5人は月光を背景に、4人の珍入者と対峙した。
「ふふふっ……いやー決まりましたね! イーアーさん!!」
「うむ。見事だ」
「わわ。こ、これ、やっぱりちょっと恥ずかしいよ~」
両手を右斜め上に構えた少年が、センターポジションで腕組みをしている少年に顔を向ける。満足
そうな少年の左下では、猫目の少女がやや恥ずかしそうにポーズを決めていた。
「……って、キカリ! お前もやれよっ!!」
少年の一人が右上に位置していた少女に憤慨する。名乗りのときにも、決めポーズのときにも参加
していなかった、和の雰囲気を持つ小柄な少女だ。少女はため息と共に腰に手を当てて、
「絶対にいや」
ぷいっとそっぽを向く。とはいえ、その姿形が立ち位置的には絵になっていた。
「ヴァオ、ミャウ、見てみろ。俺たちのカッコイイ登場に、奴らは声を失っている」
イーアーと呼ばれた面長の少年が、岩下で沈黙しているヘンゼルたちを見下ろした。ヘンゼルたち
は唖然とした表情で岩の上を眺め、どう述べていいのか目をパチクリさせて迷っていた。
そんな中一人だけ、ブレーメンの音楽隊に好奇の眼差しを向ける者がいた。
「……か、カッコイイー! ねえねえ、あの子たちすっごくカッコイイよ!! 何あの決めポーズ。
シャキーンって。私たちもあんなのやりたいよー! ねえねえ、そう思わない白雪さん?」
「え、ええ……良いのではないでしょうか……」
「でしょでしょ! 王子くんもそう思うよね?」
「う、うん。素晴らしいんじゃ……ないかな?」
目をキラキラとさせて、赤頭巾が音楽隊の決めポーズを真似してみる。
「イーアーさん。俺たちのカッコよさが分かるなんて、あの子センスありますよ。どうです? 我
々の仲間に誘ってみては?」
「嬉しい限りだ」
イーアーがフフンと鼻を鳴らす。イーアーの得意げな表情を見たキカリが、
「……キモ。なに鼻の下伸ばしてんの? 変態なの?」
蔑むような目でイーアーを罵倒した。ミャウが透かさずフォローに入る。
「き、キカリちゃん。イーアーくんは変態なんかじゃないよ。ただ、小さな少年少女が大好きって
だけで……」
「ミャウ……それ、フォローになってねーぞ……」
落ち込むイーアーをよそに、ヴァオが半眼になる。岩の下では相も変わらず赤頭巾が変なポーズを
取っていたが、狼の一声で場にピリっとした空気が舞い戻ってきた。
「お前ら……パイド・パイパーとやらの仲間だな」
「あん? パイド・パイパー? ああ、なるほど……ピエッドさんのことを知っているってわけか」
ヴァオが前に出て、ピエッド・ピッパーについて答える。
「しゃべり過ぎだヴァオ。こいつらは、子どもらの後をつけて回り、ハーメルンの居場所を突き止
めようとする『悪い子』たちだ。秘密を握らせてやる必要もない。直ちに排除作業にかかる」
イーアーがギロリと狼を睨みつけ、岩上から軽やかに飛び降りた。ドスン!! 着地に伴って地面
が揺れ動く。平面にて狼と並ぶと、イーアーという少年がいかに大きいかということを思い知らさ
れた。180センチはある狼を優に超えている。あの〈三匹の子豚〉の長男よりも大きいかもしれ
ない。登場は超が付くほどクソダサイが、実力はそれなりにあると見える。
「お前は先に行け」
狼が佇むヘンゼルに声を投げかけた。
「え?」
「ここは俺たちに任せて先に行けって言ってんだ。子どもたちを見失うぞ」
狼に言われてヘンゼルがハッとする。音楽隊の登場シーンに付き合っていたせいで、後を追ってい
た子どもたちが視界から消えようとしていたのだ。まずい! だんだんと見えなくなっている!!
「くっ――すみません狼さん!」
「ふん。さっさと妹を連れ戻してこい」
子どもたちを追ってヘンゼルが狼の側を離脱する。しかし、そんな行動を音楽隊の面々が見逃すは
ずがない。イーアーに続いて岩場から飛び降りたヴァオがヘンゼルの足止めにかかった。
「ハッハッハッー! そんなことさせるわけねぇだろうがー!!」
迫り来る灰色の毛並み。逆毛を立てた灰髪のヴァオがヘンゼルに攻撃を仕掛けた。
「うっ!」
ヘンゼルは咄嗟に右手を構え童術の発動を試みた。が、その間を割って金髪の少年が横入りをする。
「――!?」
金髪の少年が顔の前でヴァオの拳を受け止める。
「王子さん!」
「ヘンゼルくん。この子は僕に任せて、グレーテルちゃんのところへ急ぐんだ」
ヴァオの拳を振り払い、王子がヴァオと対峙した。王子の背後をヘンゼルが森へと駆けて行く。
「く、イケメンが……ミャウ! キカリ!!」
ヘンゼルの背後に、今度は二人の少女が迫る。一人は地面を蹴って地上から、もう一人は空中から
ヘンゼルを捉えていた。ヘンゼルが背後を振り返る。
「大人しく捕まって!」
タータン柄のスカートをなびかせて、ミャウがヘンゼルに飛びかかった――
「――いぃ!?」
すんでのところでミャウが身を反らして青ざめる。本能に従っていなかったら、撃ち抜かれていた
かもしれない。そして、何故かヘンゼルも青ざめていた。
「ヘンゼルくんの邪魔はさせないよ」
近くから硝煙の匂いが漂ってくる。ヘンゼルとミャウの間を突っ切ったのは、赤頭巾の弾丸だった。
「あ、赤頭巾さん……かかか、かすったんですけどおぉぉぉっ!?」
ガクガクと震えながら、ヘンゼルが赤頭巾を見やる。彼の前髪が少しだけ焼けているのは気のせい
だろう。目の前で尻もちをついて下着が見えちゃっているミャウも同じように震えていた。
「そんなことは気にしない気にしない。グレーテルちゃんをよろしくね」
キラッ☆とポーズを決めてみせる。おかしい……天使に見えるはずなのに死神にしか見えない。
「――どいつもこいつも役に立たないんだから!」
空中からもう一人の少女が急降下を開始する。両手には長いU字型の管が2本繋ぎ合わさった金管
楽器。その一部、スライド管を伸縮させて朝顔からジェット噴射のように音を出す。少女はテナー
トロンボーンと呼ばれるそれを、まるでトンファーのように操り、地上のヘンゼルを目がけて勢い
よく突っ込んだ。
白薔薇が散る。美しい花弁が空に舞い、キカリの表情を歪ませた。
「白雪さん!」
「貴女のお相手は、この私です」
白刀のフルーレでトロンボーンを受け止め、白雪が剣身から顔を覗かせる。
「この女……あたいの《童術》を――!」
赤頭巾と白雪の背後を走り去るヘンゼル。その様子を見届けた狼が対面するイーアーに向き直った。
「キカリの《童術》を防いだだと……あの少女の剣、まさかお前たちも『グリムの仔達』なのか?」
白雪のフルーレに目を通し、イーアーが驚いた様子で狼に詳細を尋ねた。
「〝も〟ってことは、お前たちもそうみたいだな」
イーアーの質問によって音楽隊の面々が『グリムの仔達』だと判明する。
森の中では音楽隊のメンバーと、赤頭巾たち『チーム:リンゴスターズ(赤頭巾が勝手に命名)』が、
互いに距離を取って睨み合っている。子どもたちを追いかけてヘンゼルが抜けた今、状況は4対4、
かつ、タイマン戦に成り変っていた。
「やれやれ、愚か者めが。グリムの仔達なら〈パイド・パイパー〉の伝説くらい知っているだろう。
あの者を一人でハーメルンに向かわすとは、なんとも可哀相なことをするものだ」
「可哀相?」
イーアーの言葉に狼がピクリと片眉を上げた。
「あの者がハーメルンに行けたとしても、そこで待っているのは悪夢だ。あのお方の前では、何も
出来ぬ。四肢をバラバラにされ、ハーメルンの一部として蒔かれることになるだろう。ここで我
々に排除されていたほうが良かったというものだ」
「ふん……だったらそれは、確かに可哀相なことをしたかもな」
イーアーの脅しに、狼が鼻で笑ってみせる。
「にしし……そうだね。ちょっぴし可哀相なことをしたかもね」
赤頭巾も笑ってみせた。白雪も王子も皆、同じような表情をしている。
「強いんだから。ヘンゼルくんもグレーテルちゃんも。笛吹き男なんかに絶対に負けない」
赤頭巾の言葉を狼が引き継ぐ。
「そういうことだ。可哀相なのはあいつら兄妹の相手をする、お前たちの大将ってことだ」
「ほう……それだけの力量があの者にあると言うのか。面白い……それでは、さっさとここを片付
けて、観賞会に行かねばならぬな」
イーアーの身体から『想い』が膨れ上がる。狼は胸の前で両手をポキポキと鳴らし、
「上等だ。観賞会なら俺たちが行ってやる」
薄暗い月の下、各自、一人一倒の覚悟で音楽隊のメンバーと衝突した。




