Ⅴ 『不思議なパレードは真夜中に』
その日の昼食に、グレーテルは帰ってこなかった。
ヘンゼルは熱気が薄れ、すっかりと冷え切ったスープを、一口すすっては窓の外を眺め、
根気よく妹の帰りを待った。朝食も食べず、昼食までも食べないなんて……。
食卓の上には真っ黒いスープと、真っ黒い何かが二人分用意されていた。見た目は完全にゲテモノ
料理だが、味は割りと悪くないようだ。ヘンゼルが真っ黒い何かに齧り付く。
「ゲホッ、ゲホッ!」
あまりの不味さに吐き出して、替わりにミルクを流し込む。どうやら失敗作が雑じっていたらしい。
ヘンゼルは今ひとたび窓の外を見澄まして、グレーテルの速やかな帰宅を渇望した。
「グレーテル……僕一人じゃあ、料理なんて作れないよ……」
その日、グレーテルがホームに戻ってきたのは、昼食から数時間が経過した、午後4時半頃だった。
ガチャリ……と、玄関口の戸が開く。炊事場で夕食の準備をしていたヘンゼルは、その音に反応し、
皿を投げ出して、玄関口へと走った。
「――!?」
扉の前には片手にヌイグルミを引っ下げたグレーテルが、何故か傷だらけの泥まみれで立っていた。
「グレーテル! いったい何があったんだい!? もしかして、争奪戦に巻き込まれたんじゃ――」
ヘンゼルがすぐに傷の手当てをしてやる。重傷というほどのものではないが、身体の至るところに
裂傷や打撲が目立つ。衣服の一部には血痕までも付着していた。
生傷の具合から判断して、転んだ……とは考えぬくい。明らかに誰かと争った形跡がある。
「グレーテル、説明して。この傷は争奪戦によるものなのかい?」
もし、争奪戦に巻き込まれていたのなら、この時間に帰宅したのも頷ける。それどころか、無事に
帰って来られことに安堵の息を吐きたい。
グレーテルがスカートのポケットから絆創膏を取り出して、自分でも応急処置をする。
「その……もうじゅうに……」
「猛獣だって!?」
ヘンゼルの目が鋭くなる。グレーテルの肌に刻まれた痛々しい擦り傷は、確かに蹄の痕を残してい
た。帰りが遅いと思っていたら、争奪戦じゃなく、まさか猛獣に襲われていたなんて。
獰猛な害獣が黒い森に関わる危険因子の一つだということは、ヘンゼルもグレーテルも森に来た時
より知っている。ただ、昼間に遭遇するケモノといえば、小型獣・草食獣くらいなもので、図鑑に
出てくるような猛獣は昼間には活動しないと聞いていた。
そのため、今までに猛獣と出くわしたことはないし、単に運が良かっただけかもしれないが、明る
い時間帯に襲撃されるなんてことはなかった。
「とにかく無事で良かった。話したいことは山ほどあるけど、まずは身体を温めて傷を癒さないと
ね。すぐにお湯を沸かしてくるよ」
玄関口を出て、ヘンゼルは裏庭へと向かった。倉庫の前で山積みになっている、湯沸し用の薪を手
に取って、真っ黒い焚き出し口へと放り込む。季節はすでに秋の暮。素肌に当たる夕風が、微かに
身を震わせる。そして、グレーテルを一人で森に向かわすことに、抵抗を覚え始めていた。
いくら、妹の行動を信じろと魔女に言われていても、危険な目に遭ったとなれば話は別だ。グレー
テルの先のことを考えるよりも、彼女の〝今〟を見てあげることのほうがヘンゼルには枢要だった。
☆
月と星が天高で落ち合う。東の空には牡羊座、近座には秋の大四辺形が、十三夜の月の下キラキラ
と輝いている。明後日はきっと、綺麗な満月になるのだろう。開け放たれた小窓からは涼風が流れ
込み、白いレースカーテンが揺らめいている。
そんな天満星が広がる夜。
グレーテルは寝床に着いてからも、しばらくの間、眠ることが出来なかった。
窓辺を照らす、月光に心酔していたわけではない。紙芝居が観たいがために、兄に〝嘘〟をついて
しまったことを愁い嘆いていたからだ。
そう――グレーテルは嘘をついていた。
兄の手前、猛獣に襲われたかのように振る舞ってしまったが、実際はそうじゃなかった。正しくは
猛獣に襲われたのではなく、グレーテルのほうから猛獣に襲いかかっていたのだ。
それは値上げを言い渡されて、途方に暮れながら帰路に就いていた時だった。
森の沼田場にて、泥浴中のイノシシを目撃したことが始まりである。
イノシシはグレーテルの存在に気づいていないのか、泥浴を終えると身体を木立の一つに擦り付け、
採餌のためノロノロと徘徊に出かけた。牙が長いことから、性別は雄だということが見受けられる。
グレーテルはイノシシの後をこそっりと追った。たしか観賞料の一覧には豚肉も入っていたはずだ。
あの害獣を仕留めることが出来れば、それがそのまま数日分の観賞料になる。危険だということは
承知しているが、それしかもう観賞料の当てがない。グレーテルはイノシシを狩猟するため、背後
からヌイグルミを構え半身進みで近づいた。
イノシシが牙を使って土を掘り起こす。周りを警戒している様子はない。穀物でも探しているのだ
ろうか。仕掛けるなら今しかないというタイミングだ。グレーテルは満を持して飛び出した。
傷口が痛む。イノシシの大牙に負わされた出血沙汰の擦り傷だ。観賞料を得ることが、こんなにも
命がけなんだということを改めて思い知らされた一日になった。結果は見てのとおりである。結局、
イノシシを狩ることは出来なかった。
グレーテルの足音に反応したイノシシが体躯を翻し、彼女は害獣の逆襲に遭ったのだ。非常に強い
突進力と、鼻先をしゃくり上げるような大牙の攻撃に、グレーテルは成す術もなく打ち負かされた。
命からがら逃げ出すことが出来たが、下手をすれば、大牙に突き刺されて死んでいたかもしれない。
やはり素人での狩りは難しいのだろうか。ホームパーティーの度に、イノシシを狩っている赤頭巾
とは雲泥の差だ。祖父に教わったという《狩人術》が羨ましい。
グレーテルは明日の朝一でもう一度イノシシを探すつもりで帰宅したが、傷だらけで遅くに戻った
自分を見て、兄がもの凄く優しかったことに負い目を感じていた。
本来なら怒られても仕方ない状況にもかかわらず、兄は怒ることもなく真っ先に傷の具合を確認し
てくれた。テーブルの上には、兄が作ったのであろう昼食がきっちり二人分用意されていて、料理
に関しては不器用な兄が一生懸命に作ったことが窺えた。きっと長いこと自分の帰りを待っていて
くれたのだろう。それだけで兄の優しさが伝わってくる。
こんなにも自分を心配してくれる兄に、これ以上の心配をかけていいのだろうか?
いつまでも嘘をついて、自分だけの世界に飛び込む事が本当に幸せなんだろうか?
明日の朝、兄の大好きなクリームシチューを作って、今までのことを全て話してしまおう。そして、
今日ついた嘘のことをきちんと謝りたい。たとえ音楽隊の人に『悪い子』だと言われても、兄にだ
けは、どうしてもこれ以上の心配をかけさせたくなかった。
窓の外から鈴虫の鳴き声が聞こえる。兄はもう眠ってしまったのだろうか。頭だけ動かしてチラリ
と横を見る。兄は眠るとき自身の手で顔を蔽う癖がある。そしてそれは熟睡しているときであって、
グレーテルが夜中に目を覚まし、トイレに付き添ってもらうために何度も見た光景だ。
「お兄さま……」
ほとんど言葉にならない声で兄を呼ぶ。起こすつもりではない。眠っている兄に罪の意識を向けて
いるのだ。世界でたった一人の兄妹に、幼い時から自分を守ってくれた兄に、嫌われないためにも。
真夜中――すべての野音が消え、不思議な音色が聞こえてきた。優しくも楽しげで、身体が動き出
したくなるような、牧歌的なメロディーだ。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
それは何かの呪文のように頭の中に語りかけてくる。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
それは歌、詩、詞、曲。花嫁行列が音楽の伴奏を受け、教会から出てくる。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
それはヨハンネス、ジーベンビュルゲン、子ども達の十字軍。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
それは儀式、地下の監獄、偽皇帝。
「ヴィラ……プブリカ……クヴェルンハーメレ……」
独り言のように、何度も何度もその言葉を繰り返す。衣服に手を伸ばし、寝巻き姿からディアンド
ルへと更衣する。グレーテルはその足で寝室の扉に手をかけた。後ろから〝何者〟かの声が聞こえ
てくる。が、彼女は気に留めない。扉を開け、導かれるように一階へと降りて行く。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
それは東門、修道院、ゼデミューンデ。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
それは楽しい楽しい夢への入り口。
ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ――
ようこそ、真夜中の楽園パレードへ――
☆
「……グレーテル?」
着崩れの音がする。眠け眼をこすりながら、ヘンゼルは起き出したグレーテルに声をかけた。脳内
は、今だ夢見心地である。室内の薄暗さもあって、彼女が何をしようとしているのかは分からない。
「グレーテル……トイレかい? 一人で……大丈夫?」
実家に居たときもそうだったが、ここでのホームもトイレは家の外に設置されている。ヘンゼルも
小さい頃はそうだったが、真夜中に一人で家の外に出ることは、誰だって恐怖を感じるものだ。今
でこそ、昔みたいに泣きながら自分を頼ってくることはなくなったが、それでも時々、グレーテル
は真夜中に目を覚ました際は、ヘンゼルの身体を揺さぶってくる。
しかしながらグレーテルは、無言のまま兄の前を通り過ぎ、寝室の扉を開け一階へと降りて行った。
ヘンゼルは一瞬グレーテルの後を追いかけようと考えたが、魔女の言葉が頭を過ぎり、その行動を
自制した。妹が自分を起こしに来ないという事は、一人でも外に出られるようになったに違いない。
そう思ったからである。
【私やヘンゼルから〝自立〟したって事かもしれないねぇ】
ちょっとばかし寂しい気持ちもあるが、これはこれで喜ぶべきことなのだろう。ヘンゼルはグレー
テルの成長を温かく見守ると共に、再び夢の世界へと堕ちていった。
☆
翌朝。ヘンゼルはいつもより早い時間に目を覚ました。昨日は妹の分も務めをこなしたため、身体
がヘトヘトで、就寝後はすぐに熟睡してしまった。夜中に一度、目を覚ました記憶があるが、夢な
のか現実なのか分からない状態だったのであまり覚えていない。
ヘンゼルは身体を起こすと同時に左隣を見た。妹が寝ているスペースには羊のヌイグルミ。グレー
テルの姿はすでにない。いつものごとくとっくに起き出して、朝食の準備に取りかかっているのだ
ろう。ヘンゼルも大きな欠伸を噛み殺し、妹の手伝いに向かうべく、レーダーホーゼンに着替えた。
昨日の猛獣の件は、朝食の席でゆっくりと話そう。それでも尚、グレーテルが森に行きたいという
のなら、ヘンゼルにもそれなりの考えがあった。
階段を降りる。一段一段、足を落とす度、ヘンゼルはふといつもとは違う感じに気がついた。
音が……物音が聞こえないのだ。いつもならガチャガチャと食器を動かす音や、水流の音が聞こえ
てくるのだが、今日はやけに静かである。ライ麦の芳ばしい匂いも漂ってこないし、それに何より、
人の気配を感じない。おかしい……グレーテルはすでに起きているはずなのに。
「おはよう、グレーテル」
一階の炊事場へと降りて行き、厨房を覗き込む。台所にグレーテルの姿はない。
「あれ? 裏庭のほうかな……」
ヘンゼルが怪訝そうな表情で玄関口へと向かう。所帯場の窓は全て閉め切られていて、部屋の中は
薄闇に包まれている。裏庭の竪井戸に、水の汲み上げにでも行ったのだろうか。
「グレーテル! グレーテル、どこだい?」
裏庭に回り、食料庫・焚き出し口・水場の順に妹を探す。しかしながら、グレーテルの姿はどこに
もない。食料庫の施錠は閉まったままだし、焚き出し口の火は鎮火されたままだ。水場に至っては、
木桶を井戸に放り込んだ形跡すら見当たらない。もしかして……そう思い、竪井戸の底も覗いてみ
たけれど、人が転落したような痕跡はなかった。
「おかしいなぁ……どこに行ったんだろう」
ヘンゼルが裏庭から中庭へと移動する。中庭にはレンガ造りの小さな寄せ植え花壇が、三日月状に
展開されていて、グレーテルのお気に入りの花や薬草が植栽されている。妹はここで毎日のように、
潅水作業に勤しんでいると魔女は言っていた。
ヘンゼルは花壇の一つに近づき、施肥の湿り具合を確かめた。土くれに適量な水分が行き渡ってい
ない。注水した跡がないということだ。だとすれば、グレーテルはここにも来ていないことになる。
「ここでもないのか。いったいどこに……」
顎の下に手を当てて、グレーテルが向かいそうな先に見当をつける。
「――あ!?」
昨日の出来事を振り返り、ヘンゼルは中庭からホームの側屋へと走った。たしか昨日、グレーテル
は真夜中に一人でトイレに行ったんだ。彼は妹が一人でホームの外に出て行ったことを思い出した。
あの後すぐに眠ってしまったから、グレーテルが寝室に戻ってきたかどうかも怪しい。そのまま側
室の中で眠ってしまっている可能性もある。
「グレーテル、いるのかい? 開けるよ」
コンコンと外側から扉をノックし、反応がないことから、ヘンゼルは厠の引き戸を開けた。そして、
そこにグレーテルの姿がないことに打ちひしがれる。トイレからは戻っているということが分かっ
たが、この場所じゃないとすれば、彼女はいったいどこに行ったというのだろうか。
ホームの各場所はすでに探し尽くした。寝室に羊のヌイグルミが残っていることから、森には行っ
ていないはず。グレーテルがムーちゃんを置いて家の外に出るなんて、今だかつて見たことがない
からだ。間違いなくホームの内にはいるはずなんだけど……。
ヘンゼルはその後も隈なくホーム内を探し回った。けれども、グレーテルの姿はどこにもなかった。
朝食の準備がされていないことから、起き出している可能性も少なくなっている。
これだけ探しても居場所が分からないとなると、もはや、推測される選択肢は一つしかなくなって
いた。昨夜、トイレに行った前後に森に出かけた――そう判断するのが正解だ。
ヘンゼルは一旦寝室に戻り、妹のヌイグルミを肩にかけ、走馬のごとくホームを飛び出した。グレ
ーテルがムーちゃんを部屋に置き去りにしていることから、ホーム内に彼女がいるものだと疑って
いたが、その見解は間違いだった。
おそらくは〝ヌイグルミを持ち出せない〟状況にあった。と、考えざるを得ない。
「グレーテルが行きそうな場所……」
マホウノモリを抜け、ヘンゼルは片っ端からグレーテルが行きそうな場所を当たった。




