Ⅳ 『消えゆく者』
「それじゃあ、行ってくるよ」
早朝――魔女は兄妹にそう言い残し、おぼろげな藍空へと羽ばたいて行った。
魔女たちの住む世界とこちらの世界とでは協定世界時が異なるため、魔女は魔法界の時刻に合わせ、
人間界を朝早くに出発しなければならなかった。
ヘンゼルはてっきり、《アエメトの大印章》や《転送術》を使って移動するものだと思っていたが、
肉体をホームに残し、なおかつ、マホウノモリを継続維持させるために魔女が膨大な魔力を費やし
ていたことを思い出した。
「お兄さま。すぐに朝ごはんの用意をします」
「ん。今日は僕も早起きしたからね。一緒に手伝うよ」
張り出し窓から飛び立った白鳥を見送り、兄妹は朝食の準備に取りかかった。
今日から次の満月の日までホームには二人きり。魔女が『魔女たちの宴』で不在の分、グレーテル
への負担は計り知れない。ヘンゼルは妹のお務めを少しでも軽減できればと、一緒に台所に立つこ
とを決めた。
――朝餐後。グレーテルは後片付けを速やかに済ませ、急ぎ足でホームを飛び出した。
魔女の代わりに兄が助け舟を出してくれたため、一人で片付けるよりもはるかに捗ったが、
それでもいつもの出発時刻より遅い時間帯になってしまった。
急がないと紙芝居が始まってしまう……子ども達の集まり次第では、すでに紙芝居が始まっていて
もおかしくない時間帯だ。朝方の静謐な森の中に、広場へと急ぎたいグレーテルの靴音
が弾み渡る。浮き沈みを繰り返す背中のヌイグルミと一緒で、自身の腰も浮いているのが分かった。
グレーテが鹿の子のごとく林道を直進する。焦燥感に駆られながらも、心は矢竹に逸っていた。
「あ、来た! グレーテルちゃん早く早くー紙芝居、始まっちゃうよ!!」
木々の間を縫ってグレーテルが広場の入り口に躍り出る。囲い場に到着した彼女は息も切れ切れに、
真っ先に切り株の前に目を向けた。フラウミルが小さな手を大きく振って呼び招きしている。子ど
も達の前に語り手の姿はない。何とか開演前に間に合ったみたいだ。
グレーテルが息を吐いてホッと胸を撫で下ろす。見た限り自分が最後くらいだろうか。集合してい
る子ども達の全員が既に観賞料の支払いを終え、切り株の前で膝を抱えて座っている。グレーテル
は視界の未端でいつものメンバーを確認しつつ、広場の隅で打ち合わせをしている音楽隊の元へと
駆け寄った。
「やあ。今日は随分と遅かったね。君に何かあったんじゃないかと思って心配していたんだ」
観賞料の支払いに応じたのは、音楽隊の一人〈鈴鳴らしのヴァオ〉だった。
「さて、と。どうやら君で最後のようだ。本日の紙芝居を始めるとしよう」
『最後』――という言葉を聞いて、グレーテルはやっぱり自分が最後だったのだと頷いた。
グレーテルが最後だということは、彼女よりも早くに来ているユーデリカは、今日の分の観賞料を
納めることが出来たのだろう。いつもの仲良し女の子隊、フラウミルにナスターシャ。オリヴィア
にバスティエンヌの姿をそれとなく確認できたことから、間違いなくユーデリカの姿もあるはずだ。
きっと近くの子たちとお喋りをしていて、グレーテルが来たことに気づかなかったのかもしれない。
よかった……観賞料を支払うことが出来たんだ。
グレーテルは一人分の観賞料をヴァオに支払い、晴れた気持ちで切り株の前に歩いていった。
「グレーテルちゃん。音楽隊の人、グレーテルちゃんで最後って言ってた?」
フラウミルがグレーテルの元に駆け寄ってくる。他の女の子達も落ち着かない様子で集まってきた。
開演前に間に合って一安心していたグレーテルとは違い、みんながみんな不安げな表情をしている。
グレーテルは今日の紙芝居参加者が自分で締め切られた事を伝えた。
フラウミル達がお互いに顔を見合わせる。
「ユーデリカちゃんがまだ来てないの……」
「???」
ユーデリカが……来ていない?? グレーテルはまず最初に切り株の辺りを見渡して、
その次に広場全体を確認した。もしかしたら昨日と同様に観賞料が支払えていなくて、森の隅っこ
に隠れているかもしれないからだ。
しかし、ユーデリカの姿はどこを探しても見当たらなかった。てっきり子どもたちの間に隠れてい
るものだと思っていたが、初めからこの広場にいなかったと見える。
フラウミル達と軌を一にして、グレーテルの表情にも暗雲が垂れ込み始めた。
「いつもなら……私よりも先に来てるのに」
ナスターシャが呟く。続いてバスティエンヌが、
「そういえば、昨日も少し遅かったよね?」
昨日――ユーデリカが観賞料を払えなくて困ってた日だ。グレーテルの見解では、おそらく開演の
直前まで森に食料の調達に出向いていて、それで遅くなったのだと憶測している。
「ユーデリカちゃんが来ないなんておかしいよ。あんなに紙芝居を楽しみにしていたのに……
きっと森で迷子になってるんだわ」
オリヴィアがユーデリカの背景に何かあったのだと門前に列をなす。半分はありがちな理由付けだ
が、もう半分は心からそうであってほしいという願いだった。何故なら音楽隊の一人ピエッドが奏
でる不思議な旋律で、子ども達が森で〝迷子〟になるなんてことは、起こるはずがなかったからだ。
オリヴィアも迷子の説が濃厚ではないことを知っている。だからこそ無理やりにでも迷子に仕立て
上げたのだ。迷子じゃないのならば〝広場にすら来ようとしなかった〟説が浮上する。そうなると、
ユーデリカの身に何かあったのだと考えざるを得ないからだ。
フラウミル達はどうやらユーデリカが来ない理由を知っているようだった。
「ユーデリカちゃんも『夢の世界』に行っちゃったんだ……」
「……夢の世界?」
グレーテルがどこかで耳にした言葉だなと聞き返す。
「うん。音楽隊の人が言ってたの。良い子で毎日紙芝居を観続けていたら、『夢の世界』に連れて
行ってあげるって……その世界では自身が望むモノは何でも揃っていて、争い事も心配事もなく、
失うモノもない夢のような場所だって」
「ユーデリカちゃん。いつも一番に広場に来ていて、観賞料も音楽隊の人が一番喜ぶモノを持って
きてたから、きっと夢の世界に招待されたんだわ」
「これはユーデリカちゃんから聞いた話なんだけど、ユーデリカちゃんが広場に通い始めた時期に、
そこで紙芝居を観ていた子もみーんな夢の世界に行っちゃったんだって」
女の子たちが自分たちの知っている『夢の世界』の情報を口にする。夢の世界……本当にそんな沙
汰通りの場所がこの森にあるというのだろうか。グレーテルの心情に言い知れぬ不安が襲いかかる。
カンカンカンカンカーン。女の子たちの話を遮るように、高く澄んだ音で拍子木が打ち鳴らされた。
紙芝居の始まりを告げる、開演の合図だ。子どもたちの前に、語り手の少年ヴァオが現れる。
「さあさあ座った座った。本日の紙芝居が始まるよ~」
フラウミル達が急いで散開する。グレーテルもみんなに倣うよう切り株の前に移動し、両膝
を抱えて行儀よく座った。そして最後にもう一度……広場の入り口を振り返った。
昨日、また明日って言っていたのに――
☆
紙芝居終演後、グレーテルは音楽隊の一人ヴァオに、ユーデリカのことを尋ねてみた。本当は女
の子みんなで聞いてみるつもりだったが、フラウミルたちも最近、観賞料の確保に苦戦している
らしく、紙芝居の終演後は観賞料の調達に出向くと言って速やかに帰っていった。彼女たちも明
日の紙芝居を観るために必死で、ユーデリカのことを気にかけてはいるが、それをグレーテルに
お願いするしかなかった。
「ユーデリカ? ああ……あのお花頭の子だね。そういえば、今日は姿が見当たらなかったね」
切り株上の台座を片付けながら、ヴァオは竹を割ったような弁舌で答えた。隣で横笛を吹いていた
少年が演奏に一息を入れ、詠うような声調で静かに囁く。
「ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ」
「???」
「ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……舞楽禁制通りを抜けるために必要な
詩だ。覚えておくといい」
まだら服の少年はそれだけを伝えると、再び横笛を咥え、あの牧歌的な旋律を吹奏し始めた。
ヴァオが腕を組んで、ピエッドの言葉に我が意を得たる。
「乳と蜜の流れるカナン。何度想い描いても素晴らしい場所だね。ついついリズムを刻みたくなる。
おっと、君にはまだ少し早かったかな? 失敬失敬……えっと、お友達が来ないことを心配して
たんだよね? う~ん……僕達でも、さすがに彼女の私情までは分からないからねぇ~明日は来
るかもしれないよ、としか言いようがないよ」
お手上げ状態のヴァオに、グレーテルも偽らざる思いになる。
彼の言うように今日はたまたまお休みだっただけで、もしかしたら明日は来るかもしれない。
それに体調が悪かったって可能性だって考えられる。だって、あんなにも紙芝居を楽しみにしてい
たユーデリカが物語の続きを観に来ないはずがない。フラウミル達は夢の世界に行ったって話して
たけど、グレーテルはまだそうと決まったわけじゃないと信じていた。
しかしながら、次の日も……そして、その次の日も、ユーデリカは広場に姿を現さなかった。
「ユーデリカちゃんが来なくなって今日で3日目かぁ……なんだか寂しいね」
ナスターシャの言葉がグレーテルの胸にひどく響く。仲良しだった子が何も言わずに転校していっ
たような感覚だ。ユーデリカとはもっともっと話したいことがあったし、花飾りの作り方を教えて
もらうって約束もした。それなのに、どうして広場に現れないのか。フラウミルたちが言うように、
夢の世界とやらに行ってしまったのだろうか。仮にそうだとしたら、もう二度とユーデリカには会
えないのかもしれない。
グレーテルの頭髪には、ユーデリカに作ってもらった桃色のガーベラが、今日も今日とて添えられ
ている。ユーデリカとの唯一の繋がりを示す希望の花だ。それが心成しか少し萎れて見える。
グレーテルは頭部に飾っていた花飾りを外し、灰色の瞳でその容貌を眺めた。
本当にどうしちゃったんだろう……。
☆
ユーデリカが広場に来なくなった日から6日目の朝。グレーテルはいつもと同じように目を覚まし、
ヘンゼルに朝食を用意して、定時にはホームを出た。
ユーデリカが来なくなって寂しいはずなのに、身体は広場へと向かっている。やっぱりあの紙芝居
と牧歌的な旋律は不思議だ。どんどんと物語の中に吸い込まれていって、気がつけばユーデリカの
ことを忘れ始めている。それどころか、最近ではユーデリカなんて子は、最初からいなかったので
はとも疑い始めていた。
そして、そんな日が4日ほど続いた翌日――今度はフラウミルが広場に来なくなった。
「もしかして……フラウミルちゃんも……」
ナスターシャとオリヴィア、バスティエンヌが切り株の前で話し合っている。グレーテルは最近の
フラウミルの様子を思い返した。確かにここ数日のフラウミルは広場に来るのは遅かったが、体調
が悪いような素振りはなかった。観賞料の支払いに困窮していることは知っていたが、それでも毎
日きちんと調達してきて音楽隊に納めていた。気になるようなことと言えば、ユーデリカがいなく
なった辺りから急に独り言を呟くようになった事だ。
虚空を見つめて、ヴィラ・プブリカ・クヴェルンハーメレ……と。
ただ……紙芝居を観ている間は、そんなフラウミルのことさえも物語に夢中になって忘れてしまう。
友達が一人、また一人と広場からいなくなっているのに、グレーテルの心には紙芝居を観ることし
か映っていない。紙芝居の終演後も、しばらくはその症状が続き、その状態は日に日に長く続くよ
うになった――
ユーデリカ、フラウミルが森に姿を現さなくなってから24日目。切り株の前に集まった女の子隊
は、とうとうグレーテルただ一人になった。15日目にナスターシャが、その3日後にオリヴィア。
21日目にはバスティエンヌが広場に来なくなった。みんな何も告げずに唐突に来なくなったのだ。
もちろん彼女たちだけじゃない。グレーテルが広場に通い始めた頃にいた他の女の子たちも、あま
り話したことのない男の子達も、みんなみんな来なくなっていた。
それでもグレーテルは、毎日のように広場に通い続けた。
子どもたちの人数は減少したわけではない。いなくなった子達がいれば、新しく参加し始めた子達
もいる。当初の人数から大した変動は起きておらず、子ども達が入れ替わるだけで、紙芝居は終わ
ることなくずっとずっと続いていたからだ。
グレーテルが森に通い始めてから29日目の朝。
いそいそとホームを出ようとするグレーテルを、ヘンゼルが呼び止めた。
「グレーテル。ちょっと待って」
妹の腕を掴み、玄関口に留める。グレーテルが虚ろな瞳でヘンゼルを見つめ返した。
「――!?」
グレーテルの表情に生気がない。ヘンゼルが思わず後ろに引いてしまう。よくよく妹を観察してみ
れば、目の下に血行不良による青グマが出来ている。クマだけじゃない。いつもならきちんと着こ
なしている白いブラウスも、ところどころボタンが止められていなかったり、エプロンスカートの
腰のリボンが極端に片寄っていたりと、今までのグレーテルには考えられない症状が多発していた。
「お兄さま……?」
「ぐ、グレーテル。君はいったい森の中で何をやっているんだ。お兄ちゃんにも話せないことなの
かい? 毎日毎日朝早くから飛び出して、今日だって朝食も食べずに……」
自分のことを心配している兄の姿を眺めて、グレーテルは居た堪れない気持ちになった。
広場のことを、音楽隊のことを、紙芝居や森で出来たお友達のことを……本当は何もかも兄に話し
てしまいたい。そうすればこうやってコソコソとホームを出ることもないし、兄に心配をかけるこ
ともなくなる。だけど……音楽隊と交わした約束は絶対。約束を破る行為は、グレーテルの本能が
従わないのだ。グレーテルの純粋過ぎる真っ直ぐな心が、自他共に苦しめる要因を作り出していた。
「ごめんなさいお兄さま……今は、何も答えられません……」
グレーテルがうつむき加減に返答する。ヘンゼルはそんな健気な妹を少しでも理解しようと、魔女
が言っていた、グレーテルの自立を思い出した。
妹を……グレーテルを兄である自分が信じてやらなくてどうする。いつだってグレーテルは間違っ
た行為はしてこなかった。無鉄砲で無茶をすることはあるけれど、言いつけはきちんと守り、自分
のするべき務めは、今日だってしっかりと終わらせている。
大丈夫……グレーテルは『悪い子』になんてなっていない。
「グレーテル……気をつけて行ってくるんだよ。昼食までに間に合いそうになかったら、僕が代わ
りに作っておくよ。こう見えて、ちょっとした料理なら作れるんだから」
ヘンゼルがグレーテルの頭を撫でてやる。グレーテルの表情に少し生気が戻り、
「……それじゃあ今日の昼食は、まっくろごはんですね」
クスリと笑う。いつもグレーテルが見せている柔らかな顔ばせだ。
「ちょっとグレーテル~真っ黒ご飯ってなにさ。僕だって料理くらい出来るんだよ。まあ……グレ
ーテルみたいに上手くは作れないけどね」
そうやってヘンゼルは、妹をホームから送り出した。少し考え過ぎだったかな。グレーテルの背中
で跳ねているムーちゃんを遠くに、ヘンゼルは自分の務めに取りかかった。
☆
「……かんしょうりょうの値上げ?」
「うん。ここ最近、子ども達の集まりが悪くなっていてね。僕たちも食べていくのに苦渋の末、値
上げを決断したんだ。君には申し訳ないが、明日以降はパン1/4斥じゃあ紙芝居は観せられな
いよ。紙芝居が観たければ、発酵したパン1斥と1/2を持っておいで」
「パンを……一個と半分……」
今日の分の観賞料をヴァオに手渡し、グレーテルはトボトボと切り株の前に歩いていった。
観賞料を値上げられるとは思いもしなかった。ミッシュブロートを毎日一斥と半分なんて、
どうやって用意すればいいのか……。
現在ホームの食料庫には、魔女が戻ってくるまでの分しか材料は残っていない。一日でも多く使っ
てしまうと、残りの数日が何も食べれなくなってしまう。どのように計算したって、パン一斥と半
分は、用意できる品物ではなかった。
観賞料の値上げには、パン以外の品物も対象に含まれていた。他に支払えそうな項目をいくつか検
討してみたが、どれもこれも、今までの観賞料より3倍近い物量になっている。
グレーテルは紙芝居が始まるまでの間、明日の観賞料をどうやって納めようかと悩みに悩んでいた。
「おい。どうだ、今の子は」
「どうもこうもないですね。イーアーさんも見たでしょう? あの絶望的な顔。あれじゃあ、次も
期待してるって言うほうが難しいですよ」
「そうか。じゃあ決まりでいいな?」
「ええ……あのパンが食べれなくなるのは惜しいですが、これも僕たちが生き残るため。残念だが、
今夜のパレードに乗ってもらいましょう」




