Ⅱ 『至福のひととき①』
八月も半ばを過ぎた頃。大きな樫の木がそびえ立つ、とあるホームの裏庭から、
野鳥の鴃舌に雑じって陽気な鼻唄が聞こえてくる。
「フフフ~ン♪ フンフン~♪ フンフンフ~♪」
小気味のよい楽曲の声主は、白いベッドシーツを太陽に透かすよう両手でバサッと広げ、
木と木の間に通した物干し竿へと引っかけていく。陽気な鼻唄の歌い手は、
はちみつ色の髪を二つ結びにした、可憐な少女だった。
少女は自身と祖母の分である、二人分の敷布を干し終えると、
今度は足元に置いてあった洗濯カゴへと手を伸ばした。カゴの中には、洗濯したての湿った衣類が、
溢れんばかりにうず高く積み上げられており、それら一つ一つを少女は水を切りながら手に取って、
矢つぎ早に、えもんかけに吊るしていった。
「ここのところずっと天気が悪かったから、洗い物がたまりにたまっていっぱいだよ」
どんどんと拡がりを見せる洗濯物。やがて、水濡れした最後の一枚を干し終えた時には、
大きな木の下は、連続旗と見間違えるほどの洗い物でいっぱいになっていた。
「うしっ。洗濯物お~わりっと。後はお昼ご飯の準備をして、それから……」
空になった洗濯カゴを抱え込み、次の予定を頭上に描きながら裏庭を後にする。
「あー……お湯を沸かす分の薪がもう無かったかしら。日が暮れる前に採ってこないといけないなぁ……」
やるべきことが重なってしまい、今日も一日、忙しくなりそうだと額の汗を払拭した。
暦の上では、すでに立秋に入っているにもかかわらず、太陽の光熱はまだまだ衰えを知らない。
しばらくの間は好天に恵まれるだろうと、少女は玄関口へと向かった。
「――!」
少女の手元から洗濯カゴが離れる。カランカランという落下音に反応して、
玄関先に立っていた少年がこちらを振り返った。
「おおっ……赤頭巾かい?」
少女は突然の出来事に目を見開いたまま固まり、おそるおそる目の前の少年に声をかけた。
「お……兄ちゃん?」
☆
赤頭巾の兄が突然帰ってきたと聞いて、祖母は途中だった裁ち物をベッドの脇へと退けた。
彼がまだ幼かった頃の面影を思い出し、成長して帰ってきた現在と、見比べるように対面する。
「青卑下……なのかい? 本当に、あの青卑下なんだね?」
ベッドから起き上がり、二度にわたって確かめる。青卑下と呼ばれた少年は、祖母と再会の抱擁を交わすと、
「ただいま、おばあ。長い間、家を空けてしまって心配かけたね。おじいの死に目にも会えず、
忸怩たる思いで本当に自分が嫌になる」
長期間ホームを空けてしまった事と、不在の間に祖父が逝去してしまっていた事を悔やんだ。
祖父母には、この森に追いやられてから、幾度となく犬馬の労を取ってもらった。
猟師だった祖父からは、森で生きていくために生活術を教えてもらったし、
祖母からは、据え膳から身の周りの援助まで、病弱だった母親に代わって、いろいろと世話を敷いてもらった。
もしも、祖父母の存在がなければ、まだ幼かった妹と二人、どうなっていたか分からない。
まさに、至れり尽くせり。感謝してもしきれないほどの思いから、
祖父の今生の暇乞いにいられなかったことが尾を引いてしまう。
ただ、祖母だけは青卑下が森から出て行った事由を知っていたため、彼を強く責めるようなことはしなかった。
「シャルには……父親には会えたのかい?」
「…………」
青卑下が沈黙から首を横に振る。祖母は「そうかい、そうかい」と言って、それ以上は何も聞き出さなかった。
「シャルって……私達のお父さんの名前?」
赤頭巾が二人のやり取りを聞いて、青卑下の顔を覗き込む。彼女が父親について何も知らないのも無理はない。
父親が家を出て蒸発してしまったのは、青卑下が若干3歳の時で、赤頭巾がまだ母親の腹の中にいた頃である。
青卑下は黙したまま何も語ろうとはしなかったが、久しぶりに再会した妹の顔を見て、
隠しておくことはできないと判断した。
「〈シャルル・ペロー〉……俺やおかあを置いて出て行った、クソ野郎だ。あいつが家を出てしまったせいで、
おかあの病気が悪化した。そして……俺達兄妹は、こんな森へと追いやられるはめになったんだ」
拳を握り、奥歯を噛みしめる。父親の身勝手な行動に人生を滅茶苦茶にされ、怒りが込み上げてくる。
「赤頭巾。お前だって『黒い森』での生活は、身を削る思いだろ?」
森での生活が苦しいかどうかを尋ねられ、赤頭巾は現在の胸の内を兄に伝えた。
「私は……お父さんのこと知らないからよく分からないけど、この森での生活は気にいってるよ。まあ……
教団には管理されちゃってるけどね。それでも、おばあちゃんがいるし、それに友達も出来たんだ。だから、
お父さんにはちょっとだけ、感謝してるのかな。あ、でも、家を勝手に出て行くのは許せないよね。せめて、
一言くらいは残してくれなきゃ……お兄ちゃんが自棄になって、部屋の壁を壊したくらい許せない行為だよ」
「おいおい……俺は自棄になんかなって……それにお前今、友達って……」
「うんっ。みんな、この森で仲良くなった子達ばかりなんだぁ~。えーっと、ヘンゼルくんにグレーテルちゃん。
白雪さんにいっぱいの小人さん達。あと……向こうはそう思ってないかもだけど、狼くん。みーんな、大切な仲間だよ」
赤頭巾の生き生きとした様子を見て、青卑下が父親への悪罵を思いとどめた。
あんなにも幼かった妹が、自分の意思をきちんと持って、前向きに成長していたことに複雑な心境になる。
きっと、良い友達に巡り会えたのだろう。兄の言うことを黙って聞いていた昔の彼女とは、まるで別人のようだ。
黒い森での生活が……友達が、妹を変えてしまったのだろうか?
青卑下には、それがひどく切なかった。
「そっか……お前、友達が出来たんだな。よかったじゃないか」
「にししっ。今度、お兄ちゃんにも紹介するね」
「ん? ああ……そうだな。そいつは楽しみだ」
妹に向けていた視線を上方へと逸らし、青卑下が宙の一点を見すえる。友達……ね。
赤頭巾の仲間とやらが、いったいどのような者達なのか想像する。自分も仲良くできるだろうか?
思考する彼の中耳腔に、時を告げる鐘楼音が鳴り響く。
「おや? もうこんな時間かい?」
ゴーン、ゴーンと、左右に揺れる振り子時計を見上げ、祖母は時計の針が正午を指していることを確認した。
「いっけなーい。お昼ご飯の準備、まだ途中だったんだ! 急いでお湯を沸かさないと……あ~!
薪も拾ってこないといけなかったんだ! ううう……」
「ハハハ。落ち着けよ赤頭巾。薪なら俺が拾ってくるから、お前は先に食事の準備を進めてな」
「いいの、お兄ちゃん?」
「お安い御用さ。とりあえず、二束ほどあれば足りるかい?」
「うんっ! それだけあれば、一年は安泰だね」
「いや……もって三日だろ」
☆
「ねーねーそれでね。その時、お空がパァーって明るくなって、そうしたら今度はいきなり、碧色の隕石が
ワーって降ってきたの。それでもって、宇宙船の中からブリキの兵隊さんが、おもちゃの銃を手に現れて――」
赤頭巾が丸椅子の上に両膝を乗せ、食卓に両手を着いて身を乗り出した。
ここ短日月の近況報告を、次から次へと止まることなく喋喋する。
「ハハハ……赤頭巾、そんなにいっぺんに話されたら、何が何だか分からないよ」
「だって~お兄ちゃんに話したいことが、いっぱいあるんだもん……長い間、家を空けてた罰だよっ」
「あーわかったわかった。いくらでも聞いてやる」
昼食後。青卑下は食後のパンナコッタをつまみながら、赤頭巾の話に耳を傾けていた。
こうやって妹とゆっくり時を過ごすのは、実に何年ぶりのことだろうか。昔はよく、二人で遊んでいたっけ。
光にあふれた窓辺の外からは、波静かな風が白いレースカーテンをふわふわとさせている。
このまま時間が止まってしまえばいいのにな……と、彼は二皿目のパンナコッタを口に運んだ。
それにしても赤頭巾の奴……こんなにも料理が上手くなっていたなんて。
容姿・性格の変化もそうだが、女子力もだいぶ上がっていないか? こんなにも上手い料理を出されたら、
並大抵の男どもは嫁に貰わずにはいられないだろう。なんてことだ……と、青卑下は三皿目を赤頭巾に要求した。
パンナコッタ……なんて上手い食べ物だ。不覚ながら少し気に入ってしまった。
「そうだ! お兄ちゃんも帰ってきたことだし、この家でパーっとパーティーをやろうよ!」
胸の前で両手をパチンと叩き、赤頭巾が大規模な親睦会を提案する。
彼女自身まだお目にはかかっていないが、先日いつもの花園で、グレーテルから
新しい『グリムの仔達』が加わったと報告をもらった。
どうやら、とある王国の王子様らしい。
その彼は、元々はグリムの意志を継ぐ継承者ではなかったが、なんでも白雪との『結びつき』が発生した関係で、
彼女の物語に出てくる〈王子様〉とリンクしてしまったとか。それで、『グリムの仔達』になったということだ。
さらに聞いた話では、白雪の家で同棲しているということで、ますますその関係が気になっていたところだった。
「パーティー?」
「うんっ! 私の友達にお兄ちゃんを紹介したいの。さっき、今度紹介するって言ってたでしょ?
お兄ちゃんがまた勝手に家を出て行かないように、みんなに見張っててもらわなきゃね」
「おいおい……俺は飼い犬か何かなのか……」
青卑下が三皿目のパンナコッタを食べ終え、四皿目を前に呆気づく。
まさか、妹に手を引っ張られてしまう日が来ようとは……時の流れとは、つくづく残酷だ。涙が出てくる。
そして、パンナコッタ……お前は最高の食べ物だ。
「ねーねーいいでしょう? お兄ちゃんが今食べているブルーベリーのパンナコッタ、いっぱい。いーーーぱい、
用意するからさ~ダメ?」
「赤頭巾、すぐに開催の準備をするんだ。明日、いや……なんなら今からでも――」
コホンと咳払いをして、青卑下が我に返る。危ない危ない、誘惑に負けるところだった。
「そうだな。俺もお前の仲間とやらに会ってみたい。その中に、赤頭巾の男がいるんだろ?」
「おおおっ男!? 男って何? もしかして彼氏のこと!?」
赤頭巾が慌てふためく。そんな様子を青卑下は笑いながら、
「冗談だ。それに……お前は誰にも渡さない。お前は俺〝だけ〟のものだ」
言葉の後半部分を上手く聞き取れず、赤頭巾は???を浮かべ首を傾げた。
一瞬、兄の目つきが鋭くなったのは気のせいだろうか?
「赤頭巾、お昼ご飯ごちそうさま。ホームパーティー、楽しみだな」
青卑下が食べきった空皿を持ち上げて、流し台のほうへと歩いていく。
「うんっ!」




