Ⅷ 『魔獣』
窓ガラスが割れる。身体に破片を纏いながら、白雪が室内へと転がり込んだ。
埴土の匂いがする。雨が降った後の、田の面のような匂いだ。
デカリン誘導体のアルコールだろうか? 薬品らしき匂いも漂っている。
室内は薄暗かった。天井が丸みを帯びているのは分かったが、住房の随所までは確認できなかった。
「いやはや、驚いたねぇ……まさか、この部屋にまで辿り着ける子がいたなんて」
部屋の奥方から濁声が聞こえてくる。ツカツカと靴底を鳴らして現れたのは、
齢、80は超えている、年老いた女性だった。
「貴女が塔の宿主、魔女ゴーテルさんですね」
老婆を前に白雪が身構える。想像していたよりも好々爺だが、曲がりなりにも悪辣な魔女だ。
ゴーテルの力量は、即に〈草人形クシモト〉との戦いで、身を持って経験している。
老体とはいえ、油断はできない。
「ホォッホッホッ。どうやら、私の事を知っているようだね。誰に聞いたんだい? この森で、
私の委細承知を知る者は、そう多くはいないはずだがね」
深く被ったリリパイプから、ゴーテルが鋭い視線を投げかける。ゴーテルと目線が交差した白雪は、
魔女の眼光が、深い悲しみと復讐の念に駆り立てられ、闇色に染まっていることに慄いた。
「貴女はいったい……この部屋で何をなさろうとしているのですか」
白雪がフルーレを握り締める。薄暗かった室内にもようやく目が慣れ始め、
部屋全体が巨大な温室になっていることが明らかになった。
「ヒッヒッヒッ……そろそろ頃合だね。いいだろう。ここまで辿り着いたご褒美だ。
お前を我が娘の誕生に立ち合わせてやろう」
ゴーテルが白雪に背を向けて、部屋の中央へと歩いて行く。
幽暗のせいもあって、その存在に今の今まで気がつかなかったが、部屋の中心部と呼べる場所には、
人ひとりが入れるほどの培養器が、いくつもの実験器具と共に並べられていた。
「これは……」
白雪が筒型の培養器を見渡す。培養器の数は全部で12個もあったが、肝心の中身は全て空っぽだった。
「お前は……今年でいくつになった?」
数ある培養器の側を通り過ぎ、ゴーテルが静かに口を開いた。
「……今年で14歳になりましたわ」
「14……か。娘が生きていれば、お前のような清艶な少女に育っていたというわけか……」
魔女は腰の後ろで両手を組み、とある培養器の前で立ち止まった。他の培養器とは違い、
容器のいたるところから、大小さまざまな樹脂チューブが、天井に向かって伸びている。
「7歳だった。人間の子とはいえ、私は目に入れても痛くないほど娘を可愛がっていた」
白雪は魔女の後ろを追って培養器に近づいた。ゴーテルの内情話に挙がっている娘とは、おそらく、
魔女ドロテーアが語っていた、ラプンツェルという少女のことであろう。
魔女達の宴『ヴァルプルギスの夜』に参加していたという、事実無根の理由で魔女裁判にかけられ、
無実の罪で審問官に処断されたと聞いている。
「心中はお察ししています」
目を伏せて、胸に手を当てる。7歳といえば、ちょうど7年前の自分を見ているようだった。
当時7歳だった白雪が、女王である母親に暗殺されかけた時の話だ。寒空の下、今は亡き狩人と、
生きるために知恵を振り絞っていたことが思い出される。
狩人の存在がなければ、彼女もラプンツェルと同じような運命を辿っていたのかもしれない。
7歳という年齢は、白雪にとっても人生の分岐点であり、
人命の価値が、溶けていく雪よりも軽いということを知った日でもあった。
「人間という生き物は、自分勝手で荒唐無稽な存在だ。私の娘が、いったい何を
したんだと言うんだい? 魔女達の宴に参加していた? 魔女の血筋を引いていた? そもそも
『魔女』という偶像を作り上げたのは、お前達人間だというのにかい?」
ゴーテルの口調が次第に強くなっていく。殺された娘のことを思い出し、
恨みのベクトルが、人間の代表である白雪へと向けられる。
「娘はね……薔薇が大好きだった。とくに赤色の薔薇がね。お前は薔薇の花言葉を知っているかい?」
薔薇の花言葉はいくつかある。薔薇の本数や色、組み合わせや、部位によっても意味が違う。
それでも白雪は、ゴーテルがどの花言葉を引き合いに出しているのか、すぐに察しがついた。
薔薇の花は、美の女神〈ヴィーナス〉の花。女神の流した涙から、咲き出したと言い伝えられている。
「……『愛情』ですね」
フルーレを握る手が自然と緩んだ。娘を想うゴーテルの愛念に、感情が移入されている。
彼女が心優しい魔女だったという話は、どうにも本当だったと見えた。
「やれやれ……知らぬ間に昔話をしていたようだね。老婆の独り言だ。忘れてもらってかまわないよ。
もっとも……あと数分で、何もかも忘れてしまうがね!」
「――!!」
ゴーテルが振り向き様に右手を突き出す。袖口に忍ばしていた寸鉄が、白雪の心臓を狙った。
薔薇の花弁が散る。フルーレに意匠されていた白薔薇の花弁だ。
「ちょいとばっかし油断しすぎだねぇ……フリードリヒシュタインの白雪姫。よもや、この私を前に、
和平的に済まそうだなんて思ってはおらぬまいな?」
フルーレの剣身から白雪が顔を覗かせる。魔女の話に感情移入していたものの、
数歩、距離を取っていたことが幸いした。
「ヒッヒッヒッ。聞こえるぞ……娘の鼓動が……産声が……私のことを〝お母さん〟と呼んでいる……」
ゴーテルが笑い出す。白雪は魔女の変貌ぶりに悪寒を感じた。室内の空気が変わる。
「ゴーテルさん。誕生とはいったい……」
ただならぬ雰囲気が部屋全体を包み込む。もはや、白雪の話などに耳を傾けていないのか、
ゴーテルは一人でブツブツと呟き始めた。
「1,789,516,800と60,240秒。この数字が何を表しているのか分かるかね?
そうさ。長きに渡って苦汁を舐め続け、娘の誕生を待ちわびて過ごした、私のわび住まいの暦さ」
魔女が両手を広げる。その動作が合図にでもなっていたのか、天井のパネル板が左右に動き始めた。
「――!?」
天井の動きによって崩れだした壁片が、霰のごとく降り注ぐ。パリィン、パリィンと
音を立てて、培養器のガラス面が次々と割れていった。白雪が培養器周辺から離脱する。
やがて室内には、光が満ち始めた。上部を蔽っていたパネル板が開放され、
雲ひとつない大空が目に飛び込んでくる。
「〝想いの集大成〟を、人間共に分からせてやらないとねぇ……」
ゴーテルが目の前の培養器に手をかざす。他の培養器とは違う、唯一割れていない培養器だ。
白雪は上空を見上げた。培養器に繋がれていた樹脂チューブの先は、空へと伸び、そのまま
地上へと垂れ下がっている。まるで、塔全体が人のようであり、チューブが長い髪のようでもあった。
足元に微弱な揺れを感じ、白雪がいたるところに視線を張り巡らせた。もしかして、
これがゴーテルの言っていた〝誕生〟の瞬間なのだろうか。
「さあ、復讐劇の始まりだ。思う存分に暴れるがいい。我が娘――薔薇魔獣ヒラリヒメ!」
☆
夜になると、ロザリーナは何とも不思議な夢を見た。
口腔から薔薇の木が生え始め、やがてはカボチャになってしまうという、おかしくも恐ろしい夢だ。
このような夢を毎晩見るようになったのは、絶え間なく花を咲かせる、
あの『四季咲きの薔薇』を手に入れてからだった――
『それでは、姫様と二つのお願いをするといたしましょう』
『お願い……ですか?』
『はい。ひとつめは、姫様がわたくしとお昼を召し上がること。ふたつめは、この木が花を咲かせる度に、
国を挙げてお祭りをしてくださること。国のみんなで、この薔薇の木を跳び越えていただく、薔薇飛び
の祭りでございます』
ある日の朝。ロザリーナがいつものように薔薇のお手入れをしていると、
ひとりの老婆が、手さげカゴを持って歩み寄ってきた。老婆はお庭の美しい薔薇園を見渡して、
『ここにはどんな薔薇でも揃っているのに、この世で一番美しい、あの薔薇だけは見あたらないようですね』
『ええ。どなたが持っていらっしゃるか、ご存知ありませんかおばあさん。お代ならいくらでも支払いますわ』
『さればでございます。気前のいいお言葉を伺ったからには、その薔薇を姫様に差し上げましょうかね』
老婆はそう言うと、手さげカゴの蓋を開け、カゴの中からカボチャをひとつ取り出した。
カボチャには、花をつけた薔薇の苗木が挿してあり、その苗木こそ、
この世でもっとも美しい薔薇を咲かせるという、『四季咲きの薔薇』の苗木だった。
『薔薇飛びの祭りでは、薔薇の花弁を一枚たりとも散らしてはなりません。万が一、花弁を落とされたなら、
この薔薇の小枝から、ふたすじのひっかき傷を強かに受けることになります』
ロザリーナは老婆の話を聞いてクスクスと笑った。
『おやすいご用よ』
老婆はポケットからスプーンを取り出して、二つに割ったカボチャから、
カボチャの種を山盛りにかきとった。
『さあ、お昼にいたしましょう姫様』
☆
「ハァ……ハァ……これで、残りは2体……」
ヘンゼルは息も絶え絶えに、残りの植物獣を見やった。グレーテルと小人達の協力もあって、
クシモトは残り2体にまで減少していたが、全員の体力は、すでに底を着きかけていた。
「グレーテル、くるよ!」
ヘンゼルがグレーテルに指示を出す。クシモトの触手が兄妹の間を叩き割った。
「つ……」
グレーテルの反応が遅い。休む間もない攻防で、ヘンゼルよりも先に彼女のほうが限界に近かった。
もう1体のクシモトが触手をしならせる。地面が揺れ動き、疲れた足腰に負担を増やしていく。
まるで、身体全体に重りが圧し掛かっているようだ。
ヘンゼルが身体の負担を減らすため、両刃斧を軽量形態『フライエンシュタイナウ』へ可変しようと試みる。
しかしながら両刃斧は、可変を完成させる前に光が散開し、手元から離れるように消失してしまった。
「――! 両刃斧が消えた!?」
突然の出来事にヘンゼルが動揺する。もう一度、両刃斧を練成しようと、彼は《童術》を発動させた。
魔法円が……出現しない? 想いがカタチへと形成できなくなっている。
「想いの力――《童力》が弱まっているんだ」
フェンヒェルが答える。そもそも《童術》の発動原理とは、『幸遺伝子』が『想い』によって強められ、
『カタチ』となって具現化したものである。そのため、《童術》の発動はおろか、《童術》の維持さえも、
強い想いを〝常に〟持ち続ける必要性があった。
「過度のストレスや疲労など、心身への負担が増加してしまうと《童術》は使えない。
想いの力は、無限ではないんだよ」
ヘンゼルは《童力》を使い過ぎていた。両刃斧の生成から度重なる可変攻撃まで、
全部で4体ものクシモトを倒したのだ。彼の最大ロマン値から逆算すると、とっくに底を着いている。
ヘンゼルが最大使用量を超えて《童術》を使用できていたのは、新たな力が加わったことで、
最大ロマン値が急上昇したことが考えられた。
「くっ……これじゃあ、攻撃の手段が……」
《童術》が一時的に使えなくなったと知り、表情に焦りの色が浮かぶ。
ヘンゼルが植物獣を相手に接戦できていたのは、彼の《童術》がクシモトに対して、
相性が良かったからだった。
ヘンゼルの《童術》は、想いを『斧』へと変える力。想型は『木こり』。幸遺伝子は『拝命と恵み』で、
子ども達の間では唯一、一つの《童術》に、二つの能力を備えている。
一つ目は、対象者の童術や魔術といった術式を《吸収》し、糧として両刃斧に蓄積していく力。
二つ目は、両刃斧に取り込んだ術式を《恵み》へと返還し、解放するというものだ。
そのため、両刃斧を使用した伐倒は、対象者の能力を〝無効化に近い形で吸収〟する事ができ、
たとえ、ゴーテルが創り出した人工的な隠花植物であっても、例に漏れることはなかった。
「あと、2体だっていうのに……」
ジリジリと追い詰められるヘンゼル達。その背後で、派手な爆発音が聞こえた。塔のほうからだ。
全員が一斉に振り返る。激しい黄埃の先には、巨大な花蕾がユラユラと蠢いていた。
「……蕾?」
深地層から芽を出したであろう花蕾は、多肉質な花をつけ、周囲に腐臭を放つことで有名な、
寄生植物ラフレシアだった。
ラフレシアがゆっくりと花開いていく。蕾の中には、一輪の丸弁高芯咲きの赤薔薇が、
ラフレシアの花肉上に咲いており、赤い薔薇の中心には、巨大なカボチャが丸ごと乗っかっていた。
カボチャには目と鼻。それに、口がついてあった。正確には、
その部分がくり抜かれたような形になっていて、ハロウィンなどで使われる、
『ジャック・オー・ランタン』に酷似している。
そして、カボチャより上半身は、少女のものだった。
少女は腰から下をカボチャに埋め、頭をだらんと下げていた。
地面にまで伸びた、長くも美しい前髪の隙間からは、色白な素肌が見え隠れしているが、
それがいったい誰であるのかは分からない。綺麗な山吹色の長髪は、腰の辺りから緑色に変色していき、
毛の先が地表に着く頃には、荊棘へと変わっていた。
右手は人間のものだが、左手はハエトリグサそのものだろうか。植物でもなければ、人間でもない。
まさに半人半植物。これほどまでに細胞が混じり合っている生物は、他に見たことがなかった。
「女の子が……カボチャの上に……」
目の前に現れた巨大な薔薇魔獣を見て、ヘンゼルは言葉を失った。人間を植物と融合させたというのか?
「あ゛あ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
その場にいた全員が耳を塞いだ。薔薇魔獣が空に向かって突然叫び出したからだ。
地面が揺れ動く。土壌が叫び声に鳴動し、立っていられないほどの激しい振動を引き起こす。
突風が兄妹と小人達を飲み込んだ。両手で風を受け止め、ヘンゼル達は薔薇魔獣と対峙した。




