Ⅶ 『思い出』
「うぐっ……」
少年が腹部を押さえて倒れこむ。
狼の放ったレバーブロウが、少年の雁下を強打し、気絶へと追い込んだ。
「いきなり襲ってくるとはな……粋じゃねぇな、おい」
ただでさえ人相の悪い顔立ちが、ますます仏頂面になる。
よく晴れた日の昼下がり。狼は出し抜けと現れた少年に、争奪戦を仕掛けられていた。
「襲撃時の基本は無音無声だ。襲うなら、奇声は上げないほうがいい」
狼が少年を眼下に忠告する。少年は半開きの口腔から胃液を垂れ流し、
横臥した状態で暗転していた。
「それから――できれば食後もだ」
少年の嘔吐物に顔を向け、狼が吐き出された小間物に目を見やる。
食物が未消化のままであることから、おそらく、食後すぐに打ち掛けてきたのだろう。
固形物のほとんどが、原型を留めていた。
「ん? リンゴ……?」
狼が吐き出された食物の一つを注視する。おおかた、皮ごと齧ったのだろうか。
果実と思しき固形物には、真っ赤に着色された果皮が付着していた。
「……ったく。お前もリンゴに毒された口か」
三日ほど前に、毒薬入りのリンゴを食べさせられたばかりだ。
距離を置きたくなるのも無理はない。狼が不快感を露にする。
「しばらくは、悪夢に魘されそうだな」
☆
「おじいちゃんだ……おじいちゃんが、森に帰ってきたんだ。夢じゃ……ないよね?」
赤頭巾が、信じられないといった様子で、老人――狩人を見つめた。
ダークブロンドだった頭髪は、加齢に伴い老い白み、勇猛だった厳願も、
今や無数の筋目に切り刻まれている。活気に満ちていた、かつての面影は消えてしまったが、
そこに立っていたのは、紛れもなく彼女の祖父だった。
「おじいちゃん……私だよ。赤頭巾だよ」
祖父と最後に会ったのは7年前。赤頭巾が若干5歳の時だ。
公暇中に急遽お城に呼び出され、森から出て行ったのを覚えている。
祖父はそれまで長年勤めてきた、『猟師』という職を捨てた。
祖母や赤頭巾を養うため、赤頭巾が生まれた翌年から、遠くのお城で働いている。
赤頭巾は実に様々な生存術を、祖父から教わった。
泥水や濁った水を飲料水に変える方法。ヤナ(竹をロープで結んでスノコ状にしたもの)を仕掛けて、
魚を獲る方法。遠くの目標物から現在地を知る方法。悪天候時でも火を起こす方法。そして、
狙った獲物を追跡する方法。
数を挙げればキリがないが、有に30は超えるサバイバル術を、赤頭巾は身につけている。
どれもこれも、祖父が『猟師』だった頃に活用していたものばかりだ。
「……赤、頭巾?」
祖父が記憶の抽斗から、赤頭巾との思い出を詮索する。
視力の低下した朧気な眼睛には、ケープのフードを弾ませる可憐な少女が映っていた。
「えへへ……おばあちゃんも、びっくりするだろうなぁ~だって、7年ぶりだもん」
赤頭巾が、祖父の姿を眺めては喜悦し、眺めては喜悦してを繰り返す。
彼女にとって祖父の存在は、まさに父親みたいなものだった。
赤頭巾の父親は、彼女が生まれる前に蒸発した。
当時3歳だった兄と腺病質な母親を残して、唐突に行方を暗ましたそうだ。
そのため、赤頭巾は父親の顔を知らなかったが、寂しくはなかった。黒い森で暮らす祖父が、
本当の父親のように接してくれたからだ。赤頭巾が小躍してしまうのも無理はない。
「私ね、おじいちゃんに話したいことが、いっぱいあったんだ。今夜はホームに帰って来るの?」
「…………」
「おじいちゃん?」
黙したまま微動だにしない祖父を見上げ、赤頭巾が首を傾げた。
「お嬢さん……すまないが、思い出せんのじゃ。お前さんとの思い出が、何の一つも」
抱え込むように額を押さえ、祖父が打ちひしがれた様子で頭を振った。
久方ぶりの再会に、彼は赤頭巾を認識できていないのだろうか。7年前に比べれば、
確かに彼女の背丈や顔つきは変わっている。
「そんな……それじゃあこれは? この赤いケープは覚えてる?」
祖父からの思いがけない返答に戸惑いながらも、赤頭巾が自慢のケープをひけらかす。
彼女が5歳になった誕生日。祖父が入手した上質な端切れを、祖母が丁寧に仕立ててくれたものだ。
「…………」
「おじいちゃん。何も……何も、覚えていないの? 私は……いっぱい覚えてるのに……」
赤頭巾がしゅんとして下を向く。7年ぶりの再会だと言うのに、祖父は何も覚えていなかった。
思い出はもとより、彼女の名前すら忘れている。
「お嬢さんは……なぜ、わしのことを知っておる?」
虚ろな瞳はそのままに、祖父が赤頭巾との接点について訊ねた。
赤頭巾から見れば紛れもない血縁者でも、祖父の目には、初対面の少女が映じている。
「おじいちゃんは、覚えていないって言うかもしれないけど……おじいちゃんが左胸に付けている
リンゴのレリーフ……私が作ったんだよ」
赤頭巾に言われ、祖父が左胸に付けていたレリーフに手をやった。
リンゴの絵柄が掘り込まれた、木製の浮き彫りだ。祖父が森を離れた7年前に、
赤頭巾が作って渡したものらしい。
「本当に……私のことを忘れちゃったの? おじいちゃん……」
「ぐっ、なんじゃこの感じは……この浮き彫りに触れていると、頭が割れそうじゃ――」
発作的に発生した片頭痛が祖父を襲う。
ドクドクドクと、脈を打つような痛みが血管拡張をきたし、祖父が草むらに片膝を着いた。
「おじいちゃん! どうしたの!? 大丈夫!?」
赤頭巾が急いで祖父の側に駆け寄った。祖父の近くからは、静電気のような摩擦帯電が起きている。
「お、のれ……妃め……ぐっ……」
「おじいちゃん、しっかりして! おじいちゃん!!」
「赤、頭……巾。わしから、今すぐわしから……離れるんじゃ!」
「きゃっ!」
祖父が自身から赤頭巾を振り払うよう突き飛ばす。
「おじいちゃんが……私の名前を……呼んでくれた?」
地べたに尻もちをついた赤頭巾が、きょとんとした顔ばせになる。
先ほどまで何も覚えていなかった祖父が、突然、彼女の名前を口にしたからだ。
「ぐぬぬ……ここまでの童力とは……」
脳細胞を蝕む〝毒素〟に耐えながら、祖父が再び〝暗黒面〟へと落ちていく。
その様子は、まるで誰かに操られているようでもあった。
しばらくの静黙後、祖父がゆっくりと立ち上がる。心なしか、先ほどよりも様相に生気がない。
頭痛は治まったのだろうか。額に当てていた右腕は、地面に向けて真っ直ぐに下ろされていた。
「……おじい、ちゃん?」
能面のような表情で立ち尽くす祖父に、赤頭巾が恐る恐る声をかけた。
『――承知いたしました。お妃様の命とあらば、直ちに排除いたしましょう』
まばたきの一つもせずに虚空を見つめ、祖父が脳内へと入り込む声に返答する。
そして、油の切れたロボットのごとく、機械的な動きで赤頭巾に衰顔を向けた。
「お嬢さん。星の巡りがよくなかったの……お前さんの『物語』はここで終いじゃ。
お妃様には逆らえぬ。これも運命だと思うて諦めよ」
下ろしていた右腕を胸の高さまで上げ、その指先を赤頭巾へと向ける。
射程圏内に入った獲物を狙う『猟師』のような素振りだ。
「ち、ちょっと待って、おじいちゃん! 何を言っているのか……私、全然分かんないよ!!」
「分からなくてもよい。消えゆく霊魂に理解はいらぬ」
「お、おじいちゃん……それってまさか……」
瞬間――祖父と赤頭巾の間に、突風を巻き起こしながら、巨大な魔法円が出現した。
外円と内円の間にエノク的な文字が記された、茶色光の紋章陣だ。
「《童術・猟銃シュヴァルムシュタット!》」
魔法円の中に右腕を突っ込み、祖父が〝カタチ〟を練成する。そして、
「ふん――!」
光の消失と共に引き出されたのは、全体を茶色に塗り込まれた、単発型のマスケット銃だった。
火点方式は燧発式だろうか。フリントロックの部分は輝かしい銀色に塗られている。
「――!? おじいちゃん!!」
赤頭巾の叫びも空しく、祖父は銃身を右肩に乗せ〝狩り〟の体勢に入った。
「ゆくぞ……」
★
『黒い森』東ブロックに位置する教団支部。
その一室で、教団員は鳴り止まぬビープ音に追われていた。
「被験体【MTC06/1228/R】生体反応:BO。同じく被験体【MTC33/0306/R】生体反応:BO」
「ツヴェルフ、バイタルサインの警告センサーを下げてちょうだい。生体反応モニタを
ロストまで無力化するわ。エルフ、そちらはどう?」
至極冷静にツェーンが指示を飛ばす。
現在、教団の支部内は、ツェーン、エルフ、ツヴェルフの三人体制だった。
「民謡伝承者の一人が、被験体【KHM26/0426/R】と接触した。これは……」
「王妃の介入が原因ね。本来発生することのなかった『結びつき』が起きてるわ。最悪のケースよ」
エルフの持つタブレットを覗き込みながら、ツェーンが事務的に進言した。
物語の創造に欠かせない『結びつき』。本来なら被験体同士で発生するものだが、
王妃という第三者の介入で、物語消滅すら在り得るイレギュラーを起こしていた。
「フリードリヒシュタインの王妃、やってくれるわね」
「まったくだ。これほどまでに『要保護認定』を喰われたら、たまったものじゃない」
タブレットの操作はそのままに、エルフが相槌を打つ。
「信じるしかないわね。物語の醍醐味である〝奇跡〟を――」




