Ⅴ 『悪魔』
「……ここまで来れば」
居城からほど遠い山の中。狩人は言葉巧みに少女を山の中へと誘い出し、
木々の開けた草原にて、安堵の息を吐いた。
「よいですか姫様。驚かずに聞いてくだされ」
「???」
「お妃様が、姫様の御尊を狙われております」
「――! そんな……どうして……」
実の母親に命を狙われていると知り、少女は目を伏せて深い悲しみに陥った。
少女はフリードリヒシュタインの第一王女、白雪と呼ばれている。
「わたくしが……お母様のお怒りに、触れたというのでしょうか」
「とんでもございません。姫様には何の落ち度もございませぬぞ」
「では何故、お母様がわたくしの尊を?」
白雪が訴えかけるような表情で狩人に問い返す。
母親に命を狙われる事なんて、生まれてから7年間、一度たりとも無かったからだ。
「お妃様は……操られているのです。鏡に宿った〝悪魔〟に魅入られて……」
「……悪魔? 昔、おじ様に読んで頂いた『おとぎ話』の中に出てくる、あの悪魔でしょうか?」
「はい。人の欲望や弱みなどに付け込んで、虚偽を信じさせる奇怪な輩であります」
狩人は真横に切断された切り株の上に布を敷き、白雪が着座できるように準備した。
「お話が長くなります。どうぞお座りください」
白雪が狩人の配意に与って、切り株の上に腰を降ろした。
「今から私が申されるお話は、おとぎ話でも何でもございません。すべてが事実に基づいた話譚に
なっております。どうか真意だと思って、耳を傾けてくだされ」
狩人はそう言って、冷たい草むらの上に敬意を払って膝を折った。
山の中はすっかりと冬の景観に成りきって、枝木からは葉っぱという葉っぱが全て落ちきっている。
空は厚手の雲に蔽われ、どんよりとした灰世界が冬季を物語っていた。
「先ほど悪魔の存在について触れましたが、姫様は、お妃様の御寝室にございます、
『魔法の鏡』とやらは、ご存知で?」
「いえ。お母様のお部屋には、まだ一度も……」
「左様でございますか。フリードリヒシュタイン城に古くから存在する、姿見のことでございます」
白雪が生まれるよりも、ずっとずっと前から城にあったという魔法の鏡。
いつ、誰が、どこから、何のために持ち込んだのか、詳しいことは不明だが、長らくの間、
王妃の寝室に宝具として置かれている代物だと、狩人が説明する。
「私が初めて『魔法の鏡』の存在を知ったのは、姫様がまだ二歳の時でございます。今から五年も
前の出来事です。城にお仕えして日の浅い冬でした」
「ふふ。おじ様がお城に来られた時のこと、わたくし今でも覚えていますわ」
「ええ、私も昨日のことのようです」
懐かしい余韻に浸る狩人の姿を見て、白雪が慌てて話に向き直る。
「あ、ごめんなさい……話の節を折っちゃって。命に係わる大切なお話の最中に……」
「お気になさらないでください姫様。難しい話ばかりでは退屈でしょう。
昔話に花を咲かせながらで結構でございます」
狩人が束の間の休息を挟んで、話を続けた。
「その日私は、お妃様の夜間守衛を任されておりまして、寝室の前で一夜を明かしました。
他に人はおりません。私一人での勤務でした」
「はい。お手伝いさんに聞いたことがあります。おじ様がそのような職務を長年なさっていた事も」
「三年ほど務めた記憶がございます。城に仕える者としては、大変名誉のある職分でした」
言葉を声へと出す度に白い吐息が空を舞う。肌を突き刺すほどの寒風が、
時おり二人の身体を震わせた。
「異変に気がついたのは朝方でした。部屋の中から声が聞こえてきたのです。私の知るお妃様の声
以外にもう一つ。不安になるような低い男性の声が」
白雪がゴクリと唾を飲み込む。狩人の怪談話のような口調が、恐怖心を強固させる。
「私は扉に近づいて耳を立て、中のご様子を窺いました。国王様以外の男が、不法に侵入している
のではと判断したからです。もちろん露見すれば大問題になります」
「逢い引きは重罪ですものね」
「いやはや……逢い引きとは、難しいお言葉をご存知で。姫様には少しばかり早いとは存じますが」
「その、教科書に書いてあった言葉の……引用です」
何故か顔を赤らめて白雪が下を向く。狩人は彼女のそんな様子に微笑し、
「教養があることは立派なことですよ姫様。知識はどこかで必ず役に立つことがあります。
言葉一つを取っても、恥じるような事ではございません」
知識があることの秀逸さを褒め称えた。
「それで……お母様のお部屋から漏洩したという、殿方のお声というのは?」
「鏡だったのです。会話の内容から、お妃様が鏡に話しかけていることが分かりました」
「おじ様がおっしゃっていた、『魔法の鏡』でしょうか?」
「ええ、まさにその通りでございます」
狩人がおもむろに立ち上がり、しばれた老体で落ち葉を拾い始めた。一国の姫君に、
風邪を引かれたら大変である。冷えきった身体を温めるため、可燃物を集めて暖を取ることにした。
「わたくし、焚き火というものを初めて見ましたわ」
「城の中におられるだけでは、得られないこともございます。城外には、姫様の知らぬことが
たくさんあることでしょう」
「お城に住んでいない、普通の女の子だったら……って考えたことがあります」
「それは姫様の……《想い》、ですかな?」
「そうだと、思います。窮屈なお城の生活から一転して、おもいっきり羽を伸ばしてみたいなって
想像しますもの。叶わない夢だってことは分かっています。それでも……想ってしまいますよね」
王族に生まれてしまったが故の運命。贅沢な暮らしと引き換えに、犠牲にしてしまったものもある。
普通の生活を望む少女の《想い》は、いっそう可憐で心を打った。
「《想い》は……願わなければ叶いません。そして……想っているだけでは何も変わらないのです。
姫様には《想いをカタチ》にする力がございます。そら事なんかではありません。私には分かる
のです……姫様の心の中に、何編にも亘って受け継がれた、『彼らの遺志』が宿っていることを」
かき集めた落ち葉に燐寸で火をつけ、狩人が強い言葉を持って断言する。
「初めてお会いした時から思っていたのですが、おじ様は不思議な雰囲気をお持ちです」
「姫様は洞察力も大したものですな。将来はきっと、良い婿殿を射抜けることでしょう」
「わ、わたくしには……まだまだ早いお話です……」
「ホッホッホ。そうでしたな」
湿り気のある落ち葉は、煙を吐き出すまでに少々時間を要したが、火の点いた途端、
瞬く間に燃え広がった。バチバチバチと煙が立ち昇り火の粉が弾け飛ぶ。
焼べる用に枝木を集め、狩人は炎の近くに腰を降ろした。
「話が脱線しましたね。それでその、『魔法の鏡』についてなんですが、鏡は古来、悪魔が人間を
誘惑するための道具として、恐れられてきました。鏡の中から悪魔が送り込まれてくると、信じ
られていたからです。いわば鏡は、悪魔の使いであり、悪魔の化身であるのです」
燃え盛る火花の中へ枝木を放り込み、狩人が炎の勢いを調節する。
少しずつだが、身体に温もりが戻ってきた。
「お妃様は毎朝鏡に向かって、伺いを立てておりました。この国で一番美しい女性が誰であるのか、
〝本当の事しか言わない〟……魔法の鏡に向かって」
「お母様は……〝悪魔の囁き〟に、取り憑かれてしまったのですね」
「お言葉の通りでございます。そして昨今、その矛先が姫様に向けられてしまったのです」
母親と魔法の鏡の関係性について狩人から聞かされ、
白雪は何ゆえに自身の尊が狙われているのかを理解した。昔から美意識の強かった母親の
事である。おおかた娘の成長に嫉妬しているのに違いない。女性として生まれた以上、
老化による美しさの減衰は、時に若さへの執着心を生み、憎悪の対象となるからだ。
「わたくしは……これから、どうすればよいのでしょう」
城に戻ることが許されないと知り、白雪は虚ろな瞳で炎を眺めた。
「ご心配にはおよびません。姫様の御尊をお守りすることこそ私の使命。
奇策がございますゆえに、このような場所までお連れした次第であります」
「……奇策?」
「はい。悪魔の宿る魔法の鏡から姿を隠し、城外にて生きながらえる手立てがございます」
王妃から下された暗殺の命を回避するため、狩人は魔法の鏡から
逃れる手段があることを白雪に伝えた。王妃の下に魔法の鏡が存在する限り、
姿そのものを隠すだけでは、存命していることが暴き出されてしまうからだ。
姿見、手鏡、窓ガラス。はたまた、水面や黒曜石など……姿を映し出すモノ全てに、
悪魔の目は光っている。
「たしかに悪魔の存在は厄介です。全ての反射材が監視下に置かれていますからね。
ただ……そんな悪魔にも、死角がございます」
「死角、ですか?」
「ええ。悪魔が人間界にて〝覗き見ているモノ〟……そこさえ突ければ、何とかなります」
狩人が長めの棒切れで炎を焼べる。火花の下底には、焼け焦げた可燃物が灰となって積もっていた。
「そもそも悪魔の目的とは、自身の欲望を満たすことにあります。甘い囁きで人間に近づき、
従順な傀儡として支配することです」
「お母様と……魔法の鏡の関係ですね」
「はい。お妃様が悪魔に操られているとお伝えしたのも、この背景がゆえにでございます」
耐え難い事実を前に、白雪の表情からますます生気が抜けていく。
「おそらくですが、お妃様はお気づきになられていないでしょう。悪魔に覗き見られているモノが、
〝容姿〟ではなく……〝心魂〟だということを」
狩人が確信を持って述べる。言い換えれば、
悪魔は王妃の姿形を見て美しいと告げているのではなく、精神の最深部にある心を見て、
美しいと答えているらしい。人間を従順な傀儡として支配するためにも、まず人の内側から侵食を
始めるそうだ。要約すると、悪魔が答える美しい心の持ち主とは、悪魔の囁きによって、心の中に
入り込む余地がある人間だという。
七つの罪源に加え、信仰の深い者、赤子や幼児、聖女といった……啓示や人語に左右されやすい者、
人格や意思が定まっていない者に、悪魔は近づいてくる。
「悪魔がお妃様よりも、姫様のほうが美しいと答えになったのは、姫様の心魂が純粋で、
何色にも染まらない〝強い想い〟を、抱いていたからなのです」
「強い、想い……」
「ええ……鏡に宿る悪魔にとって、夢や希望を持つ者こそ、最高の標的になりうるのです」
「では、わたくしは……〝心〟を狙われているのですね」
「はい。つまるところ、そこに悪魔の死角がございます」
「心に? でしょうか?」
「左様でございます……魔法の鏡が心を映し出してしまうのなら、心を〝濁してしまえば〟
よいのです。そうすれば、心を覗かれることもなくなり、世間からは〝消失〟した事になります」
おとぎ話ではないと言ったものの、狩人の口から出てくる言葉は、どれもこれも現実離れしていた。
「心を濁すとは……いったい、どうすればよいのです?」
白雪が頭上に『?』を浮かべて狩人に質問する。
「簡単なことでございます。スヤスヤと眠ってしまえばよいのです」
「???」
「眠るという行為の目的は、心身の休息や、身体の細胞レベルでの修復です。ただ、突出するべき
ところはそこではございません。意識の喪失によって体験する一種の幻覚――〝夢〟にあります」
狩人が夢の仕組みについて簡潔に説示した。
脳波や周期、ステージやレムなど、およそ白雪が聞いたこともない単語が、次々と飛び出してくる。
「人は夢を見ることで、しばしの間、現実を離れることができます。現実の状態を放置して、自分
だけの世界へ転生するのですから。そしてその世界では、他人の干渉を受けることはありません。
他人の夢の中へ、入れないのと同じです。例えそれが……〝悪魔〟であってもです」
「……悪魔でも?」
「はい。すでに悪魔の習慣や、目的などはお話しましたが、彼らは〝心〟を見ているのです。
悪魔色に染められる、美しい心を。しかしそれは、実体としてあるものではございません。
〝心像〟なのです。イメージと言ったほうが分かり易いでしょうか」
「えっと……その人の持つ〝色〟ですね」
「そうなのです……悪魔の目には人の心が、色で見えているのです。故に『心を濁す』とは、
その人の持つカラーに〝細工〟を施して、色に〝変化〟を与えようというものです」
目には目を、悪魔には悪魔と言うことだろうか。人間を甘い誘惑で騙す悪魔には、
同じく騙しを持って対抗する。そんな考えが伝わってくる。
「しかし、どうして夢を見ることが、心を濁すことになるのですか?」
「色が〝混ざって〟しまうからですよ姫様。夢での内容は、その者の願望や過去の記憶、はたまた、
外的現象によって形成され表現されます。つまり、夢の中にいる本人は、現実とは異なった姿形
や性格を持ち、現実では不可解な現象を体験することになります」
「夢の中で容姿や環境が変わってしまうことで、心の色も変わってしまう――そういうことですね」
「左様でございます。ただ、夢にも終わりが訪れるように、心の色も一時の変化でしかありません。
夢から目覚めれば元の色に戻ってしまいます」
「はい。理屈は分かりますわ」
白雪が狩人の話を整理する。鏡に宿った悪魔には〝色〟が見えていること。そしてその色を、
より悪魔色に染めやすい者ほど〝美しい〟と言われること。そんな悪魔にも死角があり、色を変化
させてしまえば、その人の心が見えなくなってしまうこと。色の変化は夢を見ることで、一時的に
変えられるということ……なんとなくだが、狩人が実行しようとしていることが見えてきたようだ。
「心の色が〝常に〟変化していれば、よろしいのですね?」
「まさにその通りでございます。そして……そのための算段も、すでについております」
可燃物がなくなり勢いの弱まった炎に、狩人が灰をかける。瞬く間に炎は消え、残煙へと変わった。
「姫様に〝不思議な魔法〟を、かけさしていただきます――」




