Ⅸ 『宿主とホーム』
今日で何日目だろう。今だ魔女がヘンゼルを食す気配はない。
それどころか、格子戸の中に放り込まれて以来、魔女は一度たりとも小屋に近づいていなかった。
食事の世話は全てグレーテルに任せ、ヘンゼルが肥えたかどうかの確認すら音沙汰なしだ。
これでは、いつまで経っても格子戸の中から出られやしない。生殺しもいいところである。
ヘンゼルは長期に亘る監禁生活の末、とうとう精神を崩しかけていた。
昼夜のない暗く狭い部屋。いつ魔女に食べられるか、分からない恐怖。
酷い仕打ちを受けている妹への不安。時折思い出す、家族との心覚。
精神を崩壊へと導くには、充分過ぎる条件が揃っていた。
もしかしたら、端からこれが魔女の狙いだったのかもしれない。
【ヘンゼルを太らせて食べる】――グレーテルの話では、魔女はそう言っていたらしいが、
現在の状況から察するに、魔女はヘンゼルの精神崩壊を待っているように思われる。
仮にその説が本当ならば、いつまで経っても脱出の機会はやってこない。
ヘンゼルの行動に対して、魔女は二重にも三重にも対抗策を張っていたのだ。
このまま月日が流れれば、間違いなくヘンゼルは精神に異常を来たすだろう。
そうなれば、もはや脱走などという浅はかな考えは、脳裏を掠めるだけ無足というものだ。
「……さま」
いったいどうすればいいのだろう……。
「お兄さま」
格子戸の外から声がして、ヘンゼルがハッと顔を上げる。
そこには、食事の容器を持ったグレーテルが、不安げな表情で兄の名を連呼していた。
ヘンゼルは完全に塞ぎ込んでいたために、彼女の呼びかけに全く気がつかず、
グレーテルに心配をかけさせてしまったことを陳謝した。
「ごめん……ちょっと考えごとをしてたんだ。さ、早いこと食べてしまおう」
いつものように、ヘンゼルが妹に食事を勧める。
かれこれ一週間以上になるが、こうして未だ見つかっていないのが不思議なくらいだ。
と、思った矢先のことだった。
「お前達、何をしてるんだい! グレーテル……帰りが遅いと思って様子を見にきてみれば。
ええい、お前から先に喰ってやる!!」
唐突に小屋の様子を見にきた魔女が、牙を剥いてグレーテルに迫ってきた。
ヘンゼルは突然現れた魔女を見て、油断していた自分の落ち度を悔やんだ。
再三の妹の呼びかけに気がつかず、いつもよりも、遅い食事を取っていたことが災いした。
さらに、魔女は小屋に近づかないものだと、高を括っていたことも仇になった。
「くっ! グレーテル、逃げるんだ!!」
ヘンゼルが鉄格子を握りしめ、グレーテルに逃散を呼びかける。
しかし、彼女は逃げ出すような素振りを見せず、それどころか、
襲いかかってくる魔女に立ち向かうべく、小さな身体を身構えた。
「グレーテル!」
一瞬の沈黙が間に走る。声も、何も……聞こえてこない?
ヘンゼルは知らぬ間に瞑っていた眼を、恐る恐る開けた。
もしや、グレーテルは魔女に食べられてしまったのだろうか……。
そんな恐怖が脳裏を過ぎるも、沈黙を破ったのは魔女の笑い声だった。
「ホォッホッホッ……よほど兄さんが好きなんじゃな。肝が据わっておる……大したものじゃ」
魔女はグレーテルの一歩手前で立ち止まり、妹の頭の上に手を置いていた。
いったい……どういうことなのか……?
兄妹はキョトンとした表情で魔女の姿を眺めた。
☆
「すまなかったね……お前達の『想い』を試していたのさ」
自宅内の食卓にて。牛乳の入ったコップを兄妹に渡しながら、
魔女が今までの出来事を、二人に話した。
「想い?」
兄妹は魔女と向かい合う形で椅子に座り、ヘンゼルが牛乳を一口飲んで聞き返す。
「そうだね。まずはお前達が追いかけて来た、白い鳥について話そうかねぇ……」
白い鳥――森の広場でデニスを埋葬後、どこからともなく現れた、美しい鳴き声の小鳥。
その白鳥に誘導されるがままに、兄妹はこの場所へと辿り着いた。
「あの白い鳥は、私の『使い魔』じゃ。森での様子や情報を私に知らせてくれる。
こう見えても老体だからのぅ……使い魔の存在は非常に助かっておる」
どう見ても老体では……そんな言葉が喉まで出かかったが、
失礼だと思い、ヘンゼルは口を噤んだ。
「じゃあ僕達がここに来ることを、おばあさんは知っていたの?」
「もちろんじゃ。そうなるように私が仕向けたからのぅ。ちょっとだけ幻術もかけておいた」
白鳥に導かれて、どんどんと森の奥に入っていった不思議な感覚。
あれは魔女が白い鳥に付加していた魔法だった。おそらく小鳥の眼を通して、
兄妹は魔女の幻術にかかり、知らぬ間に操られていたに違いない。そうして、
『魔女の家』まで案内されてしまった。
「お前達をここへと導いた理由……それは非常に強い『想い』を感じたからじゃ」
話が本題に入り、ヘンゼルがグレーテルを見る。
グレーテルは両手でコップを持って、ゴクゴクと牛乳を飲んでいた。
「『想い』とは……すなわち、精神を維持するためのカンフル剤じゃの。夢や希望、
未来や成功と言った、人ならば誰しもが望んでいる〝幸せのカタチ〟……それが、
精神の支柱となって、人は生きることに喜びを感じている」
「生きることの……喜び?」
「さよう……数年前、各地方を襲った大飢饉のことは知ってるかえ?」
大飢饉――ヘンゼルが八歳になったばかりの年。地域一帯で発生した大規模な食糧不足だ。
人々は自分達が食べていくのに精一杯で、ヘンゼル達一家も苦しい生活を余儀なくされた。
もちろん、そのことは今でもよく覚えている。
「飢饉は人の心を凍らせる、悪魔のような災害じゃ。ひとたび飢饉が起これば、人々は飢え
に苦しみ、国は疲弊する……人は生き残るために、道徳律を捨てなければならなかった。
その結果、実に多くの人々が犠牲になった」
「それって……まさか」
「ふむ。飢饉の影響をもっとも受けたのは、お前達のような年端もいかぬ子ども達じゃ」
間引き、姥捨て、子捨て。人々が飢えの果てに選択した常套手段。
一家そろって飢え死にするぐらいなら、少しでも食い扶ちを減らしたほうがいい。
大人達の邪念が生み出した最悪の結末――それは働きのない者から始末することだった。
ヘンゼルがゴクリと唾を飲む。魔女は兄妹を見渡して話を続けた。
「犠牲になった子ども達は親に見捨てられ、夢も希望も掴めぬまま死んでいったと云う。
金銭を得るために裕福層に売られた者、真夜中に煮詰められ食べられた者、人気のない
場所でゴミのように捨てられた者、そして――実験のために森へ連れてこられた者……」
森という言葉を聞いて、ヘンゼルはすぐさま『黒い森』のことだと悟った。
「ロマン主義教団『クレメンス』……お前達の言う羊飼いじゃな。彼らは飢饉によって
狼狽した地域に目をつけて、子ども達を買い漁った。子ども達の心に眠る『想い』を
集めるためにの」
「それじゃあ、羊飼いが話してた〝活動記録〟っていうのが『想い』ってこと?」
「ふむ。間違ってはおらんが、正確には〝活動記録の中で生まれる〟想いじゃな」
【いいぞ。存分に絶望しろ。その絶望が希望へと変わるとき、新たな『物語』が生まれる】
【お前達の『黒い森』での〝活動記録〟こそ、我々の求める『童話創生論』そのものだ】
ヘンゼルはリーダー格の男、ドライが言っていた言葉を思い出す。
「つまりじゃ……私は教団の掲げる『物語の完成』を防ぐために、お前達をここへ導いた。彼らの
集める『想い』には、強い『想い』を持って対抗せねばならぬ。目には目を、歯には歯をじゃ……
私は『民謡伝承者』として、悲惨な時代の記憶を、次代に語り継ぐ義務がある。二度と同じ過ちを
繰り返してはならない……幸せを望む全ての子ども達に、光を与えてあげたいんじゃ」
遠い過去の記憶を掘り返すかのように、魔女が力強く語った。
「お前達の『想い』……それは教団に匹敵するほどの力を秘めておる。だから私は試したんじゃ。
お前達の『想い』が本物かどうかをね」
魔女が兄妹を住処へと導いた理由――それは『童話創生論』を遂行する教団に、
強い想いを奪われないためだった。
「『勇気』『希望』『幸福』……強い想いには、この三つが備わっておる。そして、お前達には、
その可能性があったんじゃ」
「でも……僕達は何もできなかった……」
「いいや、たしかに見せてもらったよ。まずは『希望』じゃな。これは使い魔の目を通してだが、
お前達は〝強く生きたい〟そう想っておったな? 黒い森で起きている惨劇は私も知っておる。
もちろん、この家だって争奪の対象だ。そんないつ命を落とすか分からない状況で『希望』を
持つことは、すなわち大きな可能性を秘めているということなんだよ」
羊飼いに被験体と称され、森の中に置き去りにされた時。
唯一の希望だった村への帰郷も潰えてしまった。しかし、たとえ帰れないと言われても、
可能性がゼロではない限り、ここで生き延びて、絶対に家に帰ることを強く思った――
そう。たしかに兄妹は、この森の中に『希望』を見出していた。
「次に試したのが『幸福』じゃの。これはお前達に〝家の変化〟を見せたな? あの変化した
外観が〝どんな家に見えるか〟そこが重要だったんじゃ。心の汚れた者が見た場合、ひどく
朽ち果てた家が見えたり、悪魔達の住む恐ろしい家が見えたりする。が、お前達の見た家は、
お菓子の家……実に子どもらしい。その時どう感じたかね。幸せだとは想わなかったかい?」
「言われてみれば……そうだけど。あのときは、お腹が空いてて……その」
「純粋な子どもの心。それは本能に従うものなんだよ。お菓子の家は空腹の証。
まぎれもなく〝純粋な心〟の表れだよ」
乱杭歯を剥き出しにして、魔女がホォッホッホッと笑う。
「そして最後に試したのが『勇気』。これはもう説明の必要はないね。ヘンゼル、グレーテル。
お前達は絶望という中にあって、お互いに励まし合い、苦難を乗り越えようとした。一人分
の食事を二人で分け合い、来る日も来る日も、私に怯えながらも、生きるために知恵を振り
絞った。まったく……困った子達だよ」
お互いに顔を見合わせて、兄妹は目を丸くした。
「僕がグレーテルに食事をあげていたことを、おばあさんは知ってたの!?」
「私を誰だと思っておるんじゃ。お前達の行動など何もかも筒抜けじゃ」
ヘンゼルは驚愕の事実に、頭を抱え込んだ。どうりで魔女が格子戸に近づかないわけだ。
おそらく、先ほど言っていた使い魔とやらが、どこからか兄妹の様子を観察していたのだろう。
「えっと……それじゃあ、僕達はここにいてもいいの?」
「お前達は、私に本物の『想い』を見せてくれた。森で生きていくためには住まいが必要じゃろ?
教団に対抗するべく、私もお前達の『想い』が必要じゃ。お互いに相互利益だと思うんじゃが、
どうかのぉ? ここがお前達の『ホーム』では、不服かえ?」
ヘンゼルは身体の震えが止まらなかった。魔女の辛い試練を乗り越えた結果、
念願の寝床を提供されたからだ。森の中でずっと欲していた、衣食住のうち最も確保したかったもの。
「す、すごいや……ここが僕達のホーム。野宿をして危険に晒されることがないんだ。
グレーテル! これで森でも生きていけるよ!!」
ヘンゼルはホームを手に入れたことに喜び、思わずグレーテルに抱きついた。
「お、お兄さま……その」
「ん? グレーテルは嬉しくないの」
なぜか動揺している妹に、ヘンゼルが聞き返す。心なしか頬が紅潮しているようだ。
「えと……お兄さまとここで……暮らせるんですよね?」
「そうだよ。夢みたいだ!」
「これこれ……ヘンゼル。見ての通り、私はすっかりと年老いてしまってね。しっかりと手伝いは
やってもらうよ。それも契約の条件。いいかい?」
魔女が兄妹の話を遮るように言いつけ、それを聞いたグレーテルが両手を小さく握りしめた。
「わたし……お手伝いがんばります」
「よーし。それじゃあ早速働いてもらおうかね。ヘンゼルお前は火をおこしておくれ。グレーテル
お前は食事の準備だ。うんとおいしい料理を作るよ。さあ、今日からあんた達はこの家の子だよ」




