Ⅲ 『黒い森①』
切り株の一つに腰をかけ、ヘンゼルは途方に暮れていた。
右手首に刻まれた刻標が痛むのか、時おり手首を押さえては大きなため息を吐いた。
頭の中に浮かぶのは、リーダー格の男が吐き捨てた、あの言葉。
【その刻標は死ぬまで消えることはない。刻印されたら最後……この森がお前達の墓場だ】
ヘンゼルは木々の隙間から雲一つない大空を仰いだ。
きっと……父親も同じ空を見上げているに違いない。こんな時、父ならどうするのだろうか。
父親の言葉を思い出しながら、これからどう生活していくかを模索する。
まず羊飼いは、自分達を『被験体』だと言って、この森に連れてきた。被験体と呼ぶくらいだから、
何かしらの〝検体検査〟が待っていると予想をしていたが、今のところ腕に刻印を押されただけで、
その後、特に何かをされたわけではない。ただ〝森で生きろ〟とだけ言われて置き去りにされている。
それに、この刻標が刻まれている以上、自分達の位置や活動記録は、
全て監視されていることになる。脱走なんて考えるだけ無駄だろう。
自分達は医者を呼ぶために――父親を救うために羊飼いと契約を交わしたんだ。
その結果、羊飼いは約束通り契約金を支払い、医者にも来てもらった。
だからここから逃げ出したら、自分達は契約を破った卑怯者になってしまう。
そんなのは嫌だ。絶対に神様がお許しにならない。
ヘンゼルは、草むらにしゃがみ込んでいる妹に目を向ける。
グレーテルは森に咲いている花に興味を持ったのか、地面に屈んでは花びらをつついていた。
そういえばもっと小さい頃に、よくグレーテルと二人で、父親の仕事場で遊んでいたことを、
ヘンゼルは思い出した。それで一度、妹が森の奥に入っていって、迷子になったことがあった。
あの時は、ヘンゼルも父親も必死になって森の中を探し回ったものだ。
たしかグレーテルを見つけたのは、森の中でも低地に近い場所で、手の中いっぱいに花を抱えて
泣いていたところを発見したんだった。何でも身体に良いとされる薬草ばかりを集めていたから、
ヘンゼルも父親もすぐに察しがついた。
ちょうど母親が風邪をこじらせて寝込んでいた時だ。
母親のために取ってこようとして、迷子になったのだろうと。
グレーテルは小さい頃からそうだった。自分なりに人のために頑張った結果、
自己の犠牲を招くことが多々あった。兄としては心配するべき点ではあるのだが、
同時に、それが彼女の強さだとも感じていた。
途方に暮れていた自分を引っ張って、羊飼いとの契約で家庭を守ったのは、
間違いなくグレーテルだ。自己の犠牲を省みない強い意思に、
ヘンゼルも心を動かされていたに違いない。
ヘンゼルは妹の様子を見て、たとえ帰れないと言われても、可能性がゼロではない限り、
ここで生き延びて、絶対に家に帰ることを強く思った。
それにしても、だ。いったいどうすればいいのか。羊飼いは『被験体』と言っていたにもかかわらず、
自分達を放置して去っていってしまった。この森での〝活動記録〟が彼らの実験だというのならば、
すでに実験は始まっているのだろう。
それならば、森で生活するための基盤を何とかしなけらばならない。
噂によるとこの黒い森には、人喰いの魔女や強暴な狼が住んでいると聞いたことがある。
特に夜は危険だ。夜行性の猛獣が息を潜めて獲物を狙っているからだ。
そんなところで生きていくためには、森での生活術をしっかりと身に着けなければならない。
何より衣食住のうち『食』と『住』。その中でも『住』はこの森で生きていくために、
絶対に確保しなければならない問題だ。いくら森の中が微気候の場となっているとはいえ、
夜になれば少しは冷えるだろうし、雨が降ればたちまちずぶ濡れになって風邪をひいてしまう。
そうなれば、弱りきったところを獣に襲われ食べられて終わりだ。
何としても、雨露を防げる住処を探さなければならない。
とはいえ、むやみやたらと、この広大の森の中を歩き回るには危険性が高すぎる。
どこに獣が隠れているか分からないし、道に迷う可能性だって充分にある。それに――
ヘンゼルはぐぅと鳴るお腹に手を当てた。
母親に持たされたランチバスケットには、わずかな食料が入っている。節約して食べれば、
少しの間くらいは食べるのに事欠かないが、たちまち底をつく量であることに違いはない。
森の中を探せば、食べられるキノコや草を見つけられるかもしれないが、
下手に動き回っては無駄に体力を消耗してしまうだけだ。
やはりまずは住むところの確保。それから食料の調達なのだが、
お腹の空いた頭ではなかなかに良案は浮かばず、ヘンゼルはランチバスケットに手を伸ばした。
「グレーテル、お昼にしよう。少しでも栄養を取っておかないと身体に堪えるからね」
ヘンゼルは妹を呼んで、遅めの昼食を取ることにした。
ランチバスケットを開けると、油紙に包まれたライ麦のパンが二つ。
それに水の入った水筒が一つ。これが今あるすべての食料だった。
ヘンゼルはパンを一切れ取り出すと、それを二つに分け、分けたパンをさらに二つに千切り分けた。
もともと小さなパンだったが、それを四等分にしたことで、ますます小さなパンになってしまった。
しかし、そんな口惜しいことは言っていられない。このランチバスケットにある食料が、
直接命のやり取りに繋がるのだから。
不恰好に分けたパンのうち、ヘンゼルは少しでも大きいほうをグレーテルに手渡した。
二口ほどで食べれてしまう昼食はあっという間に終わり、分かっていたことだが、
ヘンゼルは物足りなさを感じていた。
「……お兄さま。よかったらどうぞ」
そんな兄の様子を見て、グレーテルが自分の分のパンを差し出した。
「わたしは大丈夫です……お兄さまのほうがずっと大きいから、
たくさん食べないと倒れてしまいます」
グレーテルはそう言ってヘンゼルにパンを手渡した。
ヘンゼルは妹に気を遣わせてしまったことを嘆いた。自分はあの時に誓ったんじゃなかったのか?
強くなるって、グレーテルを絶対に守るって。それなのに自分が妹に守られてばかりじゃないか。
自分よりもずっとずっと小さな女の子に――
ヘンゼルはグレーテルにパンを返した。
「ごめん。気を遣わしたね。僕は大丈夫だから、これはグレーテルがちゃんと食べて。
しっかりと食べないと、いざというときに動けなくなるからね。それとも、グレーテルも
体重とか気にしているの?」
もちろんグレーテルは太っているわけではない。身長のわりには少しぽちゃとはしているが、
そこを追求して言ったのではなく、彼女に自分のことは気にせず、パンを食べて欲しいという
兄なりの思いから出た言葉だった。
グレーテルも、ヘンゼルがそう言っていることはすぐに理解できた。
なぜなら、兄は嘘をつくのが下手だったからだ。
「……お兄さまは、細い女の人が好みなんですね」
グレーテルはそんな兄の言葉を聞いてクスっと笑い、母親ゆずりの言葉で返した。
「ち、ちがうよグレーテル。僕は別に……」
兄妹は笑った。お腹が空いていることも、吹き飛ぶくらいに笑い合った。
これからどんな不安が待っていても、二人はお互いの存在さえあれば幸せだと感じた。
そして、絶対にこの森から生きて帰ることをお互いに確認した。
昼食後。ヘンゼルはグレーテルと水筒を分け合って飲んだ。森の中を探索していない以上、
水だって貴重な生命線である。一滴たりとも無駄には出来ない。
兄妹は水分の補給を終えると水筒をランチバスケットに戻し、森の奥へ進むことを決意した。
このままここにいたところで、生きていく術が見つかるわけでもないからだ。それに、こんなに
見晴らしの良い場所は、あまりにも危険だ。獣たちに狙ってくれといっているようなものである。
しかしそれを的中させるかのように、兄妹が荷物を手に取り、切り株を離れようとした時だった。
森の中から何かが草木を掻き分けて、こちらに近づいてくる音が聞こえてきた。
ヘンゼルはグレーテルを庇うかのように彼女の前に出る。
人喰いの魔女か? それとも強暴な狼か? ヘンゼルはごくりと唾を飲む。
神様お願いします。どうか獣の類じゃありませんように……。
そう祈ったヘンゼルの願いが叶ったのか、草むらから姿を現したのは、年端のいかない少年だった。




