九軒目 初会
「じゃ、楽しんでくださいっすー!」
伊吹は武彦に手を振ると、すたすたと大門の方へと戻っていった。
武彦が小さく手を振っていると、後ろから清次郎が話しかけてきた。
「では、我々も行きましょうか」
「……はい」
武彦は、清次郎について玄屋を出た。
玄屋の隣には、玄屋と他の茶屋に挟まれる形で木戸門が設置されており、清次郎は門に手を触れ、武彦の方へと振り返った。
「武彦さんは、吉原は初めてと伺いましたが」
「はい、そうです」
「では、この門を見ておてください。茶屋の並ぶ仲の町は、吉原の玄関。そして、この先の表通りこそが、本物の吉原です」
清次郎が手に力を入れると、門が開いていく。
門の奥からは風が飛び出してきて、かすかに聞こえていた三味線の音が大きくなり、武彦の全身を包んだ。
並ぶ妓楼に吊るされた提灯が空間を染めて、夜と言うにはあまりにも眩かった。
「ささ、お早く」
思わず見とれて立ち止まった武彦は、清次郎の声で我に返り、木戸門をくぐった。
通りの幅は、約五メートル。
にも関わらず、表通りは人でごった返し、皆が夢でも見ているかのように表情をほころばせていた。
表通りの両側には大小さまざまな妓楼が並んでおり、格子窓からは遊女たちが夢に誘うように、手を振っている。
「こちらが江戸町一丁目の通り。七つある表通りの内、最大規模を誇る通りです」
「さ、最大……」
武彦は、格子窓から顔を覗かせる遊女たちを見て、照れた顔を隠すように顔を背けた。
仕事ばかりにかまけ、異性関係から遠ざかっていた武彦にとって、あまりにも刺激的過ぎたのだ。
清次郎は、伊吹から武彦の興味が遊びではなく遊郭そのものにあることを聞いていたので、時々足を止めて、説明を挟んだ。
「武彦様、妓楼の籬の形が違うのがわかりますか?」
「籬?」
「格子窓のことで御座います」
「言われてみれば、確かに」
つい遊女の顔ばかりを見ていた武彦は、注意を格子窓へと移す。
妓楼の籬は、窓の下半分だけ格子がついているものと、四分の三だけ格子がついているものに分かれていた。
「窓が半分の妓楼は小見世、四分の三の妓楼は中見世と呼ばれています」
「中見世の方が、値段が高いってことですか?」
「ご明察です。妓楼は、お客様が無理のない遊び方ができるように、建物の形で格式を見分けられるのです」
「なるほど」
武彦は、好奇心がくすぐられ、清次郎の言葉に耳を傾け、納得したように頷いた。
丁寧な説明をする清次郎を前に、気づけば武彦は、恐いと思っていた感情をどこかに失っていた。
三味線の音に導かれるように、奥へ奥へと歩を進めた。
「ちなみに、これから行くのは?」
武彦が疑問を口にしたと同時に、清次郎は一軒の妓楼の前で立ち止まった。
武彦も一緒に止まり、目の前の妓楼を見た。
その妓楼の籬は、窓全体が格子で覆われていた。
「大見世、紅楼です」
清次郎が振り返って答えた時には、質問の答えは既に、武彦の目の前にあった。
朱色に染まった美しい格子に、他の妓楼と比べて一回りも二回りも大きな赤い建物。
武彦は、目の前の妓楼がこの江戸町一丁目で最も格式の高い妓楼であるとすぐにわかった。
「遅いよ、清次郎」
「失礼しました。お万様、こちら武彦様です。紅椿花魁の初会のお客様です」
「ふーん」
紅楼の前では、遣手婆であるお万がキセルを吸いながら立っていた。
お万は値踏みするような目つきで、清次郎の隣に立つ武彦を見た。
「武彦です」
武彦は、反射的に頭を下げる。
お万は武彦の全身をくまなく観察した後、手に持っていたキセルで自身の肩を叩いた。
「悪くないね。あんた、吉原は初めてかい?」
「え? あ、はい」
「そうかい、そうかい。初の登楼りがウチとは、いいセンスしてるじゃないか。入んな」
お万は武彦を気に入ったようで、武彦に入店を促した。
武彦はお万について、履き物を脱ぎ、板の間を通って、畳敷きの広間へと上がった。
広間には、番頭の護が胡坐をかいて座っており、武彦の姿を見ると仏頂面のまま頭を下げた。
武彦も、それにつられて会釈を返す。
「場所は二階だ。階段は狭いから、気を付けな」
「あ、はい」
そのまま、武彦は広間から二階へと向かった。
急な角度を持つ板の階段には、手すりと滑り止めが備わっており、武彦は慎重に階段を上っていく。
一方のお万は手馴れたもので、手すりを持たないどころか、武彦へ話しかける余裕まであった。
「清次郎から聞いてると思うが、紅椿と会えるのは五分だけだ」
「はい、伺っています」
「動くのも禁止。話しかけるのも禁止。触るなんてもってのほかだ。わかってるね?」
「もちろんです」
「よし」
武彦は古めかしい廊下を歩き、階段から二番目に近い座敷――引付座敷に案内される。
畳の上には座布団が何十枚も置かれ、一枚を残して既に客が座っていた。
「あそこに座んな」
お万が指した最後の座布団の上に、武彦は正座をする。
人の数に似つかわしくない程、座敷はシンと静寂を保っていて、武彦の緊張感が高まっていった。
僅かに首を動かし、落ち着きなく座敷の中を見てみれば、埃一つ髪の毛一本落ちていない畳の綺麗さが目に入った。
特に、空白の上座は特段綺麗に手入れがされており、武彦は、そこに納まるだろう『紅椿』なる存在への期待が膨らんでいった。
座敷の灯りが、一段階落とされる。
ペタン。
パタン。
廊下を歩く音が、座敷に届く。
足音は、上座に近い襖の前で止まり、上座に近い襖がすーっと開いた。
「ごめんくださいまし!」
義務教育も終えておらぬだろう、あどけなさの残る女の子――すずねが入ってくる。
座敷で待つ客に向かって頭を下げると、後ろで結んだ髪の毛がぴょこんと跳ねた。
「ごめんくださいまし」
続いて、大人になったばかりの幼さと美しさを兼ね揃えた女性――輝水仙が入ってくる。
同じく客に向かって頭を下げると、ゆるく巻かれた髪の毛がふわりと揺れた。
座敷の主役でない二人は、客に名乗ることはない。
代わりに、二人は襖を持って引き、一人分だけ開いていた襖を全開にした。
「当楼の、紅椿花魁で御座います」
ペタン。
パタン。
「あ……」
武彦は、思わず声を零した。
否、座敷にいる客全員が五感を奪われた。
紅に身を包んだ紅椿は、その視線一つで、この場を支配した。
座敷の中に控えているはずのお万も若い者も、客たちの視界からかき消される程に。
紅椿は、一段上がった上座の中心までゆったりと歩き、客の方へ向いて正座した。
「紅椿で御座います。どうぞ、よしなに」
スローモーションで再生されていると錯覚するほど、滑らかで緩やかな、品のある動き。
武彦は、その指先一つ、打掛の揺れ一つに至るまで、紅椿から目を離すことができなかった。
紅椿と一瞬目が合えば、武彦の全身に熱い何かが駆け抜け、激しい感情が心臓を揺るがせた。
全身が紅色に染まり、呼吸さえも忘れるほど、視界が紅椿一色になった。
紅椿は客たち一人ひとりと視線を交わした後、やはり滑らかに立ち上がり、そのまま当たり前のように引付座敷を後にした。
すずねと輝水仙も一礼をし、紅椿の後について引付座敷を出た。
二人が襖を閉じた音が座敷に響くと同時に、武彦も、他の客たちも、ようやく我に返った。
客たちの口が開き、一斉に紅椿の美しさを口にする中、武彦は紅椿が座っていた場所をずっと見つめていた。
「紅椿……花魁……」
誰も座らぬ上座からは、そこに紅椿がいるかのような花の香りが漂ってきて、武彦の鼻をいつまでもくすぐった。




