八軒目 茶屋
「清次郎さーん! お客様一名、ご案内でーっす!」
茶屋の一つ、玄屋の前に到着した伊吹は、誰に遠慮することもなく店の奥に向かって叫んだ。
店の奥で金勘定をしていた清次郎は、すぐに誰の声かを感付き、表へと出てきた。
「伊吹様。他のお客様もいらっしゃるので、叫ぶのは遠慮してくださいといつも言っているじゃないですか」
「ハハハ。悪っす。新規さん連れて来たから、チャラってことで」
真剣な声の清次郎に対し、伊吹は軽い調子で返事をした。
清次郎は、まったく改善する気のない伊吹の態度に呆れるも、一先ずは伊吹の連れてきた客への対応が第一だと、いつも通りの笑顔を作って武彦の方を向いた。
「初めまして。玄屋の引手、清次郎と申します」
「あ、あっと。えー」
しかし、武彦が緊張で自己紹介できないとわかれば、すぐに伊吹の方を向いた。
伊吹は、清次郎の視線の意味をすぐに理解し、武彦の肩をバンバンと叩いた。
「この人はねー……あれ? お兄さん、名前何だっけ?」
「さ、佐原です」
「じゃなくて。下、下ー」
「下は……武彦です」
「そうそう、武彦さんっすね! 清次郎さん、こちらの方は武彦さんっす」
「……ええ。私の耳にも聞こえていました」
清次郎は武彦に視線を戻し、武彦の全身をさらりと観察する。
茶屋に来た人間には、遊女の情報が書かれた冊子を渡すのが原則だ。
しかし、清次郎の目から見て、武彦はとても遊郭を楽しもうとしている人間の様子ではなかった。
「こちらをどうぞ」
清次郎は、武彦のことを冷やかしか否か悩み、一瞬冊子を渡すことを躊躇った。
とは言え、武彦を連れてきたのは、他でもない伊吹である。
その一点で武彦を信用し、玄屋の縁台へと誘導した。
武彦は、高そうな赤い布のかかった縁台を見て、座るのを躊躇った。
しかし、隣に伊吹が勢いよく座ったので、倣って慎重に座った。
茶と桜の香りが混じる和の香に鼻をくすぐられながら、緊張した表情で背筋を伸ばす。
「お待たせいたしました」
「あ、ありがとうございます」
武彦は、戻ってきた清次郎から和綴じされた冊子を受け取り、恐る恐るページを捲った。
最初の見開きには、三つの妓楼の紋が描かれ、紋の下には三人の遊女の名前が書かれていた。
『紅楼 紅椿』
『 深紅』
『 薄紅』
彼女たちの値と共に。
『六拾分』
『金 拾萬圓 より』
「たっ……!」
武彦は思わず叫びそうになり、咄嗟に口を塞いだ。
仕事の付き合いでキャバクラへ連れていかれた時の十倍はする料金設定に、思わず冊子を閉じそうになる。
(だ、騙されたー!)
武彦は、初会は安いという伊吹の言葉を思い出し、伊吹へと恨みがましい目を向ける。
が、伊吹は驚きを噛み殺す武彦を面白そうに見ており、武彦の持つ冊子に手を伸ばし、さらにページを捲った。
「そのページは、『馴染み』。お兄さんにお勧めしてたのは、こーれ!」
武彦は、恨みがましい目つきのまま、伊吹の開いたページを覗き込む。
『初会(五分)』
『金 一萬圓 也』
「い、一万円?」
武彦は、最初に見た金額よりも大幅に安いことに、安心よりも驚きを覚えた。
そして、五分と言う時間設定を見て、眉を顰める。
再び付き合いで行ったキャバクラを思い出せば、たった五分で何ができるのだろうと、一万円が酷く高く感じた。
だが、武彦が初会の金額を恐れることも、伊吹の想定内。
伊吹は、なれなれしく武彦の肩に手を回し、まるで親友のような口調で話しかけた。
「高っ!……と、思ったっすか?」
「ま、まあ、少し」
「初会を始めてみたお客さんは、皆そう言うんっすよ」
「で、ですよね」
「でもね、初会を経験したお客さん、不思議と誰も文句を言わないんっすよ。それどころか、一万円は安すぎるって、ニッコニコ顔で帰ってくんっすよねー」
「あ、そうなんですね……」
ぐいぐいと近づいてくる伊吹に、武彦は言葉を詰まらせる。
ちらりと清次郎の方を見れば、相変わらずの営業スマイルのまま、武彦の様子を見ていた。
二人の人間が自分のために時間を使ってくれていると思うと、武彦は罪悪感で心が痛んだ。
「じゃあ……初会で……お願いします」
「はーい! 清次郎さん、紅椿花魁の初会一人、入りましたー!」
「紅椿花魁でよろしいんですか?」
清次郎が念のため武彦に確認をとると、武彦は無言で何度も頷いた。
武彦は、紅椿が何者かをわかっていなかった。
しかし、払う金額が変わらない以上、武彦にとっては誰を指名するかなど、些末な問題だった。
(大丈夫。給料も入ったばっかりだし、一万円なら大丈夫)
月末の給料日直後だと言う事実を自分に言い聞かせ、武彦は押しに弱い自分の行動を、必死に肯定する。
「では、お先にお支払いをお願いできますか」
「クレジットカードでお願いします」
「お預かりいたします」
男・武彦二十八歳。
初の妓楼を前に、震える手でクレジットカードを差し出した。




