五十軒目 切見世
切見世の長屋の部屋は、幅四尺五寸奥行九尺の広さで、奥に長い形をしていた。
入り口には靴を脱ぐための土間があり、土間の少し奥には鏡台や裁縫道具が置かれている。
自由に歩ける場所と言えば、奥にある畳二畳分がせいぜいだ。
「座んな。いっとくけど、座布団はないからね」
千桜は土間で靴を脱ぎ、畳の上へと腰を下ろす。
畳のささくれが脚にチクチクと刺さったので、それを見つつ眉を下げた。
下座へ座った千桜に対し、遊女は不思議そうにその背中を見る。
「奥へ行かないのかい? あんたは客だよ」
「私が貴女のお家に、お願いをしに来ている立場ですので」
「カッ。家って呼べるタマかよ、この牢屋が」
遊女は、手にした万札を小さな金庫にしまった後、部屋の奥に畳まれている布団の上へと腰かけた。
潰された布団からは、ぬるい空気の塊が押し出されて、千桜の髪をばさりと揺らした。
「うっ……!」
千桜は、空気から漂ってきた得も言えぬ匂いに鼻を塞ぎ、涙目になりながら遊女を見た。
遊女も同じ空気を嗅いだだろうに、匂いに慣れているのか、けろりとした顔をしていた。
「ああ、すまないね。ロクに洗濯もできてなくてね」
「……いえ」
「除菌スプレーはかけてるから、ダニは沸いてないはずさ」
「そ、そうですか」
「ああ、そうか! 餓鬼には嗅ぎなれない匂いだよな。この」
「そ、それよりも!」
匂いの正体を説明しようとしていた遊女を、千桜は大きな声を出して止めた。
匂いの正体を察してはいたが、正解を聞く気など無かった。
「しっ」
大声を出した千桜に対し、遊女は人差し指を口の前に立て、もう一方の手で横の壁を指差した。
否、千桜が壁だと思っていたものは襖であり、千桜は長屋の正体が、一つの長い部屋を襖で区切っただけのものだと気づいた。
「隣に音が響きやすいんだ。話す時は小声で話しとくれ」
「す、すみません」
遊女の言葉を証明するように、隣の部屋からビーッと鼻を嚙む音が聞こえてきた。
遊女は、線香を一本取り出して火をつけ、小さな火鉢へと突き刺した。
千桜は、それが紅楼で使っている香時計と同じく、時間を測るためのものだと直感的に理解した。
強烈な香りが部屋に漂い、布団の匂いを強引に上書きし始める。
千桜は、多少の不快感が消えたことで、ようやく表情を緩め、遊女へと向き直った。
豆電球に照らされた遊女の目じりにはいくつものシワができており、髪のところどころに白髪が混じっているのが見えた。
紅椿よりも年上で、お万よりも年下だろう、というのが千桜の見解だ。
「煙草、いいかい?」
「どうぞ」
「悪いね。どうも、こいつがないと落ち着かなくてね」
遊女は、布団の上に置かれていた紙煙草を手に取り、ライターで火をつけた。
時間をかけて煙を吸い込み、天井に向かってふうっと吐き出した。
天井にぶつかった煙は四方へと広がり、部屋の中に疑似的な雲を作る。
「で、裏茶屋の場所だったか」
「はい」
「あんたが使うのかい?」
「はい」
遊女は、千桜の全身を舐めるように見た。
視線が顔の鼻先から、胸へ腰へと下りて行く。
「餓鬼は入れないと思うけどね」
千桜は、大人びて見えると言われるが、それでも成人に見られることはない。
あくまでも、子供の中での話だ。
「子供では、使えないんですか?」
「ああ。京町二丁目はちいとばかし治安が悪いが、それでもお国の管轄下。多少のお目こぼしはしてくれるが、未成年となっちゃあさすがにね」
「私の自己責任でやります」
「餓鬼に責任なんてとれるかい。結局責任とんのは、裏茶屋を紹介した馬鹿と、未成年に使わせた馬鹿だよ」
遊女の咥える煙草から、灰が畳へと零れ落ちる。
遊女は落ちた灰を、ティッシュでぐりぐりと潰した。
「揚代の分は、ここまでだ」
いつの間にか、遊女がつけた線香の火が消えていた。
余りにも早すぎる正当に、千桜は思わず線香を二度見する。
千桜が遊女に視線を戻すと、遊女は次の煙草を吸い始めており、天井を見つめていた。
対等な取引相手とさえ見られていない。
そんな目の前の状況を打破すべく、千桜は思考を巡らせる。
自分が裏茶屋を使うのは嘘だと明かし、本当の目的を伝えるべきか。
しかし、嘘をついていた事実は、遊女の心証を悪くしかねない。
最初から本当のことを話しておくべきだったか。
苦虫をかみつぶした表情で、千桜の思考が絡まっていく。
そうしている間にも、遊女の煙草が消えていく。
煙草の箱が空になると、遊女は布団から立ち上がって、土間へ煙草の箱を投げつけた。
そして、踏みつけてペチャンコにした後、切見世の扉に手を伸ばす。
「帰んな」
千桜は反射的に、懐から万札を追加し、土間近くの畳へと叩きつけた。
遊女はぴくりと眉を動かし、扉に伸ばす手を止める。
代わりに、畳に置かれた万札を拾い、いそいそと金庫に仕舞い始めた。
「延長ってことかい? 言っておくが、今以上の情報は」
「あと、いくら必要ですか?」
千桜は、さらに目の前に札束を叩きつける。
金庫の前に立っていた遊女は、千桜に背を向けたまま、探るような声で言葉を返す。
「あんた、どこの妓楼のもんだい?」
「……紅楼です」
「紅楼。吉原でも一・二を争う、大妓楼様じゃないか」
自分一人では、これ以上の交渉は不可能だ。
そう悟った千桜は、自身の背負う看板というカードを、一枚きった。
遊女はゆっくりと振り向いた。
その瞳には、不愉快そうな感情が籠っていた。
「あんたは、自分が使いたいから裏茶屋を探してるんじゃなくて、あんたんとこの花魁が裏茶屋を使ってるから、バレる前に見つけて握りつぶそうってハラだ。違うか?」
「その通りです」
「ケッ。潔白が売りの大妓楼様が考えそうなことだ」
「嘘をついて、申し訳ありませんでした」
千桜は、土間にしゃがむ遊女に、深く土下座をした。
遊女はしばし沈黙し、大きな溜息をついた。
「頭を上げな」
そして、土下座をしている千桜の髪を掴み、無理やり頭を上げさせる。
「事情は分かった。大妓楼様が本気を出してるとなれば、あたしが口を割らなくても、いずれバレることだね」
「そう、でしょうね」
「あんたらからしちゃ迷惑極まりない裏茶屋も、京町二丁目にとっちゃあ大事なモンでね。大事にはしたくないんだよ」
意見に相違はあれど、千桜は無言で頷いた。
千桜の清濁飲み込んだ反応に、遊女はにやっと笑い、息がかかる程近くまで顔を近づけてきた。
「まず、この件を大事にしないと誓約書を書きな。そして、うちの切見世に三百、裏茶屋に二百準備しな。そうすれば、裏茶屋のやつに話を通して、あんたたちを裏茶屋の客として迎えるよう、手引きしてやってもいい」
「合計で五百万!? そんな金額、私が決めることは」
「決めな。今mここで。交渉を任されたのはあんたなんだろ?」
千桜の髪を掴む遊女の力は、一切弱まらなかった。
二が好きなどないという無言の圧力が、千桜へと掛かる。
綱渡りでもしているような遊女の混濁する瞳が、肉食獣のように千桜を捉え続けた。
五百万円。
千桜は、文無しの自分が、果たして自分が何年紅楼でタダ働きをすれば稼げる金額だろうかを考えていた。
金持ちになるためにやってきた紅楼で、借金漬けの未来を背負うなど本末転倒も甚だしい。
「高い」
「はあ?」
だからこそ千桜は、全てを失う勢いで、最後の交渉に打って出た。
もともと、金のない身。
借金を百万背負おうが一千万背負おうが、大差はないと腹をくくった。
「ここの裏茶屋で密会しているとは限らない。角町と揚屋町の裏茶屋にも話を通してくれないと、その額は出せない」
「あんた、自分が交渉できる立場だと思ってるのかい?」
「思ってる。もしも私が今晩帰らなければ、紅楼には私を探すという名目で、京町二丁目を捜索ができる。当然、切見世も見つかるでしょう。それは、貴女が一番嫌がった、大事に繋がりませんか?」
遊女の髪を掴む力が弱まる。
遊女は、眉間にシワを寄せ、いっそう不愉快そうに千桜を睨みつけた。
「糞餓鬼が」
「どうします?」
「……どうもこうも、他の町の事情は、あたしも知らない」
「では、交渉は決裂ということで」
「待て。代わりに、他の通りの交渉先は紹介してやる。ただし、追加で百をもらう」
「紹介だけなら、十が妥当では? 二人分なので、二十で手を打ちましょう」
「通りによってルールが違うから、手数料やらなんやらがかかんだよ! 九十!」
「三十」
「間をとって六十」
「私のスタートはゼロ、貴女のスタートは百です。間をとるなら、五十でしょう」
「……わかった。それで手を打よう。うちに三百五十、裏茶屋に二百だ」
遊女は千桜の髪から手を話し、くたびれたように布団の上へ座った。
そして、畳の真ん中を指差す。
「前金に百、置いてきな」
「持ち合わせがないので、ひとまず五十だけ。残りは、昼までに必ず持ってきます」
「わかったよ。もし扉が閉まってたら、三回ノックしな」
「わかりました」
千桜が五十万円を畳の上に置くと、遊女はさっさと金庫へしまった。
そして、紙を一枚取り出し、汚い字で誓約書と書いた紙をしたため、最後に血判を押した。
「字は読めるか?」
「読めます」
「じゃあ、内容読んで、あんたも血判しな」
「……印鑑じゃ駄目ですか?」
「百均で買える玩具に、なんの証明ができんだよ」
遊女が、千桜に裁縫針を手渡す。
千桜は契約書の内容を読み終え、恐る恐る裁縫針で指先を刺し、人生初の血判を交わした。




