四十九軒目 京町二丁目
遊女の一日は、十時の起床から始まる。
目を覚ましたら湯浴みをして、化粧を済ませる。
昼見世のある妓楼では、正午より昼見世に出る。
その後、十六時から休憩に入り、十八時からは夜見世に出る。
ぎっしりと詰まった予定の中、仮に遊女が逢引を求めれば、夜見世の営業終了から早朝までと、時間は限られるだろう。
深紅から緊急の買い出しを頼まれた体で、千桜は江戸町一丁目を歩いていた。
妓楼の扉はどこも閉まり、表通りを彩る三味線の音も静まり返っている。
妓楼の華つ赤い灯りも身を潜め、代わりに星々が道と建物を照らしていた。
「静か」
千桜は、そんな感想を零しながら歩いていく。
静まり返った夜の道では、悪いことをしている訳でもないのに、自然と足音を小さくしてしまう。
木戸門をくぐって仲の道に出る。
並ぶ引手茶屋には、ところどころ灯りがついており、数人の店員たちが茶屋の見張りをしながら仕事を続けていた。
引手茶屋の仕事には、大門が開いている間の客引きだけでなく、妓楼で朝を迎えた客の出迎えと料金徴収があるとは、授業で習った内容だ。
千桜は、誰の目を気にすることもなく、仲の町を堂々と歩いた。
先日、師走の逃走騒動があったばかり。
こそこそ歩くと、逆に目立つと考えた。
引手茶屋の人間は、仲の町を歩く小さな人影に気付いて顔を上げるが、千桜のことを気にする様子もなく、すぐに元の仕事へと戻っていた。
仲の町を歩く遊女は、千桜ばかりではなかった。
揚屋町を目指す遊女たちも、堂々と通りを歩いている。
次の昼見世までに物品購入を望む遊女たちが、早々に揚屋町へ向かうことは、決して珍しい光景ではない。
千桜は、揚屋町に向かっているだろう遊女たちに紛れて、仲の道を歩き続けた。
そして、揚屋町に続く木戸門の前で進行方向を変え、揚屋町から京町二丁目の方向へ帰ろうとしている遊女の背後についた。
一見すると連れのような距離でしばし歩き、徐々に歩幅を狭めながら、遊女から距離をとっていく。
遊女が京町二丁目に続く木戸門を開け、中に入るのを見た数秒後、千桜も当然の顔をして木戸門をくぐった。
「うっ。酒臭……」
即座に千桜を襲ったのは、混ざり合うアルコールの匂いであった。
千桜が鼻を押さえ、辺りを見渡してみると、酒が入っていただろう空き缶や空き瓶が至る所に転がっていた。
中には、中身が残ったまま捨てられている物もある。
「誰か片付けたらいいのに」
江戸前一丁目では、そもそも客が表通りにゴミを捨てるなど考えられない。
稀に捨てられたとしても、近くの妓楼の若い者が即座に清掃にかかる。
歓迎しない文化の違いを目の当たりにし、千桜は渋い顔をしつつ、歩を進める。
江戸町一丁目同様、小見世は既に灯りが消えていた。
一方、切見世と思しき長屋は、まだ営業をしているのか、朧げな灯りが揺れていた。
「おう、姉ちゃん! いくらだ?」
「おっぱいちっちゃいんだし、こんくらいでいいだろ?」
千桜が切見世の灯りを頼りに歩いていると、周囲から粗暴な声がかけられた。
千桜が振り向くと、小見世の壁を地面を椅子代わりにした男たちが、赤ら顔で指を立てていた。
千桜は、聞こえていませんと主張するすまし顔を作って、速足に男たちの前を歩き抜けた。
「ばっか! お前がおっぱいちっちゃいとか言うから、逃げちゃったじゃねえか!」
「なんだよ? 大事だろ、おっぱいは!」
男たちは、千桜を追ってくることもなく、背後からギャハギャハと品のない笑い声をあげ続けていた。
「……最悪」
千桜は、思わず着物の胸元を整えた。
先日に来たときよりも、京町二丁目の雰囲気は乱れている。
男たちの様子を思い返し、こっちが通りの本性かと思い至れば、千桜は感情を吐き捨てた。
そして足を止め、気を落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
酒気を帯びた香りと、誰かが立小便でもしたのだろうアンモニア臭が鼻をつんざき、千桜は直後に大きく咳き込んだ。
「……最悪」
浮かんできた涙を腕で拭きとって、千桜はさっさと目的を果たして帰ろうと、京町二丁目に並ぶ建物を一つ一つ確認してく。
表通りには、消灯済みの小見世と点灯中の切見世が、奥の方にまで続いていた。
「茶屋は……ないなあ。裏茶屋って名前だけど、茶屋の見た目はしてないのかも」
千桜は、消灯した小見世に近づき、籬から中を覗き込んでみる。
室内は真っ黒であり、僅かに灯る豆電球だけが照っていた。
「裏茶屋だとすると、こんなに暗いかな? 部屋から明かりが漏れてそうだけど」
千桜が考えごとをしていると、小見世の中から足音が聞こえた。
千桜は慌てて頭を隠し、そっと籬から中を覗き込む。
小見世の中で、若い者だろう男が奥へ向かう背中が見えた。
「一人だけ。紅楼とは全然違うのね」
ここへ来てから違う常識に触れてばかりだなどと考えながら、千桜は籬から顔を離す。
もう少し中を観察したい衝動にかられたが、目的優先を第一に、外観へと視線を向ける。
「後の手掛かりは、桐屋の行灯かあ」
そして、小見世にぶらさがる提灯を見た。
提灯に灯りが点いていないため見えにくくはあったが、ウサギをモチーフにしただろう紋が提灯には描かれていた。
「兎楼、ってとこかな?」
千桜は、桐屋の行灯が裏茶屋の目印となっているのであれば、妓楼の提灯か壁に、桐を示す何かがあるだろうと当たりを付けた。
明かりの付いていない小見世を回り、一軒一軒、提灯を確認していく。
「ここもない」
「お嬢ちゃん、寄ってかない? うちは女の子でも歓迎よ?」
確認している間にも、切見世に立つ遊女たちから声がかかる。
千桜は、意識的に切見世を見ないようにしつつ、調査を続けた。
一度だけ好奇心で振り向いてしまったが、遊女の着る着物は寝間着として使える程度のもので、思わず「ええっ」と声を出してしまった。
あんな着物で、果たして客にどんな夢を見せることができるのだろうと考え、その先を想像することを打ち切った。
「ない。ここもない」
さっさと裏茶屋を見つけて京町二丁目を出て行きたいという想いが、千桜の中に膨らんでいく。
音も、匂いも、風の生暖かさでさえ、紅楼を知った千桜にとっては受け入れがたいものだった。
「……背に腹は代えられないか」
しかし、いくら探しても、手掛かり一つ見つからない。
千桜は足を止め、自身に声をかけてきた遊女のいる切見世へと近づくことにした。
「おいでおいで。料金は、先払いでいい?」
千桜が近づいて来たのを見た遊女は、にやけ顔を隠せないまま手招きをした。
そして、長屋の扉を開け、誘導するように中へ入ろうとした。
千桜は、その手を掴んだ。
「……なんだい?」
手を掴まれた遊女は、表情を一変させ、怪訝そうな顔を千桜へと向ける。
同じ長屋の遊女たちは、隣の部屋の前から、野次馬のように千桜へ視線を向けてきた。
「裏茶屋の場所を知りませんか?」
「……知らないねえ」
千桜は、単刀直入に問った。
その瞬間、遊女は表情を歪めて、千桜の手を振りほどこうと力を入れた。
しかし、一考に千桜が手を離さないので、足を思いっきり踏みつけた。
「痛っ…‥!」
「放しな小娘! 営業妨害だ! 警備員を呼ぶよ!」
「じ、実は、楼の若い者と恋に落ちてしまって!」
「知るか!」
「裏茶屋なら、密会できるって聞いたんです!」
千桜は必須の声と表情で、遊女の手に食らいつく。
同時に、もう片方の手で懐から金を取り出し、遊女の手へと握らせた。
「もちろん、タダでとは言いません」
手に乗せられた金を見た遊女が、ピタリと動きを止める。
片手の指を器用に動かして、握らされた札を広げ、ぎょろぎょろとした視線で札を見回す。
「……うちの揚代は、一ト切二千円だ」
「え?」
「こいつは、揚代ってことでいいんだよな?」
「いえ、私は」
「いいんだよな?」
ぎょろぎょろとした視線が千桜に向けられる。
千桜は、不気味な視線に、思わず背筋を震わせた。
表では話せないから中に来いと言っているのはわかったが、一方で罠かもしれないという想いも捨てきれずにいた。
もしも罠だったら自分はどうなってしまうのか、そんな不安が全身を駆け巡った。
「はい!」
だが、深紅と紅椿から任されたのだという責任感が、胸を張って進むことを決めた。
「うちの客だ! 消えな!」
交渉成立を理解しただろう遊女は、隣の部屋から覗く野次馬を一喝し、千桜を長屋の中へと引きずり込んだ。
長屋の中には、豆電球の灯りに照らされる、小さな空間が広がっていた。




