四十七軒目 噂
紅椿が自身の部屋に戻り、襖を開ける。
「あ、お姉様!」
紅椿を迎えたのは、禿であるすずね。
「お帰りなさいませ、お姉様。それと」
新造である輝水仙。
「お邪魔してるわぁ。紅椿ぃ」
「深紅姉様」
そして、紅楼のナンバー2、深紅だった。
紅椿は襖を閉めると、深紅の前へと座った。
その表情からは、輝水仙やすずねに見せる先輩としての威厳が少し欠けていた。
「すずね。深紅花魁に、お茶を入れてちょうだい」
「お気遣いなくぅ。用件をすましたらぁ、すぐに帰るからぁ」
深紅は、紅椿からの申し出を断り、代わりにすずねと輝水仙へ視線を送った。
視線の意味に気づいただろう輝水仙は、すずねを掴んで立ち上がり、部屋の外へと向かった。
「なんでありんす?」
「いいから」
頭の上にはてなマークを浮かべたすずねを掴んだまま、輝水仙は襖を閉める。
深紅は、襖に隙間がないことを確認した後、窓も閉まっていることを確認する。
いつもよりも慎重な深紅の行動を前に、紅椿は表情を引き締め直し、背筋を伸ばす。
深紅の視線が部屋を探るのをやめ、すっと紅椿へと戻ってくる。
「うちの花魁がぁ、裏茶屋を利用してるってぇ、噂が立ってるわぁ」
「……っ!」
紅椿の背中が、びくんと動く。
裏茶屋。
別名、出合茶屋。
客に妓楼を紹介するために存在する引手茶屋とは異なる、吉原非公認の茶屋。
妓楼関係者同士の恋愛が御法度とされる吉原において、関係者同士が人目を避けて愛し合うための隠れ蓑である。
「裏茶屋。令和吉原にも、まだ残ってたのね」
「私もぉ、半信半疑よぉ。でもぉ、無視をするにはぁ、楼内に噂が立ちすぎていてねぇ」
「……そう。まだ、楼内ですんでいるのね」
ただでさえ、不信を買っている紅楼だ。
これ以上の問題が外部に漏れれば致命傷になりかねない。
紅椿は、ひとまず現状に安堵する。
「とはいえ、外部に漏れるのも時間の問題ね」
「そうねぇ」
だが、予断は許されない。
深紅も同様の問題を認識しているのだろう、紅椿の言葉にうなずいた。
「私はぁ、裏茶屋を探してぇ、利用している花魁をぉ、見つけるつもりよぉ。ただぁ、一人じゃあ人手がねぇ。そこでぇ、紅椿ぃ。貴女にもぉ、協力してほしいのぉ」
「もちろんよ」
深紅からのお願いに、紅椿は間髪入れず返事をした。
深紅は安心した表情で笑みを浮かべ、襖に向かって叫んだ。
「千桜ぁ!」
「はいっ!」
襖ががらりと開き、千桜が緊張した面持ちで入ってきた。
しかし、深紅が千桜に微笑みかけると、相談が上手くいったと察した千桜は、ほっと無でをなでおろした。
千桜の後に、すずねと輝水仙がついて入って来て、三人は紅椿と深紅の近くに腰を下ろした。
深紅は、すずねと輝水仙を見た後、紅椿へと向き直った。
「この子たちはぁ、信用できるぅ?」
「ええ、もちろん。私を支えてくれる、優秀な二人よ」
事情を知らないすずねと輝水仙であったが、褒められて悪い気はせず、すずねは思いっきり表情を緩め、輝水仙はすまし顔のまま口角がピクピクと動かした。
紅椿は、すずねと輝水仙へ向き直り、裏茶屋の件を説明した。
最初は不安そうな表情で聞いていた二人も、最後には使命感に溢れた、良い表情となっていた。
「紅楼がなくなるのは嫌でありんす! すずねも、全力で協力するでありんす!」
「Je suis d'accord。深紅花魁、目星はついているのですか?」
輝水仙からの質問に、深紅は首を横に振った。
「千桜に聞き込みはさせているのだけれどぉ、なかなかねぇ。特にぃ、薄紅派は非協力的だしぃ」
運の悪いことに、現在の紅楼は、薄紅派の不安が伝搬していた。
紅楼全体に、自分たちも追放されるのではないかという恐怖が蔓延り、互いに疑心暗鬼になっていた。
深紅は花魁たちから向けられた怯えるような視線を思い出し、溜息を零した。
「深紅姉様。もう一人、協力者を入れていいかしら?」
紅椿も、それを理解していた。
だからこそ、頭の中には、紅楼において最も中立な存在が頭に浮かんだ。
「誰かしらぁ?」
「黒松花魁よ」
黒松の部屋には、相変わらず本が積み上がっていた。
いや、先日紅椿が訪れた時よりも、一つ一つの積み上がりが高くなっていた。
「と言う訳なの、協力してくれない?」
読書に勤しんでいた黒松は、書物を顔から離し、心底面倒くさそうな表情で紅椿を見た。
「…………私、吉原細見じゃないんだけど」
そして、書物を机の上に置き、積み上がった本の中から、一冊の本を引っ張り出した。
まったく迷いのない手で広げられたその本は、黒松の字で表紙に『黒松雑記』と書かれており、手作り感あふれる拙さがあるものだった。
「この本、貴女が?」
「…………まともな地図がないから、作った」
黒松が開いた黒松雑記を、紅椿も覗き込む。
開かれたページには、令和吉原全体を上空から見たような地図が描かれており、左上には『裏茶屋』と書かれていた。
さらに、三つの表通りの上には、達筆な筆文字で丸数字が書かれていた。
「揚屋町に四、角町に四、京町二丁目に一。これって……」
「私が知る限りの、裏茶屋のある場所。具体的な位置まではわからないけど」
「これ、借りていいかしら!」
紅椿にとって、黒松の知識は信用に値するものだった。
紅椿が黒松雑記に触れると、黒松が紅椿の手を上から押さえつけた。
「…………貸すのは駄目。覚えて」
「でも、他にヒントになることも書かれてそうだし」
「駄目」
紅椿はしばし抵抗していたが、黒松が譲る気がなかったため、渋々と手を引っ込めた。
そして、三つの表町の名と数字をじっと見つめ、暗記して立ち上がった。
立ち上がった後も、名残惜しそうに黒松雑記へ視線を送る。
しかし、黒松はさっさと黒松雑記を元の位置に戻してしまい、読みかけの本をとって読書を再開し始めた。
「助かったわ、黒松花魁」
紅椿は、今度こそ黒松雑記を仮つことを諦め、部屋を後にしようとした。
すると、黒松は視線を本に落としたまま、口を開いた。
「裏茶屋には、目印があると言われてる」
「目印?」
「桐屋の行灯。私も、見たことはないけど」
「桐屋ね。ありがとう」




