四十六軒目 負荷
「最近、お万様の授業がないでありんす」
紅椿の着付けをしながら、すずねは思い出したように呟いた。
紅椿は体を静止したまま、首を動かしてすずねを方を向いた。
「そうなの?」
「はいでありんす。以前まではお万様がやっていた授業も、最近は深紅花魁や他の方々が代わりをしているでありんす」
すずねの言葉を聞いて、紅椿は、最近お万の顔を見ていないことを思い出す。
普段は遣手部屋に籠っているようで、部屋の前を通る時に、筆を走らせたり算盤をはじているだろう音が聞こえるのみだ。
たまに部屋の外で見かけたとしても、急ぎ足で遣手部屋と内所を往復しているため、話しかけることができないでいた。
「心配ね」
「はいでありんす。すずねも、お万様の授業を受けたいでありんす」
心配そうに言う紅椿の言葉に、すずねも大げさに頷いて見せた。
が、紅椿の着付けを終えたところで、輝水仙が呆れた表情ですずねの顔を見た。
「Menteuse。お姉様、すずねは嘘をついています。昨日も、『お万様から怒られなくて快適でありんすー!』と言ってました」
「ぎゃー!? なんでバラすでありんすかー!?」
「お姉様の前でだけ良い子になろうとする根性が気に食わない」
「お、お姉様の前でくらい完璧な禿であろうとする乙女心、わからないでありんすかー!」
「わからない」
焦るすずねと、呆れる輝水仙。
紅椿は二人の様子を微笑ましそうに見た後、遣手部屋がある方向を見つめた。
もしかすると、薄紅と師走の件がお万の負担を増やしているのではないかと思い至れば、じっとしていることなどできなかった。
「お姉様?」
「ちょっと、お万のところへ行ってくるわ」
自身の部屋を出て、すずねも輝水仙も連れずに、遣手部屋へと向かった。
「お万。今、いいかしら?」
遣手部屋の中から聞こえていた物音がピタリと止まり、しばらく沈黙が流れる。
「入んな」
「ありがとう」
返事をもらった紅椿は、そっと襖を開く。
紅椿の目に飛び込んできたのは、畳の上に散乱した書類と、目の下にクマを作ったお万の姿だった。
いつもきっちりと束ねられている髪の毛も、輪ゴムで適当に止めたのではと思うほどに雑だ。
「なんか用かい?」
お万は、ちゃぶ台の上に置かれた書類に筆を走らせながら、ぶっきらぼうに尋ねた。
顔を向ける余裕もないようで、視線はちゃぶ台の上を彷徨うままだ。
紅椿は、散乱する書類を踏まないように部屋の中へと入り、ちゃぶ台の近くにある書類の落ちていない空間を見つけ、腰を下ろす。
「私も手伝うわ」
訊きたいことはいくつかあったが、紅椿が最初に口にしたのはそれだった。
「不要だよ」
「嘘。そんなにクマまで作って」
「いつものことだよ。用事はそれだけかい? なら、戻んな」
「戻らないわ」
紅椿はちゃぶ台の近くから動かず、近くに落ちていた書類を一枚手に取って、ちゃぶ台の上に置く。
そして、近くの箱に立っていたペンを一本手に取り、お万の代わりに筆を入れて行く。
「おい! 何を勝手なことしてんだい!」
「昔、お万の仕事も見てたからね。このくらいは、私でもできるわよ」
「……ちっ」
紅椿は、お万が自身の仕事を奪われることに対して、良い感情を抱かないことは理解していた。
しかし、それでも、紅椿は仕事を奪った。
無理やり止められるかとも思ったが、お万は紅椿を睨みつけた後、何も言わず仕事に戻っていた。
紅椿、お万自身も一人では限界だったのだろうと理解し、お万の横で仕事を続けた。
部屋の中には、しばらくペンを走らせる音と、紙の擦れる音が聞こえる。
紅椿が目にする書類は、どれもこれも紅楼にとって都合の悪い情報ばかりだった。
薄紅派の遊女たちが稼いでいた利益の減少。
師走の脱走以降の、茶屋が紅楼を紹介する数の減少。
令和吉原の組織を取りまとめる会議、寄合の代表からも、紅楼の失態を厳しく注意する手紙が届いていた。
紅椿が書類仕事を勧めていると、お万が諦めたような声で言ってきた。
「紅椿。見ての通り、紅楼は今、吉原中から疑いを向けられちまってる。薄紅が客を破産させかけただけでなく、禿の逃亡を許しちまったんだ。昼の役割も夜の役割も満足にできない紅楼は、果たして信用できるのか、とね」
うちよりもっと杜撰な妓楼もあるだろうに、とお万は愚痴のように付け足した。
「真っ先にやるべきは、紅楼を貶める膿を取り除いて、まっさらな状態に戻すことだ。紅椿。あんたの仕事は、こんな昼の仕事で疲弊することじゃなく、夜の仕事で客からの不信を拭うことだよ」
紅椿の手が、ぴたりと止まる。
初めてばかりとは言え、目と指にじんわりと溜まり始めている疲労に気づいたからだ。
しかし、疲れ切っているお万をこのまま放っておくのも心が痛み、心の中で葛藤する。
「充分さ。助かったよ」
お万は作業を終えた書類をちゃぶ台の端へ寄せ、新しい書類をとる代わりに、紅椿の持つ書類を自身の方へと手繰り寄せた。
そして内容を確認し、手を加えることなく、ちゃぶ台の端へと寄せた。
紅椿はお万の手の動きを見た後、時計へと視線を向ける。
アナログ時計の秒針は、容赦なく時を刻んでいた。
「後、五分だけやらせて。そうしたら、自分の仕事に戻るから」
「絶対だよ?」
再び、部屋の中にペンと紙の擦れる音だけが響く。
ちゃぶ台の上に書類が重なっていき、膿のない情報が積み上がっていく。
できるだけ多くの仕事を終わらせたい紅椿の感情とは裏腹に、長針はすぐに五分の経過を示した。
「そろそろ五分だよ」
お万が時計を見ながら、紅椿へと言った。
が、紅椿はお万の言葉に反応せず、数枚の書類をじっと見ていた。
「紅椿? 五分経った。これ以上は」
「お万! これ!」
紅椿は、目を大きく開きながら、書類をお万へと差し出した。
お万は差し出された書類に目を通し、怒りを我慢するような笑みを浮かべた。
「ほーう。この金の動きは、ちょっと妙だね。なんでここで、あいつの名前が出てくるんだい」
紅椿は、じっとお万の反応を見つめていた。
お万は、その数枚だけをちゃぶ台の上に揃え、畳に散乱した書類から関係しそうな書類を探し始めた。
「後は、あたしの仕事だ。紅椿。あんたは、自分の仕事に戻りな」
「ええ」
お万お言葉通り、この後の作業はきっとお万の方が適役だろうと判断し、紅椿は素直に立ち上がった。
「ありがとよ」
部屋を後にしようと襖を閉める直前、お万から小さな感謝の言葉が零された。
紅椿は思わず口角を上げて、しかし振り向くようなこともせず、襖を閉めた。




