四十四軒目 机上
紅楼に戻った紅椿たちを迎えたのは、お万だった。
「お帰り。無事に、禿を見つけたようだね」
額に青筋を立てたまま、無理やり作った笑顔で師走を見る。
「ひっ!」
お万の剣幕に、師走は思わず、手を繋いでいた若い者の背に隠れた。
お万は、口に咥えたキセルをギリギリと噛みしめた後、小さな溜息をついた。
「腹減ったろ。台所におにぎりを用意してあるから、さっさと食ってきな」
「……え?」
ぶるぶると震えていた師走は、お万からの言葉を聞いて、恐る恐る顔を覗かせる。
「あの……脱走の……罰は?」
「あんたを叱っても、一銭の得にもなりゃしない。今日は休んで、明日からしっかり働いてもらうよ!」
「は、はいぃ!」
お万の怒鳴り声が、周囲の空気をびりびりと震わせる。
師走は若い者から離れ、逃げるように紅楼の中へと走っていった。
お万は師走を見送った後、戻ってきた若い者たちに、功をねぎらう。
「あんたらもご苦労だったね。台所に、あんたらの分の飯も用意してある。それを食ったら、護の指示に従いな」
「はい!」
若い者たちも、ぞろぞろと紅楼の中へ入っていく。
若い者たちにあわせて、見世台に座っていた牛太郎も、紅楼の中へと入っていく。
店頭に残されたのは、たった三人。
お万、紅椿、そしてすずね。
「じゃ、じゃあ、すずねたちもご飯を食べに台所へ」
「待ちな」
すずねが何事もなかったかのように紅楼へ入ろうとする。
が、お万はその首根っこを掴み、自身の方へと手繰り寄せた。
全身が固まるすずねを掴んだまま、お万は紅椿の方を見た。
「あたしが言いたいことは分かるね?」
気が付けば、お万の額には再び青筋が浮かんでいた。
「独断行動の罰は受けるわ」
「いい覚悟だよ! この馬鹿者どもがぁ!」
「ぴいいいいっ! チョベリバでありんすー!」
お万はすずねをひきずりながら、紅楼の中へと入っていく。
紅椿は、逃げる様子も見せずに、その後をついて行く。
紅楼に入った瞬間、禿や新造、若い者たちの視線が三人に向けられる。
「見せ物じゃないよ!」
が、お万の一括で、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
遠目からの大量の視線に見守られながら、三人は行灯部屋へと向かっていった。
その後、お万の怒声は一時間に渡り響き渡った。
行灯部屋から出てきたお万は、未だに怒りが収まらないようで、大きな足音を立てながら二階へと上がっていく。
後から出てきた紅椿はいつも通りの温和な表情をしており、すずねは魂を抜かれたように真っ白な顔色をしていた。
「悪魔が……悪魔が君臨したでありんす……」
「たっぷり叱られちゃったわねえ」
紅椿がすずねの頭を撫でていると、外で待っていた輝水仙が、呆れの混じった表情で近づいてきた。
「お姉様。これっきりにしてくださいね?」
「ごめんなさいね」
輝水仙はそれ以上何も言わず、紅椿の背後へと回り、紅椿の背中にしがみ付くすずねをはぎ取った。
紅椿は周囲を見渡し、師走が見つかったと報告をしてくれた若い者の顔を見つけてる。
近づいてくる紅椿に、若い者は自然と背筋を伸ばした。
「師走を見つけてくれたのは、貴方?」
「は、はい!」
「そう。改めてお礼を言うわ。ありがとう」
紅椿の言葉に、若い者は赤く染まった頬を掻く。
そして、言いにくそうに、口を開いた。
「見つけたのは私なんですが、師走のいる場所を教えてくださったのは、黒松花魁なんです」
「黒松花魁が?」
若い者の口から出た人物の名に、紅椿は驚き、口を小さく開ける。
紅楼のナンバー4、黒松。
格子女郎の中で最も利益を上げている花魁であり、薄紅が抜けた今、太夫への昇格が最も有望視されている存在だ。
もっとも、黒松自身は昇格を拒否していると、紅椿も噂程度には聞いていた。
紅椿は若い者に改めて礼を言い、二階へ上がる。
そして、黒松の部屋の前に向かい、襖に向かって声をかける。
「黒松花魁。今、よろしいでありんすか?」
「………………………………どうぞ」
入室の許可を得た紅椿は、襖をそっと開ける。
「わあっ!」
部屋の中を見たすずねが、思わず声を上げる。
黒松の部屋は、至る所に書物が積み上がっており、移動に必要な最低限の空間以外が、全て書物で満たされていた。
「失礼」
「痛いっ!」
突然大声を上げたすずねに、輝水仙の拳骨が落ちる。
黒松は、そんな騒音など耳に入らないようで、段ボールのような長方形の机に向かい、手に取った書物のページをぺらぺらと捲っていた。
膝まで伸びた長い黒髪は、黒松の背後で遠慮なく広がり、背後に積まれた本を隠すように広がりをみせている。
紅椿は、積まれた書物を倒さないように一歩足を踏み出したが、二歩目を踏み出すにはあまりにも足の踏み場がなかったため、踏み出した足を戻した。
そして、襖の付近に立ったままで、黒松へと話しかけた。
「師走の場所、貴女が見つけてくれたと伺ったでありんす。どうも、ありがとうござりんす」
「………………………………別に」
「ところで、どうやって師走を見つけたのでありんしょうか。貴女が、外に出るとは思えないのでありんすが」
黒松は、読書を好み、紅楼どころか自分の部屋からも出ないことで有名だ。
部屋に籠るためだけに、自室に厠も浴室も増設した時は、紅楼中の人間を驚かせたものだ。
黒松は、ページをめくる手を止め、視線を書物に落とし続けたまま、丸い眼鏡の位置を片手で直す。
「…………紅楼から脱走した後、顔見知りの多い江戸町一丁目に留まるはずもない。仲の町に向かうか…………逆の西河岸に向かうか。でも…………朝の仲の町は…………若い者たちが行きかう。見つかるリスクが高い。…………なら、逃げる先は西河岸一択」
黒松の説明を聞きながら、紅椿は頭の中に令和吉原の地図を描く。
そして、自分が師走と同じ脱走を試みる禿であったら、どう動くかを考え、納得した表情を浮かべる。
「Je vois」
輝水仙も同様の絵を描き、小声で感嘆の声を零す。
すずねだけは、途中で地図がぐちゃぐちゃになったようで、一人天を仰いでいた。
「ただ、西河岸の治安は悪い。長居をしたいはずもない。…………京町一丁目か揚屋町、どちらに行くかを迫られる。…………理想は、朝に賑わう揚屋町でなく、人が少ないだろう京町一丁目。でも…………ここで禿の体力が限界を迎える」
黒松は、流し目で紅椿へ視線を向ける。
「…………ただでさえ、逃亡中。精神の負担も相当に高い。なら…………揚屋町の入り口を見た時、こう考える。『大見世のある京町一丁目には、既に楼主から連絡がいき、自分を探して若い者がいるかもしれない。なら、妓楼のない揚屋町の方が安全かもしれない』…………と」
「師走は、楼主様がどこに連絡をしたかなんて、知らないと思うでありんすが」
「知らない。だからこそ…………自分に都合のいい想像をする。…………走らないのが最善と言う想像を。だから、揚屋町に向かう。…………一度隠れてさえしまえば、もう走る必要はない」
「なるほど。理解したでありんす」
「商店の隙間に逃げ込むのも…………逃げる余地がない場所だから。一番疲れない場所だから…………」
説明を終えた黒松は、視線を再び書物に戻し、ページをめくる。
紅椿は、興味がなさそうな表情を浮かべ続けながら、黒松が師走の行動を完全に理解している事実に、小さく笑った。
「皆のこと、よく見てるのね」
「この程度…………誰でもできる」
「そんなことないわよ」
「そう思うことは自由…………」
「でも、ありがとう」
紅椿は改めて黒松に礼を言う。
そして、黒松が依然無反応であったため、部屋を後にしようとする。
「太夫にならないかと言われた」
黒松は、ページを一枚捲った後、指を止めた。
捲ったページが元の位置へと戻っていき、紙と紙が擦れる音が、室内に響いた。
黒松の言葉に、紅椿の脚も止まる。
そっと黒松の方へと振り返ると、黒松は紅椿の方をじっと見ていた。
「私は、太夫になる気はない。感謝をしているなら、速く次代を育てて、私以外の太夫を決めて欲しい」
そして、言いたいことを言い終えると、すぐに視線を書物に戻した。
ページが捲られる音が、再び部屋に響いた。
「頑張るわ」
紅椿は、感謝の意を示して、黒松の要望に一言答えた。
第五章完結。第六章の書き溜め時間を頂きます。




