三十九軒目 待機
紅楼において、最も大切にされる存在は花魁たちだ。
よって、花魁たちの起床時間である午前十時までは、若い者も禿・新造も、遣手婆でさえ、花魁の眠りを妨げないように行動する。
「なんだか、騒がしいわね」
しかし、今日は違った。
紅椿は、廊下から聞こえる不自然な足音で目を覚ます。
時計を見れば、頃はまだ六時半。
禿たちが廊下の掃除をしていてもおかしくない時間だが、それにしても騒がしすぎた。
紅椿は布団から出て、そっと襖を開け、部屋の外に顔を出す。
廊下には、箒と雑巾を持った禿たちがたくさんおり、手を動かしつつも、それ以上に口を動かしていた。
音の通りやすい朝の空気に乗って、紅椿の耳に禿たちの内緒話が届く。
「今、若い者さんたちが探してるって」
「どうやって脱走したんだろ」
「噂じゃあ、近くの茂みに、秘密の抜け道があるとか」
「うそ。私は、妓楼の壁に穴が開いてて、そこから逃げたんじゃないかって」
断片的な情報を繋ぎ合わせ、紅椿は、禿が脱走したのだと悟った。
「その話、詳しく教えて欲しいでありんす」
襖を開き、噂話をしていた禿たちに声をかける。
「え? あ! 紅椿……花魁」
禿たちは一斉に口を閉じ、数人の禿が驚きのあまり、手に持っていた箒や雑巾を廊下へ落した。
廊下にカタンと箒の倒れる音が響き、その後に紅椿の足音が響く。
紅椿は、三人で固まっていた禿の元へ行き、しゃがんでもう一度同じことを口にした。
「教えて欲しいでありんす」
三人の禿は、怯えた表情で顔を見合わせ、震える声で言葉を返した。
「も、申し訳ありません。言えません。このことは、お万様から誰にも言うなと言われまして」
「お万から?」
本来、禿が花魁の頼みごとを断ることなど、ありえない。
しかし、お万の名前が出たとなれば、話は変わる。
紅椿は、お万の名前で口止めをされているのならば、聞こえてきた噂が真実なのだろうと確信し、すっと立ち上がった。
「ありがとう」
禿から聞き出すことを諦め、お万のいるだろう遣手部屋へと直接向かった。
ペタンパタンと、紅椿の足音が響く。
掃除をしている禿たちは、足音に振り返り、紅椿の姿を見ると、すぐに壁際へと避けていく。
「お万。入るわよ」
紅椿がお万の返事を待たずに遣手部屋の襖を開けると、襖の方へ向いて座るお万と目が合った。
「騒々しいね。何事だい?」
紅椿は、ぴしゃりを扉を閉めて、白々しい表情をするお万の前に座る。
そして、詰め寄るように口を開いた。
「禿が一人、紅楼を脱走したって、本当?」
「さあねえ。どこで聞いたんだい? そんな与太話」
「……どうやら、本当みたいね。お万、貴女、何かをごまかそうとするとき、左を見る癖があるもの」
「馬鹿なカマかけは良しな。小娘の浅知恵に翻弄されるほど、若かないよ」
しかし、お万は動じない。
紅椿は口先を工夫するも、お万から知りたい情報を引き出すことができず、眉を顰めた。
「本当のことを言って」
「言ってるよ」
「嘘! じゃあ、廊下で禿たちが話してたのは何なの?」
「紅椿。あんたは餓鬼どもの噂話を、いちいち全部信じるのかい?」
強く言えば、跳ね返される。
掘ろうとすれば、避けられる。
暖簾の腕押しがごときお万の対応に、紅椿にはイライラとした感情が積もり、それは焦りに変わっていく。
脱走した禿が怪我をしていないか、無理に隠れ続けて疲弊してないか。
不安を煽る光景ばかりが、頭の中を駆け巡る。
「……もういい」
紅椿は、投げやりに言い捨て、立ち上がった。
そして、お万に背を向け、部屋の襖に手を書ける。
「待ちな。どこへ行くつもりだい?」
が、それさえもお万は許さないようで、問いかけが紅椿の足を止めた。
紅椿はお万に背を向けたまま答える。
「決まってるでしょ。探しに行くの」
「あんたには、外出許可を出していないよ?」
「じゃあ、今出して」
「無理だね。許可を出す理由がない」
襖の方を向いた紅椿に、お万の表情をうかがい知るすべはない。
しかし、徐々に怒気が込められていく言葉から、お万がどんな表情をしているかは容易に想像がついた。
「なら、勝手に行くわ」
「ふざけるんじゃないよ!」
紅椿の肩が掴まれて、体が強引にお万の方へと向けられる。
紅椿の背は襖に叩きつけられ、襖が外れそうなほど、大きく撓む。
「いいかい? 仮に。仮にだ! 今、禿が一人脱走していて、若い者たちが探しているとしよう。だからと言って、太夫であるあんたが探しに行っていい理由にはならないんだよ!」
襖が、ビリビリと震える。
それは、お万の怒鳴り声によるものか、はたまた紅椿の背が押し付けられていることによるものか。
紅椿は、両肩に強い力がかかるのを感じながら、しかし強い目でお万の目を受け止め続けた。
「禿一人を救うこともできないで、何が太夫でありんすか!」
「役割分担ってのがあるんだよ! 遊郭は組織だ! あんたが動く必要はないって言ってるんだよ!」
紅椿の視界に、ふとお万の座っていた座布団が目に入る。
座布団は、先程までお万が座っていたため当然に凹んでいる。
しかし、凹みは一つだけでなく、座布団の端には、奇妙な凹みがいくつもあった。
まるで、何度も立ち上がって、窓や襖に向かおうとして一歩踏み出した足跡のような凹みが。
「……!」
もしかしたら、お万も探しに行くのを我慢しているのかもしれない。
そんな感情が紅椿の中を駆け巡り、自身の行いがどうしようもなく子供に思えた。
紅椿は、耳に蓋でもされたように、お万の声もガタガタと揺れる窓の音も、徐々に聞こえなくなっていった。
「ごめんなさい!」
「紅椿!」
だが、紅椿は、子供っぽい感情を選んだ。
お万の肩を押すと、お万が一歩後ろに下がる。
お万の手が自身の肩から離れたことで、体を反転し、襖を開いた。
そして、襖を閉じることもせず、一階へ続く階段を駆け下りた。
「紅椿! 戻んな!」
二階からの叫び声も、紅椿には届かない。
広間に集まる若い者の驚きの視線を受けながら、紅椿は土間へ降り、暖簾をくぐって外へ出た。




