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紅椿ノ守 ―令和吉原綺譚―  作者: はの
第五章 禿の逃走と“守り”の意味

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三十八軒目 逃亡

「お万。俺だ」

「入んな」

 

 遣手部屋の襖が開き、番頭である護が入って来る。

 護は、部屋に積まれていた座布団を一枚とり、てきとうな場所に座布団を敷いて、その上にあぐらを書いた。

 火の付いてないキセルを咥えていたお万は、定位置に置いている座布団を護の前へと動かし、その上に正座する。

 

「で、どうだった?」

 

 お万からの質問に、護は片方の眉を下げる。

 

「若い者総動員で探させたが、楼内には見当たらなかった」

「ちゃんと外も探したのかい?」

「ああ。紅楼(うち)の敷地内は、隈なくな」

 

 護からの報告を聞いたお万は、額に手の甲を当て、少しだけ後ろへ仰け反った。

 

「参ったね」

 

 令和吉原は、男が夢を見るための場所であると同時に、行き場のない子供や不遇な環境にある子供を保護する場所でもある。

 禿一人が逃げ出したという事実は、保護をする場所であるという紅楼の信用を大きく傷つけかねない一大事だ。

 

 お万の頬に、つーっと汗が流れる。

 その顔いろは薄くなり、明らかに焦っていることが伺える。

 お万が座布団から立ち上がると、つられて護も立ち上がる。

 

「護。あたしは楼主様に、このことを報告してくるよ」

「俺も行く。どのみち、吉原内を探すとなりゃあ、若い者を動かす必要があるからな」

「わかった」

 

 お万は座布団をその場に放置し、急いで部屋の外へと出た。

 護も、その後を付いて歩く。

 ぴしゃりと襖が閉じられて、部屋の中には張り詰めた空気だけが残った。

 

 

 

 内所の前に着いたお万は、内所の扉を確認する。

 扉はぴたりと閉まっており、楼主が現在、多忙であることを示していた。

 とは言え、事態は一刻を争う。

 お万は気の扉を、コンコンと二度叩いた。

 

 数秒の沈黙の後。

 

「誰だ?」

 

 扉の奥から、しわがれつつも力強い声が響いてきた。

 

「お万です」

「何のようだ?」

「至急、ご判断いただきたいことが御座いまして」

「入れ」

 

 幸い、絶対に手が離せない用事ではなかったようで、お万は入室を許された。

 

「失礼します」

 

 扉を開くと、立てつけが悪いのか、ギギギという音が楼内に響く。

 お万と護が内所に入ると、楼主――椿屋(つばきや)鳳真(ほうま)が寝間着である真っ白な浴衣を着たまま、作業机の前に座っていた。

 部屋の隅っこでは、鳳真の奥方が布団の中で、スヤスヤと寝息を立てている。

 無防備な寝顔を前に、護はぱっと顔を背ける。

 

「家内がまだ寝ている。小声で頼むぞ」

 

 鳳真は、奥方が目を覚ましそうなほどの大声で、二人に釘を刺した。

 お万は呆れた表情を浮かべながらも無言で頷き、口を開く。

 

「禿が一人、脱走しました」

「何ぃ!!!」

 

 瞬間、先よりも大きな鳳真の声が、部屋中に響き渡る。

 

「ひゃあっ!? なんだい?」

 

 大声に驚いた鳳真の奥方は、焦った表情で布団から飛び起きた。

 が、周囲をきょろきょろと見渡して、部屋の中にお万と護がいることに気づくと、さらに焦って全身を布団の中に隠した。

 

「楼主様、お静かに。奥方様が目を覚ましてしまわれました」

「これが落ち着いていられるか! 禿が逃亡したなど、外にバレたら紅楼の……いや、令和吉原全体の大問題になる!」

 

 鳳真は椅子から立ち上がり、室内の壁に取り付けられている電話機の受話器を手に取った。

 そして、手馴れた手つきで、茶色い箱のような本体にとりついた黒いダイヤルを回す。

 

「楼主様。今はまだ、午前六時です。お電話先の方にも、失礼かと」

「糞馬鹿野郎! 令和遊郭の危機を伝えん以上に、失礼があるか!」

「……おっしゃる通りです」

 

 ジージーと雑音が部屋に響き、ブツンという途切れ音と共に、誰かの声が聞こえ始めた。

 

「もしもし! もしもし! 俺だ! 紅楼の椿屋だ!」

「……今、何時だと思っているんですか?」

「すまん! だが、緊急事態だ! 紅楼(うち)の禿が一人脱走した! 探すのに手を貸して欲しい!」

「……そういうことでしたか。わかりました。うちも、若い者に探させましょう」

「助かる! すぐに人を走らせて、写真をそっちに送る!」

 

 鳳真は電話を切ると、すぐにまた別のところへと電話をかけ始めた。

 鳳真の奥方は事態が飲み込めていないようで、布団から顔を覗かせつつ、お万たちと鳳真の顔を交互に見ていた。

 お万と護は、鳳真の指示を待つために、その場に立ったまま鳳真の動きを見守り続ける。

 

「よしっ!」

 

 一通りの電話を終えた鳳真は、受話器を置いて、お万と護の前に来た。

 手櫛で銀髪交じりの髪をかき上げ、高い身長で護を見下ろした。

 

「番頭!」

「はいつ!」

「手の空いている若い者を連れて、表通りを隈なく探せ!」

「はいっ!」

 

 一呼吸を置く間もなく、鳳真はお万へと視線を向ける。

 

「遣手婆!」

「はい」

「禿の脱走は他言無用だ! 太夫たちにもだ! 件(くだん)の禿は体調を壊して、行灯部屋に隔離していることにしろ! 楼内に不要な心配を与えるな!」

「……もう手遅れかとは思いますが、皆が混乱しないようには善処しましょう」

 

 不思議そうな顔をしている鳳真に一礼をして、お万と護は内所を出る。

 扉を開くと、内所の周りには禿や新造、若い者が立ち止まっており、視線を内所へと向けていた。

 そして、お万が出てきたことに気付くと、さっと視線を逸らし、一階へ二階へと散っていった。

 

 お万は溜息をつき、扉を閉めた後、内所の壁をコンコンと叩く。

 

「壁、もう少し防音にした方がいいかねえ」

「どうれだけ防音にしても、楼主様の声は遮れねえよ」

 

 お万は、また溜息を零す。

 このままでは、禿が逃亡したという噂がすぐに広まることなど、誰の目から見ても明らかだ。

 

「せめて、混乱は起こさせないようにしないとね」

 

 お万は目を閉じて一呼吸置いた後、キッと眉を吊り上げて、気を引き締めた。

 

「護。若い者の方は任せるよ。あたしは、禿と新造たちに話をしてくる」

「任せな」

 

 幸い、花魁は眠っている時間。

 現在、事情を知っている花魁は深紅のみ。

 お万は、禿と新造が集まっているだろう雑魚寝部屋に向かって歩き始めた。

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