三十四軒目 一階
輝水仙と千桜は、一階へと下りる。
畳敷きの広間が二人を迎え、余分に重ねられた畳一畳の上に、背を向けた男が胡坐をかいて座っていた。
首の後ろに刻まれた皴が、顔を見ずとも男の年齢を物語っている。
「あの人も、若い者ですか?」
「Oui。若い者の筆頭、番頭さん」
千桜の質問に答えた後、輝水仙は番頭――護に声をかけた。
「おはようございます。番頭さん」
護は手を止め、顔だけ輝水仙へと向ける。
そして、すぐに視線を輝水仙から逸らし、「っす」と聞こえるか聞こえないかの声で呟き、前を向いた。
「……筆頭?」
「筆頭」
首を傾げる千桜を気に留めることなく、輝水仙は紅楼の奥へと歩いて向かう。
千桜は、何度か護の方を振り向きながらも、輝水仙の後を付いていく。
畳の床から下り、歩く場所が木の廊下へと変わる。
千桜は、広間より少し奥にある、木造の扉の前で立ち止まった。
ほとんどの部屋が襖によって廊下と部屋を区切っているの紅楼において、門のような木造の扉は、異質な存在感を放っていた。
「ここは内所。楼主様ご夫妻が生活されているお部屋」
「楼主様?」
「この紅楼のオーナー」
「オーナー!」
紅楼で最も偉い人間の部屋だと分かれば、千桜は意気込んだ。
少しでも悪印象を持たれないように手櫛で髪を整え、着物のシワを伸ばした。
が、輝水仙は護のときと違い、内所へ声をかけることなく、次の場所へ移動を始めようとする。
「楼主様には、ご挨拶しなくていいんですか?」
「Ouais。楼主様はお忙しいから。お部屋に入っていいのは、呼び出された時か、扉が少し開いている時だけ」
千桜は、内所の扉を再度見る。
内所の扉はぴったりと閉まっており、ハイっていい条件を満たさない。
千桜は、先程の意気込みが急速に抜けて行くのを感じながら、輝水仙の後を付いていく。
輝水仙と千桜は、内所よりさらに奥へと進んでいく。
人の気配が消えていき、灯りも徐々に薄暗くなっていく。
「う」
輝水仙が説明するより早く、千桜は向かっている場所がどこかを悟った。
なにせ、そこは千桜が最初に連れてこられた場所だ。
「ここは行灯部屋。普段は倉庫として使っているけど、他にどんな使われ方をするかは、説明するまでもないわよね?」
軽い口調で説明を終える輝水仙に、千桜はこくこくと何度も頷いた。
その後、輝水仙と千桜は来た道を引き返し、内所の前へと戻る。
そして、行灯部屋に続く廊下を挟んで、内所のある方向とは逆側へと向かって歩き始める。
「ん? なんだか、いい匂いがします!」
「この先は台所」
台所には、たくさんの禿たちと数人のエプロンを付けた男たちが立っていた。
禿たちは、エプロンを付けた男たちの指示を受け、食材や食器を持って走り回っている。
一方の男たちは、まな板に置かれた食材を切ったり、コンロを使って食材を焼いたり煮たり、調理に精を出していた。
「彼らは料理番さん。紅楼に住む人たちの食事を作ってくれているわ」
輝水仙が台所の手前で立ち止まったため、千桜も倣って立ち止まる。
台所に入らずとも食欲をそそる香りが漂って来て、千桜はひくひくと鼻を動かした。
「美味しそうな匂いー」
千桜の目はしばらく料理番の姿に引きつけられ、輝水仙も立ち止まって千桜の様子を眺めていた。
「これって、遊郭に来たお客さんが食べるんですか?」
「基本的には、私たちの賄い。お客様への料理は、台屋さんに注文することが多い」
「台屋さん?」
「仕出しの料理屋さん」
台所に立つ禿たちが、完成した料理を皿に盛りつけ、お盆に乗せ始める。
時間は、花魁たちが入浴を終え、朝食を始める頃。
「邪魔になるから」
輝水仙は、なお料理に釘付けの千桜をひっぱり、さらに奥へと向かう。
台所の奥には、しばし廊下が続いた後、大きな座敷から小さな座敷までがずらりと並んでいた。
それぞれの襖は、どれも二階ほどの派手さはなく、大部分が白色のシンプルなものだ。
輝水仙は、近くの大広間をがらりと開けて、千桜に部屋の中を見せる。
大広間の二割は敷かれた布団で埋まっており、布団では禿たちが寝息を立てていた。
残り八割には何も敷かれておらず、代わりに敷かれていただろう布団が部屋の隅に積み上げられていた。
「ここは禿たちの寝室。隣が新造たちの寝室。私も、ここで寝てるわ」
「雑魚寝なんですね!」
輝水仙はそっと襖を閉じて、小さな座敷の前へと移動する。
そして、次は襖を開かず、それぞれを指差すだけに留める。
「ここら辺は、雇人さんたちのお部屋。さっき台所にいた料理番さんみたいに、紅楼の外から来てくれてる人が、休憩したり仮眠をとったりする場所」
「外から来てる人もいるんですか?」
「そう。他にも、内湯のお湯を沸かしてくれるお風呂番さん、着物や座布団を縫ってくれるお針さん、宴席を盛り上げてくれる内芸者さん。たくさんの人が、紅楼では働いているのよ」
説明を終えた輝水仙は、少々急ぐように、来た道を戻り始めた。
「最後は外。見世番さんや掛廻りさんにも挨拶しとかないと」
「輝水仙様。さっきからずっと、ここで働く人たちの紹介ばかりですけど」
てっきり輝水仙の仕事を手伝わされるのだろうと思っていた千桜は、自身の想像と違う動きをする輝水仙の行動の意味を不思議がり、率直な疑問を口にした。
輝水仙は立ち止まり、くるりと千桜の方へと向いて、当たり前のような表情で言った。
「そう。ここで遊女として働くなら、私たちが働くためにどれだけ多くの人の協力があるかを知るべき」
「っ!」
千桜は言葉を詰まらせる。
輝水仙の言葉は、行灯部屋で紅椿から言われた言葉の意味、そのものだったからだ。
「少なくとも、私はそう思う」
輝水仙が再び来た方向へと向き、歩き始める。
千桜は、その背中を力強い目で見つめ、気合いを入れて声を出した。
「はい!」
そして、輝水仙の大きな背中を追い、その横へと並んだ。
「大声を出さない。寝ている人がいたでしょ」
「んぎっ!?」
近くに来た千桜の頭を、輝水仙は呆れ顔で引っぱたいた。




