二十九軒目 欠員
「ああ、ちくしょう。大損害だよ」
襖越しに声をかけようとした紅椿の耳に、お万の小さな声が届いた。
普段のお万であれば、弱音を遊女に聞かせるようなへまはしない。
紅椿は一瞬襖を開くのを躊躇し、一呼吸おいてから声をかけた。
「お万。ちょっといいかしら?」
「なんだい?」
「失礼するわ」
お万からの返事を待って、紅椿は遣手部屋の襖を開く。
紅椿の目に最初に飛び込んできたのは、ちゃぶ台の上に並べられた帳簿だ。
お万がすぐに帳簿を閉じたので、紅椿もすぐに帳簿から目を逸らした。
次に飛び込んできたのは、床に散乱する売上帳の数々。
それ自体は珍しいことではないが、いつもより少ない数に、紅椿は薄紅の抜けた影響の大きさを悟った。
否、確信した。
「お万。提案があるの」
紅椿は裾を整え、ちゃぶ台を挟んで、お万の前へと座る。
「提案?」
お万は訝しむように紅椿を見つめながら、指を使って器用に筆を回転させる。
「お万。私、花魁道中をするわ」
「はあ?」
紅椿の言葉に、お万はちゃぶ台へ前のめりになる。
そして、眉間に皴を深く刻みつつ、紅椿を睨みつける。
「あんたが、花魁道中をやるのかい?」
「ええ」
「その金は、誰が出すんだい?」
「お客様の誰かにお願いしようと思っているわ」
「……はあ」
お万は前のめりになっていた体を戻す。
そして、背を丸め、眉間に指をぐりぐりと押し付ける。
「そうすれば、薄紅花魁の抜けた分も、いくらか補填できるでしょう?」
ダメ押しの紅椿の言葉に、お万は大きな溜息をついた。
「自分が何を言っているのか、わかってるのかい?」
「ええ」
「花魁が、花魁道中をやって欲しいと客に強請るなんて、前代未聞だよ」
「わかってるわ」
「いいや、わかってないね。そんなことをしてみろ。『紅椿花魁は金欲しさに客に媚びた』なんて噂が立つのは確実。あんたまで軽んじられるようなことがあったら、紅楼はいよいよ終わりだよ」
お万は背を丸めたまま紅椿を睨み、ちゃぶ台の上に筆を置く。
代わりに、火の付いていないキセルを手に取り、ちゃぶ台を叩いた。
紅椿は、お万の威嚇するような行動を前にしても動じることはなく、むしろゆっくりと口角を上げた。
「……何が可笑しいんだい?」
「そうね。もしも私が、『花魁道中をしたいからお金を出して欲しい』なんて言ったら、そうなるかもね」
「別の方法があると?」
「何事も、言い方次第じゃない。『あの紅椿が花魁道中を敢行するので、花を添えたい方はどうぞ』と提案するの」
紅椿は、はっきりとした言葉で言い切った後、自身のことを持ち上げすぎた発言に恥ずかしくなり、やや顔を赤らめてそっぽを向いた。
「どうかしら?」
そして、目線だけをお万へと向け、照れの含まれた声で尋ねた。
お万は背を伸ばし、やはり眉間に指を押し付けながら、小さく唸る。
「金がないから花魁道中ができないって客はいる。花一輪から名を連ねることができんなら、飛びついてくるかもしれないね」
「でしょ?」
「で、誰の名前で花魁道中をするんだい?」
「そこは、ほら、匿名希望で」
「万が一、客の添えた花だけで花魁道中の費用が賄えなかった場合は?」
「私が全額出すわ。それくらいの貯えはあるもの」
提案した紅椿自身にも、とても好きのない作戦だとは言えなかった。
それをわかっているのかいないのか、お万は再び大きな溜息をついた。
感情の行き場を探すように、キセルを数回、ちゃぶ台へと打ち付ける。
「見栄のためにやる花魁道中を、匿名でやる客がいるもんかい」
「う」
「それに、花を添えた客の名を公開するんなら、客も概ねの相場を知ることになる。花の数に対して衣装や飾りが貧相だと、すぐに見抜かれる。それ相応の元手が必要になるね」
「うう」
「粗ばっかじゃないか」
お万からの怒涛の指摘に、紅椿は思わず口を噤んだ。
気まずそうな表情をし、それでも座布団の上に座り続けた。
お万は、そんな紅椿の様子をじっと見つめ、三度目の大きな溜息を零した。
「紅楼の危機を、花魁一人に任さられるもんかい」
「え?」
「薄紅の休養で心配をかけた客への詫びってことにして、紅楼として花魁道中を敢行する。紅椿、あんたには、その顔になってもらうよ」
お万からの提案に、紅椿は驚き、すぐに困った表情になる。
紅楼の負担を減らすための提案が、逆に負担をかける結果になってしまったことに対し、心中穏でなかった。
が、紅椿の暗い気持ちを吹き飛ばすように、お万は豪快に笑ってみせた。
「しけた面してんじゃないよ! 儲けになりそうだから金を出すのさ! 精々、客に愛想巻いて、一本でも多く花を売ってくれよ?」
笑うお万を見て、紅椿はようやくかすかな笑顔を取り戻した。
紅椿よりも金勘定に長けたお万の笑い声は、それほど紅椿にとって心強いものだった。




