二十七軒目 現実
「もしもし! 社長、ご無沙汰しております。今少々お時間よろしいでしょうか?」
春幸は、一人で電話をかけ続けた。
しかし、返事は決まって、いつも同じ。
「君のところの社員から、とっくに打診されたよ。判子を押さなかったのは、君だろ?」
電話を切った直後、春幸は頭を抱えて、机に突っ伏した。
金策は春幸の仕事、業務を請け負ってくれる会社探しは社員の仕事と割り切った結果、春幸は社員がどこに打診し、どんな返事をもらえていたかをまったく把握できていなかった。
「そうだ、契約書!」
春幸は、散乱する書類の中から社員たちの持ってきた契約書を拾い上げ、すぐさま内容を確認していく。
大手企業の名前こそなかったが、過去に付き合いのあった小さな会社の名前が、次々と目に飛び込んできた。
契約書として惜しむらくは、契約内容に合意できる期限が切れていることだろう。
「この度は、お返事が遅れて大変申し訳御座いません! 先日いただいた契約書と同じ内容で、どうにかお仕事を頼めないでしょうか?」
春幸は、契約書に載っている会社に、片っ端から電話をかけた。
しかし、返事は決まって、いつも同じ。
「いまさら言われても困る」
業務を依頼できる当てが何一つないまま、いたずらに時間だけが過ぎていく。
空っぽだった社内は、既に夕暮れのオレンジ色で染まっていた。
再び、電話の切断音が響き、真っ黒な画面が空っぽの社内を反射した。
壁掛け時計が終業時間を指すと同時に、終業のチャイムが鳴り響いた。
「もう……こんな時間か」
我に返った春幸は、一切の成果を得られない現状を前にスマートフォンを強く握り、ふらふらとした足取りで会社を出た。
「吉原まで」
そしてタクシーを拾い、令和吉原へと向かった。
「春幸さん。今日も来てくれて、嬉しいでありんす」
「当然です、薄紅花魁。今の私に、貴女以上に大切なものはありません」
日々は、無機質に過ぎて行った。
八月も半ば。
夜も、めっきりと蒸し暑くなったころ。
春幸は、ぽたぽたと汗を流しながら、今日も紅楼へと向かって歩いていた。
「薄紅花魁。早く会いたい」
薄紅に一秒でも早く会うため、いつしか玄屋を通すこともなくなった。
春幸の額からにじみ出た汗が、江戸町一丁目の地面に落ちて、血痕のように染みを付ける。
「馴染みを」
春幸は、いつも通り牛太郎へと挨拶をし、いつも通り紅楼の中へと入ろうとする。
が、牛太郎は春幸の前に立ちふさがり、その行く手を阻んだ。
「ん? 何かね?」
「申し訳ありませんが、春幸様を二階へご案内することはできません」
「……は?」
「薄紅花魁の馴染みをお売りすることはできない、と申し上げました」
春幸は、唖然とした表情で牛太郎の顔を見る。
そして、紅楼の入り口をふさぐように若い者が集まってきたのを確認すると、牛太郎の体を強く押しながら叫んだ。
「ふ、ふざけるな! 私は客だぞ!」
「いいえ。本日は、春幸様に馴染みをお売りしておりません。よって、春幸様は今、当楼のお客様では御座いません」
「何をふざけたことを! 金ならある! どけ! 薄紅に会わせろ!」
春幸は、必死に牛太郎を押しのけようとする。
しかし、時に荒れ狂う客の制圧も行っているのが牛太郎だ。
常人よりも一回り大きな肉体以って、春幸の押し込みは容易に押し返された。
「はあ……はあ……」
日々の疲労もたたってか、春幸は押し返された勢いで、その場に尻もちをついた。
荒い呼吸を隠せないまま、牛太郎を見上げ、睨みつける。
「薄紅に……会わせろ……」
「なりません」
「ならば……彼女を身請けする……。こんな粗暴な妓楼にいては……彼女が可哀想だ……」
春幸は、ぷるぷると震える手で、スーツの懐から財布を取り出し、財布の中に入っていた万札を広げて目の前に置いた。
「これは……前金だ……。すぐ……残りを振り込む……。いくらだ……。金額と……振込先を言え……」
「身請け話については、私の預かり知らぬところです」
だが、必死に声を絞り出す春幸に対し、牛太郎は取り付く島もない。
紅楼の入口へと振り向いて、中から出てくるお万を出迎えた。
「ずいぶんな格好だねえ」
お万は、咥えたキセルを噛んで上下に動かしながら、歯の隙間から煙をふうっと吐き出し、春幸の前に立った。
春幸は、縋りつくような視線をお万へ向け、口を開く。
「遣手婆……。薄紅を……身請けしたい……。いくらだ……」
「金はあるのかい?」
「ある……」
「信用できないね」
「……っ! これを見ろっ!」
今までいくら貢いできたのかわかっているだろう、という怒りの声を必死に飲み込み、春幸はお万にスマートフォンを突きつけた。
画面には、春幸の銀行口座の残高が表示されており、薄紅を身請けするに十分な金額が表示されていた。
自信ありげな表情を浮かべる春幸に対し、お万はスマートフォンの画面をまじまじと見つめて、難しい表情を浮かべた。
「……これじゃあ駄目だね」
お万の言葉に、春幸は一瞬何を言われたかわからず固まり、すぐに怒りの形相へと変わる。
勢いのまま立ちあがり、お万の胸倉を掴んだ。
若い者たちが春幸を止めようと一歩踏み出すが、お万は片手を上げて、若い者たちを制止した。
そして、胸倉をつかむ春幸の顔を見た。
額に青筋を立てる春幸は、唾を飛ばすような勢いで、お万に向かって捲し立てる。
「何故だ! 薄紅から身請けに必要な額は聞いた! 薄紅を買うために、十分な額のはずだ!」
「確かに。あんたの口座を空にすりゃあ、あんたは薄紅を身請けできる」
「だったら!」
「それで? 全財産をはたいて薄紅を身請けした後、二人で何しようってんだい?」
「な、何って……」
お万の言葉に、春幸は薄紅を身請けした後の、二人の生活を考える。
裕福な生活をする二人を想像した直後、空っぽの銀行口座と大型案件失敗による多額の負債が頭をよぎり、想像していた生活が真っ黒に塗りつぶされた。
真っ黒に塗りつぶされた想像に、別の幸せな未来を描き加えようとするが、考えても考えても、未来は浮かんでこなかった。
春幸は全身の力が抜け、顔全体から汗を流す。
お万は春幸の手から、自身の着物を引っ張り出す。
そして、乱れた着物を整えた後、再び春幸の顔をじっと見た。
「もう一度訊くよ。あんた、薄紅を身請けした後、二人で何をしたいんだい?」
「わ、私は……薄紅と……幸せな家庭を……」
「そうかい。あんた、本当に薄紅を愛してるんだね」
「あ、当たり前だ! 彼女は、私の!」
狼狽しながらも言葉を紡ぐ春幸に対し、お万は後ろを振り向いて、紅楼の入り口に立つ若い者へと叫んだ。
「おい! 鏡持ってきな!」
「は、はい!」
一人の若い者が紅楼へ入ると、すぐに手鏡を持って戻ってきた。
お万はそれをひったくるように奪って、春幸へと突きつけた。
鏡に映るのは、くたびれたスーツを着込んだ、ぼさぼさの髪の男が一人。
春幸は、しばし鏡に映る人間が誰かを認識できずにいたが、そこに映るのがまぎれもない自分であると気づくと、手鏡を両手で掴んで固まった。
未だに自分であることを受け入れられず、じっと鏡を凝視し続けた。
「それが、好きな女に会いに来ている男の顔かい?」
お万の一言で、春幸はようやく動き始め、絶望を宿した瞳でお万を見る。
数度口が動かすも、何の言葉も発することができず、手から手鏡を滑り落とした。
お万は手鏡を拾うと、近くに待機していた若い者に渡した。
春幸は地面を見つめながら、震えながら言葉を発した。
「……私はただ、彼女に喜んで欲しいと。……彼女を、幸せにしようと」
「今のあんたにできると思うかい? あんたは、馬鹿じゃないんだ。あたしの言ってることがわかるだろう?」
春幸の頭には、極めて現実的な数字が浮かんで消えた。
自身の持つ資産と言う、現実的な数字が。
「薄紅を身請けしたいんなら、ちゃんと現実を見てやり直しな!」
力の籠ったお万の叱咤を前に、春幸はしばらく固まった。
人前にも関わらず、嗚咽を漏らし、固まった。
そして、気のすむまですすり泣いた後で、小さく頷いた。
紅楼に背を向け、ふらふらとした足取りで仲の町へ向かって歩き始める。
「待ちな!」
が、お万は去っていく春幸を止めた。
そして、紅楼から出てきた護から小さな封筒を受け取り、立ち止まる春幸のところまで歩いて、封筒を突きつけた。
春幸は、訳も分からないまま封筒を受け取り、開封する。
「今回の件、うちにも責任がないとは言えない。それは、あんたに融資してもいいって言ってた客の名刺さ」
封筒の中に入っていた名刺を見て、春幸は再び固まった。
名刺の名前には、春幸が電話をし、断られた会社の物も混じっている。
固まりながらも、即座に頭の中でそろばんをはじき、全ての契約を履行すれば倒産だけは免れると瞬時に理解した。
「あたしからあんたに贈る、最初で最後の情けさ。これで駄目なら、うちだけじゃない。二度と吉原の地を踏ませないからね」
春幸は、しばらく契約書の束を見つめ、再び涙を零した。
名刺を封筒の中に戻し、封筒を丁重に鞄の中へと仕舞う。
そして、泣くのを必死にこらえながら、お万に向かって深々と頭を下げて、今度こそ仲の町へ向かって歩いて行った。




