二十五軒目 誓い
江戸時代。
遊女は客に誓いを立てた。
真に惚れたのは貴方だけだと。
それは、自身の腕に客の名を入れ墨を入れる彫物であったり。
他の客にうつつを抜かさぬと神仏に誓う起請文であったり。
全ては客を繋ぎとめるために。
「薄紅花魁、これは?」
春幸は、薄紅から渡された和紙を受け取り、書かれている文に目を通す。
「起請文、と言うものでありんす」
「起請文?」
春幸は、一行一行丁寧に読み進めていく。
そして、起請文に書かれる薄紅からの愛の誓いを受け取る度に、頭が沸騰しそうなほど沸き立ち、顔を赤く染めていった。
されど、ここは遊郭。
全てを読み終えた春幸は、努めて冷静な表情を作り、薄紅の顔を見た。
「この場限りの嘘だとしても、非常に嬉しいです」
「嘘に、見えたでありんすか?」
が、薄紅と視線を躱し続けることで、すぐに破顔した。
顔を隠すように、顔を下に向けて起請文に目を落とし、何度も何度も薄紅からの文を読み直した。
「春幸さん」
薄紅は上座を降りて、春幸の前へと座ってきた。
人の気配を感じた春幸は顔を上げ、すぐ目の前に薄紅がいることに驚き、小さな悲鳴と共に後ろへと倒れた。
「大丈夫でありんすか? 申し訳ないでありんす。驚かせるつもりは、ありんせんでした」
「いいえ。お気になさらず」
薄紅は、春幸が落とした起請文を拾い、上体を起こした春幸へと再び渡した。
春幸はうやうやしく起請文を受け取り、大切そうに背広の内ポケットへしまうと、赤い顔のまま薄紅の目を見た。
「本当に、私でよろしいんですか?」
「ええ。春幸さんがいいのです」
「私は、仕事しか能のない、つまらない男ですよ」
「そんなことはありんせん。わっちは、春幸さんの良いところを、たくさん見てきたでありんす」
春幸の脳裏に、出会ってからの一か月間の思い出が次々と蘇る。
薄紅の表情を見れば、薄紅にも同じ思い出が巡っているのだろうと、察することができた。
かつて鼻をくすぐった残り香が、再び春幸をくすぐる。
薄紅の手と春幸の手が、強く、優しく、重なり合う。
「私も、貴女と夫婦になりたい。必ず、貴女を身請けしましょう」
「はい。その日を、楽しみにしているでありんす」
廻し方の目が光る中、薄紅と春幸は誓い合った。
薄暗い灯りがチカチカと点灯する。
まるで、二人の門出を祝福するかのように。
廻し方からの報告を聞いたお万は、遣手部屋で大きな溜息をついた。
令和吉原における起請文とは、遊女と客の雰囲気を高める玩具でしかなく、本心を誓いあうものではない。
お万は、今の薄紅がそんなことにまで気を回せなくなったのかと呆れ、深く眉間を抑えた。
「護に、その馴染みを調べるように言っといてくれ。危ないと思ったときは二階を止めていい、ともね」
「かしこまりました」
お万の指示を受けた廻し方は、すぐに遣手部屋から出て行き、一階へと駆け下りていった。
「さて、どうするかねえ」
お万はキセルを手にし、窓から外を眺めながら一服した。
翌朝、春幸は上機嫌で会社へと出社した。
丁寧な洗濯によって新品のように輝くシャツが、春幸の気分を表しているかのように輝いていた。
「皆、おはよう!」
春幸の弾んだ声に、社員たちが一斉に振り向く。
そして、雪崩のように春幸の前へとなだれ込んできた。
「社長! 昨晩はどこへ行ってたんですか!」
「ああ、ちょっと野暮用で」
「ここ最近、ずっとじゃないですか!」
「……色々あってね」
「何度もケータイに連絡したんですよ! 見てくれてないんですか?」
「……ちょっと、立て込んでいてね」
よもや遊郭に通っていたという訳にもいかず、春幸は言葉を濁す。
が、その間にも社員たちからの追及は止まらない。
「制作の件、何社か対応できるかもしれないと返事を頂けてるんです! しかし、社長の承認がなければ動けません! 契約書に目を通していただけましたか?」
「昨日の夕方、支援の件を考えてもいいという方から電話があったんです! でも、社長と連絡が取れないから、今朝方『決断が遅い人間は信用できない』と断りの連絡が!」
「会社の危機に、社員たちみんな睡眠時間も削って働いているんです! 社長にも社長の事情があるのはわかりますが、せめて連絡がつくようにしておいてください!」
多数の追及を前にして、春幸は顔を引きつらせるのみにとどまった。
いつもの理路整然とした姿が嘘のように。
あまりの春幸の変わり様に、社員の一人が申し訳なさそうに口を開く。
「もしかして、ご家族に何かあったんですか? だから、会社のことに集中ができていないとか」
繊細な内容ゆえに、言葉を選んで話してくれているのだろう社員を見て、春幸は一層顔を引きつらせる。
社員の誰もが真剣だからこそ、春幸はそれを待っ正面から返す言葉を持ちえなかった。
「いいえ。家族は無事ですし、その人はもう何週間も家に帰って来てはいません」
そんな気まずい空気は、突然会社に入ってきた一人の女性によって吹き飛ばされた。
「お前! なんで会社に?」
「妻が、家に帰ってこない夫を心配して、何かおかしいんですか?」
春幸の妻――夏美が春幸に近づくと、社員たちは春幸から離れた。
夏美と春幸の周囲には、ぽっかりと無人の空間が作られ、夏美は春幸の目をじっと見てきた。
「運転手さんから聞きました。貴方、ここ最近ずっと、遊郭通いをしているそうね」
「ゆ、遊郭!?」
夏美からの告白に、社員たち全員が目を丸くして、春幸を見た。
春幸は焦った表情で夏美を見るが、夏美は春幸の視線を無視して、話を続ける。
「私は、貴方の仕事がどれだけ大変か知ってるわ。だから、貴方が遊郭に行ったとい言っても、それが気晴らしになるならと止めなかった。でも、家庭をないがしろにするのは違うでしょう?」
「お、お前! 夫婦の話をこんなところで!」
「それに、会社の様子を見ると、家庭どころか仕事もおざなりになっている様ね」
「黙らないか!」
春幸は、胸ぐらをつかみそうになる気持ちを抑え、怒りで眉を吊り上げる。
が、夏美は冷静な表情を崩さない。
不安そうな社員たちの方をちらりと見た後、これ見よがしに大きな溜息をついた。
「貴方が初めて遊郭に行った日、私は貴方を止めるべきだったと反省しています。まさか貴方が、こんなにも誑かされてしまうなんて」
「な、何を馬鹿な! 行ったこともないお前に、何がわかる! 彼女のことを、何も知らないくせに!」
「……そう。もう、私のことも見えないのね」
夏美は、一瞬だけ寂しそうな顔で笑い、またすぐ表情を消した。
春幸は、夏美の浮かべた笑顔が薄紅と重なり、怒りの表情のまま言葉を詰まらせた。
夏美は、春幸が自分に対して言い訳する言葉も持たないだろうことを察し、丁寧に一礼をした。
「実家に帰らせていただきます。一度離れて、お互い冷静になりましょう」
「な、何を突然!」
そして、春幸から視線を逸らし、次は社員たちに向かって一礼をした。
「皆さん。お騒がせして申し訳ありません」
お通夜のように静かな会社の中で、社員たちもぎこちなく礼を返す。
そして夏美は、そのまま会社を出ていった。
「待て! まだ話は終わってない!」
春幸の伸ばした手は、夏美の背には届かなかった。
閉じられた扉が、春幸の手を夏美から遠ざける。
春幸は伸ばした手を下ろし、社員たちの方へと振り向いた。
社員たちは無言のまま席へと戻り、仕事を再開し始めた。
「社長。本日の打ち合わせの予定です」
秘書は、春幸に近づいて、何事もなかったかのように淡々と今日の予定を告げた。




