二十三軒目 約束
春幸にとって何度目の登楼だろう。
香時計に火がつけられるとともに襖を開き、薄紅は座敷へと入っていった。
そして、しずしずと歩き、上座へと座る。
「春幸さん。今日も来てくれて、嬉しいでありんす」
「当然です。貴女と約束しましたからね」
春幸と薄紅は視線を合わせ、楽しそうに笑った。
薄紅は春幸の顔を見た後、視線を下に落とし、少しくたびれたスーツに目を止めた。
「これはお恥ずかしい。今日は仕事が立て込んでいて、着替える余裕がありませんでしたので。今朝、温泉には入ったのですが」
薄紅の視線に気づいた春幸は、焦った表情で弁解をする。
しかし、薄紅は春幸の身なりを気にせず、ただ儚く微笑んだ。
「お話の前に、寝間着に着替えんしょうか。春幸さんも、一日中着ていたお召し物はお嫌でしょう?」
「……そうですね。気を使っていただき、ありがとうございます」
「お召し物は、洗濯をしておくでありんす。それと、よろしければ、明日着るための新しいお召し物を一式、ご用意させていただくでありんす」
「何から何まで……助かります」
薄紅が廻し方に視線を送ると、廻し方はすぐに座敷の外から、春幸用の寝巻を持って来る。
「では私も、着替えてくるでありんす。春幸さん、また、後で」
「……ええ!」
客にとって、花魁とはいつ来るかわからないし、いつ去るかわからない存在だ。
しかし、花魁が煌びやかな着物を脱ぎ捨て、寝間着で場を共にした時だけは、話が変わる。
それは花魁からの、「残りの時間は貴方と一緒に過ごします」というメッセージに他ならない。
表情を明るくする春幸に見送られながら、薄紅は立ち上がり、座敷の外へと出ていった。
廻し方に誘導され、薄紅は廊下を歩き、自室へと向かう。
そして、廊下に人影を見つけて、足を止めた。
「お万様」
「ずいぶんと早いじゃないか。まだ八時だよ」
お万は、時計を睨んだ後に薄紅を見た。
しかし、薄紅はお万の視線に怯えることもなく、ただ儚げに微笑んだ。
「花魁道中までしてくれた方ですので」
「今日は何人、廻しがいると思ってるんだい?」
「もてた、ふられたは、遊郭の華。気をもませるのも、花魁の腕。わっちは、自分の仕事を全うしているだけでありんす」
一歩も引かない薄紅の強い瞳に、お万は眉間にしわを寄せる。
刻みたばこの入っていないキセルで自身の肩を数度叩き、諦めたように目を閉じた。
「くれぐれも、入れ込み過ぎるんじゃないよ」
「お万様。わっちを誰だと思っているでありんすか?」
薄紅は、紅楼のナンバー3でありんす、とは口にしなかった。
言うまでもなく、お万には伝わっているとわかっているから。
自信を纏った雰囲気を崩さぬまま、お万の横を堂々と通りすぎた。
しばらくお万からの視線を感じていたが、すぐに遣手部屋の襖が開く音が聞こえた。
寝間着へと着替え終えた薄紅は、春幸の待つ部屋へと戻る。
部屋の畳には、床廻しによって二人分の布団が敷かれており、布団の横では春幸が正座をして、薄紅の戻りを待ちわびていた。
「お待たせしんした。春幸さん」
「いえ。私も、丁度着替え終えたところですので」
薄紅は、上座を歩いた後、段差を降りて下座の座布団へと腰を下ろす。
春幸の横へ。
「お仕事、忙しいんでありんすか?」
「え、ええ。最近は、少し。でも、安心してください。貴女と会える時間は、ありますので」
「無理は、なさらないで欲しいでありんす」
香時計が、廻し方によって片付けられる。
時間制限が取り払われた部屋の中、薄紅と春幸は穏やかに、楽しそうに、話をはずませた。
同刻。
武彦は、馴染みを買って、紅椿を待っていた。
「あ、お姉様!」
馴染みの終盤に襖が開き、武彦の待つ座敷に、紅椿が入って来る。
「べ、紅椿花魁!」
「こんばんは、武彦様」
紅椿は上座に敷かれた座布団へと座り、下座で遊ぶすずねと武彦に微笑んだ。
武彦は頬を赤く染めながら頭を下げ、すずねはオセロの手を止めて、上座へと小走りにやってきた。
そして、紅椿の袖を掴んで、武彦を指差した。
「お姉様! 武彦さん、花魁道中を見ていたらしいでありんす!」
「あら、そうでありんしたか。いかがでしたか? 紅楼の誇る、花魁道中は?」
紅椿は、まるで自分事のように喜びを含ませながら、武彦へと問いかけた。
武彦は、穏やかな表情で紅椿に答える。
「とても、素晴らしかったです。吉原中の美しさが、全部集まっていたみたいな」
「喜んでもらえて、嬉しいでありんす」
「あ、もちろん、紅椿花魁の方がずっと美しいですが!」
「お上手でありんすね」
花魁道中の中に紅椿がいなかったことを思い出しただろう武彦は、必死に弁明をする。
が、紅椿は気にした様子もなく、くすくすと笑った。
武彦はしばらくごまかすように笑っていたが、ふとした瞬間に、表情へ影を落とした。
「……俺には、買えそうにないなあ」
紅椿は、そんな武彦の言葉を聞き逃すことなく、目を細めて武彦を見た。
「無理はなさらないで欲しいでありんす。武彦様のペースで会いに来ていただけるだけで、わっちは幸せでありんすよ」
甘い言葉が、武彦の耳をくすぐる。
武彦は丸くした目で紅椿を見た後、頭を掻きながら視線を床へと落とした。




