二十軒目 花瓶
花魁の仕事は、客に夢を見せることであり、その手法は人によって異なる。
紅椿は、高嶺の花が手の届きそうな場所に咲く、近さ故の魅了。
対し、薄紅は、高嶺の花が決して手の届かないところで咲く、遠さ故の魅了。
「ふふ」
薄紅は、自室のちゃぶ台に置かれた花瓶から、花を一本抜いて眺めていた。
薄紅の部屋は、客を招く座敷と同様に質素である。
家具も服も、生活に必要な最低限しか置かれていない。
茶で統一された家具の中、春幸から贈られた花だけが彩色を持ち、白い画用紙に垂らされた絵の具のように、あまりにも鮮やかに存在していた。
「素敵ですね、お姉様!」
「惣花もできるようなお方が、お姉様のために花を一輪ずつだなんて!」
薄紅の左右に座る睦月と如月も、薄紅の持つ花を見つめながら、キャアキャアと黄色い声をあげている。
「そうね」
薄紅は、二人の賞賛に対し、共感するように頷いた。
薄紅にとって、自分にだけ向けられた一本の花は、惣花以上の価値があった。
花を持つだけで春幸の手のぬくもりが感じられ、薄紅は指を動かし、花の茎を優しく撫でた。
「そ、それで……春幸様とは、いつお話になるのですか?」
そんな花を愛でる薄紅に、弥生は焦ったように尋ねてきた。
「いつ?」
「あ、あの、春幸様、お姉様ととても話したがってましたし。たくさん、お花もいただいてますし」
弥生は、薄紅がいないときの春幸の姿を思い出しているのだろう、気まずそうな表情を浮かべていた。
薄紅自身も、春幸が自身と話すことを望み、しかしまともに話していない現状をきちんと理解していた。
「弥生は、春幸様が私と会えなくて、可哀そうだと思っているのね?」
「え!? まあ、その……はい」
遊郭は縦社会。
太夫である薄紅に対し、散茶女郎でしかない弥生が意見をするなど、本来であればもっての他だ。
「弥生! あんた何言ってんの!」
「お姉様が間違ってるっていうの?」
弥生よりも位の高い睦月と如月が、薄紅に代わって弥生を叱りつける。
「ご、ごめんなさい! 私、そんなつもりじゃ……」
「睦月。如月。いいのよ」
が、薄紅は手を伸ばして、二人を制止する。
前のめりになっていた二人は、薄紅が許すならばと、弥生をにらみつけた後、背筋を伸ばして座り直した。
薄紅は花を花瓶に戻して立ち上がり、弥生の前で腰を落とす。
「弥生。春幸様のことを、ちゃんと見た?」
「え、えっと。見ていた……つもりです」
「じゃあ、彼が人の視線に敏感なこと、気づいた?」
「え? そ、それは……気づいていなかった……です」
弥生が難しい顔をして考え込んだので、薄紅は儚げな笑みを浮かべた後、細い指で弥生の下唇をなぞった。
「きっと、春幸様は若くして成功されたから、人よりもたくさんの嫉妬や利己の視線に晒されてきたと思うの」
「嫉妬や……利己……?」
「だから、私を選んでくださったんだと思うの」
薄紅は立ち上がり、ちゃぶ台の前に座り直す。
そして、再び花瓶から花を一本抜きとって、その香りを静かに嗅いだ。
「心配しないで、弥生。私も、春幸さんとはお話してみたいから」
「は、はい!」
穏やかな表情の薄紅を見ながら、弥生は小さく息を零した。
その表情には、安堵の様子が含まれていた。
昼。
薄紅は、睦月、如月、弥生の三人を連れて、紅楼の廊下を歩いていた。
自身のお世話係である禿や花魁を育成することも、太夫の役目だ。
「あら、薄紅花魁。ごきげんよう」
「ごきげんよう、紅椿花魁」
廊下の端による他の遊女たちに見守られながら、薄紅と紅椿は、偶然にも顔を合わせた。
「げっ! 出たでありんす!」
「無礼」
思わず嫌そうな顔をするすずねを、輝水仙がすかさず引っぱたく。
紅椿は困ったような表情を浮かべた後、薄紅に謝罪をした。
「うちの禿が申し訳ないでありんす」
「気にしてないでありんすよ。まだまだ、子供の様ですし」
薄紅は、左手で右肘を支え、右の拳を唇に当てながら、軽く微笑んだ。
「寛大な言葉、ありがとうござりんす」
「いえいえ」
紅椿は、薄紅の許しを得たことに感謝を述べた。
すんなりと引いた紅椿に、薄紅の後ろに立つ三人は、やや不服そうな表情を浮かべる。
しかし、あえて口を挟んで来るようなことはなく、じっと薄紅と紅椿のやり取りを見守っていた。
紅椿は、睦月、如月、弥生の三人の様子を確認した後、薄紅へと微笑み返した。
「ところで、薄紅花魁。最近、良い馴染みができたと聞いたでありんすが」
「……ええ。おかげさまで」
紅椿からの言葉に、薄紅は眉をぴくりと動かした。
かつて、紅椿の馴染みである武彦を奪おうとしていたことを思い出し、薄紅は表情に警戒を強めながら、紅椿をじっと見る。
「ちゃんと、見てあげてほしいでありんす。大きな金額を動かせるお客様は、時に限界を見誤ってしまうでありんすから。馴染みになったばかりの頃は、特に」
が、紅椿から発せられた言葉は、心配だった。
薄紅は表情から警戒を薄め、次の瞬間眉を吊り上げて激高した。
「は? なにそれ」
「え?」
「私が、春幸さんを見ていないと、そう言ってるの?」
薄紅の怒声が、廊下に響く。
廊下の隅から見守っていた遊女たちだけでなく、睦月たちもすずねたちも、思わず緊張で背筋を伸ばす。
紅椿は、すぐに何かを察し、申し訳なさそうに口を開いた。
「申し訳ないでありんす。そういうつもりでは」
「じゃあ、どういうつもりだったの? 私の馴染みのことを、なんであんたの方が知っているつもりになってるのよ!」
薄紅が、一歩踏み出す。
ドンという花魁にあるまじき足音を立て、紅椿へと体を近づける。
「あんたに言われなくても、春幸さんのことは私が一番よく見ているわよ!」
「何の騒ぎだい!」
薄紅の怒声は、二階へと上がってきたお万によって止まった。
お万は、眉間にしわを寄せながら廊下を速足で歩き、廊下の真ん中でい争っている紅椿と薄紅に対し怒鳴った。
「うちの太夫二人が、何をみっともないことしてんだい! 頭冷やしな!」
一切の事情を尋ねることもなく怒鳴ったお万を見て、薄紅は自身の振る舞いの醜さを客観視し、冷静さを取り戻した。
そして、紅椿に背を向けて、自室に向かって歩き始めた。
去り際の言葉はない。
睦月、如月、弥生も、慌ててその後に続く。
紅椿は、薄紅の背に手を伸ばして口を開こうとしていたが、結局何も言わずに口を閉じていた。
「見せ物じゃないよ! あんたらもさっさと散りな!」
お万は、廊下のすみで野次馬になっていた遊女たちにも怒鳴り散らす。
遊女たちは「ひいっ」と小さく悲鳴を上げて、そそくさとその場を離れた。
「お万。私……」
悲しそうな目で見て来る紅椿を、お万は睨みつけ、火のついてないキセルで紅椿の肩を叩いた。
「こんな無様、二度とやるんじゃないよ」
「……ええ」
紅椿は小さな声で返事をし、すずねと輝水仙は不安そうに紅椿の姿を見ていた。




