十九軒目 一輪
「今日も、薄紅花魁を頼むよ」
「かしこまりました」
春幸が初めて令和吉原を訪れてから、一週間。
大門が閉じる午後十時に間に合わなかった日を除けば、春幸は毎日令和吉原へと通った。
五会目ともなれば、登楼の手順も慣れたものだ。
「今日は蒸し暑いですね」
「そうですね」
廻し方と世間話をしながら座敷に入り、春幸はいつも通り下座で薄紅を待っていた。
とはいえ、入ってくるのはいつも、睦月か如月か弥生のいずれかだ。
何日目でやってくるかの基準も持たず、待つというほどの期待もなかった。
上座側の襖がすーっと開いたので、今日は誰から入って来るだろうと考えながら、視線を襖へと向ける。
「おぉ……」
だからこそ、入ってきた薄紅を前に、思わず言葉を失った。
襖を閉じた薄紅は、そもまま上座まで歩き、畳の上に正座した。
そして三つ指をつき、下座に向かって深々と礼をした。
「薄紅と申します。どうぞ、よしなに」
春幸は、薄紅の一連の動きを、ただ愛おしそうに眺めていた。
幻ではないかとも思ったが、初会の時にも漂っていた微かな桜の香りが、目の前にいるのが薄紅本人であると教えてくれた。
「おお。おお。薄紅花魁! 君! 今すぐ一番上等な食事を持ってきてくれたまえ!」
春幸は、全身を震わせながら、すぐに廻し方へ夜席膳を注文した。
そして、薄紅の反応を伺うため、すぐに薄紅の方へと振り返った。
「ありがとうござりんす」
薄紅は形式的な所作で、春幸に晩御前の感謝を述べた。
そこに、心は感じられない。
しかし春幸には、それが心地よかった。
「そう、その瞳だ。私は、その瞳に惹かれたのだ」
二十代の頃から経営者として成功し、酸いも甘いも、数多の視線を浴び続けてきた。
だからこそ、自身に視線を向けず、何者も映すことのない薄紅の瞳が、とても心地よかった。
「薄紅。素敵な名ですね。ご自分でお付けになられたのですか?」
「いいえ」
「私は、夏が好きでね。世界中が、熱く盛り上がっている雰囲気がたまらない。薄紅花魁は、お好きな季節は御座いますか?」
「いいえ」
会話は、春幸からの一方的な問いかけで進んだ。
春幸は、自己開示をしたうえで話題を振り、薄紅の興味を引けないとわかればすぐに次の話題へと転換した。
しかし、当の薄紅は、そっけない態度を貫いたまま。
上座から下座を見下ろしながら、春幸の質問にただ一言返して終わる。
「薄紅花魁のことを、少しでも知れて嬉しいです」
春幸は、そんな薄紅の態度に怒ることなく、むしろ満足そうに笑顔を作った。
春幸が、ふっと浮かんだ問いかけを一通り言い終えたところで、廻し方たちが夜席膳を運び込んで、薄紅と春幸の前へと並べた。
「どうぞ、お召し上がりください」
夜席膳が一通りがそろったところで、春幸は薄紅に食事を勧めた。
すると薄紅は目を閉じ、下座に向かって深々と礼をした。
「本日はこれで、失礼させていただくでありんす」
「え?」
食事に手を付けることもなく、薄紅は立ち上がり、振り返ることもなく座敷から出ていった。
春幸は、驚きながら、ただそれを眺めていた。
薄紅によって閉じられた襖は、すぐに弥生の手によって開かれた。
そして、弥生は座布団を抱えながら部屋に入り、不安そうな表情で上座へと座った。
春幸は、薄紅が出ていった襖をじっと見つめたまま動かなかった。
弥生は、薄紅のために用意された夜席膳に囲まれながら、下座の春幸へと気まずそうに礼をした。
「や、弥生です。春幸様、またお会いできて嬉しいでありんす」
弥生は、いつもより長めの礼をして、頭を上げる。
しかし、春幸は依然、襖を見つめたまま。
弥生はごくりと息を飲んで、姿勢を正し、ただ春幸の様子を注視していた。
「ふふふ。はははははは! そうだ。君は、そうでなくては!……おっと、弥生花魁。これは失礼、無視をするつもりはなかったのだ?」
「い、いえ。……あの、お姉様が、どうかなさいましたか?」
恐る恐る尋ねる弥生に対し、春幸は再び笑い声をあげた。
「いや、さすがは弥生花魁だと思ってね。私の欲しいものを、的確にくれる」
「春幸様の欲しいもの……? えっと?」
「ふふふ。お腹は空いているかい? 薄紅のために注文した料理で申し訳ないが、できれば食べてくれないか? 残されても、料理が可哀そうだ」
「あ、で、では。一緒に食べましょう」
弥生は、夜席膳のうち、煮物が入ったお皿を手に取り、下座へと下りた。
すかさず廻し方が、春幸の前にお盆と箸を置いたので、弥生はお盆に煮物の皿を乗せる。
そして再び上座へと戻り、漬物の入ったお皿を手に取った。
「薄紅の妹分と、一緒の膳をつつく、か。それもまた、一興か」
「それでは、乾杯」
弥生が平杯を掲げたので、春幸もまた平杯を掲げ、杯を返した。
「お時間です」
香時計が、終わりの時間を告げる。
「今日も、楽しかったよ」
「恐れ入りますでありんす」
春幸は廻し方を呼び、いつものように贈り物を選ぶ。
「花を、一本ずつ。彼女と、薄紅花魁に」
「かしこまりました」
春幸は、座敷へ入ってきた廻し方から、二本の花を受け取る。
そして、一本を弥生に手渡し、もう一本を上座の真ん中へと置いた。
薄紅が座っていた場所へ。
弥生は、花を優しく強く握りしめながら、春幸の目を見た。
「お花、必ずお姉様にお届けします」
「頼むよ」
その後も馴染みとなった春幸は、薄紅へ花を贈り続けた。
春幸からの花は、薄紅の自室の花瓶に刺されていった。




