十八軒目 遊郭通い
「あなた。なんだか、昨日から機嫌がいいわね?」
エプロンをつけた春幸の妻が、春幸を見送るために玄関へやってくる。
春幸は、靴の紐を結びながら、自身の妻に返事をした。
「ああ。実は昨日、遊郭に行ってきたんだ」
「遊郭って、浅草の方にあるアレ?」
「うむ」
「どこへ行ってもいいですけど、お酒にだけは気を付けてくださいね? 貴方は、強い方じゃないんだから」
「わかってる。行ってくる」
春幸は靴を履いて立ち上がり、妻の額に口づけを交わし、家を出た。
春幸の一日は、妻との会話から始まる。
その後、タワーマンションのエレベーターで一階まで降りる。
一階には運転手が社用車を待機させているため、中へと乗り込む。
そして、車の中でスマートフォンを開き、会社に到着するまでの間に、届いているメールやメッセージに目を通し、次々返信をしていく。
「社長、おはようございます!」
「おはようございます!」
「おはよう」
会社に着いた春幸は、まっすぐ社長室へ向かい、レザー張りの椅子へと腰掛ける。
社長室の中は、絵画も美術品もなく、質素な雰囲気だ。
代わりに、必要最低限に揃えられた棚やキャビネットなどは、耐久性やセキュリティで一切の妥協を許さない、高品質な家具ばかりだ。
「おはようございます、黒江社長。午前の予定ですが、午前九時より役員との全社戦略会議。十時より企画部との新サービスの打合せ、十時半から移動し、その後は特別会員向けのランチ懇談会となっております」
秘書からスケジュールを聞いた春幸は、ちらりと壁掛け時計を見る。
次の予定まで少し時間があったので、机の上に置いていた書類を一つ手元に寄せて、内容を確認し始める。
「わかった。今日の夜は、何かあっただろうか?」
「いえ。本日は、午後八時の打ち合わせが最後ですね」
「そうか」
春幸は手を動かしながら、今日も令和吉原に行く時間が取れそうだと、心の中で微笑んだ。
「やれやれ。すっかり遅くなってしまったな」
仕事を終えた春幸が令和遊郭に到着したのは、午後九時半。
先日よりも人の数が減っている大門をくぐり、記憶を頼りに玄屋へと向かう。
源也に到着すると、店員が一人近づいてきたので、春幸は冊子を受け取る前に自身の希望を口にする。
「薄紅花魁を頼みたい」
春幸の言葉に、玄屋の店員は慣れた手つきで、裏の説明が書かれた冊子を広げ、春幸へと渡した。
「二会目なので、サービスは裏。料金はこちらとなりますが、よろしいでしょうか?」
「構わない」
「それと、既に本日は、薄紅花魁の馴染みのお客様がたくさんお越しいただいておりまして。薄紅花魁がお部屋に来る可能性は、非常に低いかと」
「それで構わない」
客のブッキング――廻しの数が多ければ、裏よりも馴染みを優先する傾向がある。
春幸は、移動時間に調べた遊郭の知識で、すんなりと店員の意図を読み取った。
そして、一秒でも早く薄紅の元へ向かいたい想いから、店員を逆に誘導する勢いで江戸町一丁目へと入った。
先日感動を示していた建物にも、示していなかった花魁にも、春幸の感情は動かない。
ただまっすぐに紅楼へ向かい、ただまっすぐに廻し方の案内する座敷へ入った。
「こちらへどうぞ」
「ありがとう」
春幸が案内された座敷は、先日の引付座敷よりも質素な空間であった。
下座に客のための座布団はあれど、上座に座布団が敷かれていない。
楽器もなければ、花も置物もない。
引っ越してきた直後のような、空っぽの空間であった。
春幸は下座の座布団に座り、座敷を見渡した後、空っぽの上座を見つめた。
拳を握ると掌が汗ばんでいることに気づいたので、ハンカチを取り出して汗を拭う。
「まったく。役員会でも、ここまで緊張したことはないな」
春幸は小さく深呼吸をし、精神を整える。
「ごめんくださいまし」
その少しの後、上座側の襖がすーっと開かれて、弥生が座敷に入ってきた。
弥生は持っていた座布団を上座に敷き、座布団の上に正座すると、春幸に向かって頭を下げた。
「弥生でありんす。どうぞ、よしなに」
「ああ。楽にしてくれ。君、何か軽く摘まめるものを二人分頼む」
春幸は指を二本たて、馴染み客のように手際よく、廻し方へと注文する。
「こちらのメニューからお選びください」
「一番上等なものでいい。頼むよ」
「かしこまりました」
廻し方は、春幸に渡そうとした冊子を引っ込めて、すぐに座敷の外へ注文を伝える。
「お心遣い、ありがとうござりんす」
「気にしないでくれ」
春幸は、薄紅の代わりに部屋を訪れた弥生の仕草をじっと観察し、その仕草がどことなく薄紅の姿と重なることに気付き、小さく口角をあげた。
「君は、薄紅花魁のことを知っているのかい?」
「もちろんでありんす。薄紅花魁は、わっちのお姉様でありんす」
「ほほう。姉か。実姉、ということかい?」
「いえ。血は繋がっておりませんが、妹分として、可愛がっていただいているでありんす」
「そうかそうか。妹分か」
弥生の言葉に、春幸の表情が明るくなる。
姉妹分という関係を前に、弥生と重なって見えた薄紅の姿が、より色濃く鮮明に見えた。
「妹分と言うことは、薄紅花魁のことをも詳しいのかな? 弥生花魁。良ければ私に、彼女のことを教えてくれないか?」
「かしこまりました。わっちが知っていることであれば、喜んで」
春幸の要求に応じて、弥生は薄紅のことを語り始めた。
紅楼で一番の花魁となるため、日々自分を磨いていること。
最近も、体調を崩していた花魁のため、積極的に代役を務めたこと。
春幸は何度もうなずきながら、弥生の話を楽しそうに聞いていた。
「ごめんくださいまし」
「ごめんくださいまし」
三十分が過ぎたころに睦月が、一時間が過ぎたころに如月が、座敷へと入ってきた。
春幸は、花魁が増えるたびに軽く摘まめる茶菓子を追加し、増えた二人にも薄紅のことを尋ねた。
「やはり、薄紅花魁は素晴らしい女性なのだな」
「そうなのでありんす。お姉様は、紅楼の頂点に立つお方なのでありんす!」
「ははは。いいな。私も、そんな薄紅を見てみたいな」
香時計のお香が火を弱め、弐の書かれた札に炭が近づいてくる。
部屋に漂っていた香りも薄まって、時間の終わりを告げる。
「そろそろ、お時間となります」
廻し方が春幸に声をかけると、春幸は閉ざされた上座側の襖を見て、小さく笑った。
「ふふふ。そうか、来なかったか」
残念そうにする言葉ではあったが、春幸は満足そうな表情を浮かべていた。
そして、そのまま廻し方の方を見た。
「君。裏の支払いは、茶屋でまとめて、だったね?」
「おっしゃる通りです」
「では、今夜も惣花を一つ」
「かしこまりました」
廻し方は、平然とした表情ではあったが、一瞬体をびくりと震わせた。
らしくもない足音を立てて座敷を後にし、外へと惣花の注文を伝える。
廊下からは、春幸が帰る前に花を飾らなければと、廻し方たちが急ぐ音が聞こえた。
「よ、よろしいのでありんすか? お姉様は今日、いらしてませんけど」
思わず表情を変えてしまったのは、弥生たちだ。
弥生は首を傾げながら、おそるおそる春幸へと尋ねた。
「構わない。初会で見た薄紅花魁は、惣花を二度しても足りないくらい、美しかった」
金を積んでも目当ての花魁に会えないことに憤慨する客は、少なくない。
さっぱりとした春幸の言葉に、睦月と如月と弥生は顔を見合わせ、安心したように表情を緩めた。
「それに」
「それに?」
「……いや、なんでもない」
春幸は、きっと自分の言葉は妹分を通して薄紅に伝わるだろうことを思えば、最後の一言を飲み込んだ。
春幸は、座敷に増えていく花を眺めながら、余韻に浸るように酒を一杯口にした。




