二軒目 禿と新造
遊郭で働く女の朝は、遅い。
太陽がとっくに顔を出した午前十時。
それが、彼女たちの朝だ。
紅椿は布団から起き上がり、窓へと近づく。
簾の隙間から妓楼の外を覗けば、妓楼で働く男衆――若い者たちが忙しなく走り回っていた。
「いつも、お疲れ様」
紅椿は、外で働く者たちに向けて感謝の言葉を零し、朝の支度を始めた。
寝巻のまま箪笥を開き、湯浴みに必要な一式を取り出す。
紅椿が一式を抱えて立ち上がろうとすると、部屋の外からどたどたと、子供の走る音が聞こえた。
「すずね! 廊下を走るなって、何回言ったら分かるんだい!」
「す、すみませんでありんすー!」
紅椿が襖の方を見ていると、足音が座敷の前で止まり、襖が一気に開かれた。
「紅椿お姉様! 十時! 十時! 起床の時間でありんす!」
飛び込んできたのは、義務教育も終えておらぬだろう、あどけなさの残る女の子。
紅椿の座敷に入るなり、布団があるはずの場所に向かって、焦った声で叫んだ。
が、既に布団が畳まれ、紅椿がいないことに気が付くと、目を丸くした。
「おはよう、すずね。まだ寝てる娘もいるから、静かにね。襖も閉めてちょうだい」
襖を開けたまま固まる女の子――すずねを見ながら、紅椿はくすりと笑いながら言った。
「あ! 申し訳ないでありんす! すずねは、おたんこなすでありんす!」
すずねは紅椿を見た後、急いで襖を閉めた。
そして、箪笥の前で湯浴みの一式を抱えている紅椿の姿を思い出し、目を見開いて紅椿を指差した。
「あああ! 紅椿お姉様! 何をやってるでありんすか!」
「? 何って、お風呂の準備だけど?」
「そういうのは、禿の私の仕事でありんす!」
すずねは速足で紅椿に近づいて、紅椿の手から一式を奪い取り、頬を膨らませる。
妓楼における禿とは、遊女見習いにして花魁付きのお世話係。
私の仕事を奪ったとばかりに、すずねはじっとりとした視線を紅椿に向ける。
「ごめんなさい。でも、お風呂の準備くらい、私一人でもできるわよ」
「できても、ダメなんでありんす!」
「それに、すずねがいつ来るかわからなかったし」
「ガビーン! やっぱり、すずねはおたんこなす……」
が、一理あったのは紅椿の方。
十時に紅椿を起こさなければならなかったのに、十時に座敷へ着くことができなかったすずねは、ショックを受けた表情で立ち尽くした。
そんなすずねを、紅椿はそっと抱きしめる。
「そんなことないわ。すずねには、いつも助けられているもの」
「うう……。本当でありんすか?」
「ええ、本当よ」
「うえーん! 紅椿お姉様ー!」
すずねもまた、紅椿を抱きしめ返した。
紅椿の優しさに包まれるように、その胸に顔を埋める。
「あ」
「あ」
そして、すずねが顔を離すと、すずねの鼻から紅椿の寝巻を結ぶ、見事な鼻水の橋ができていた。
すずねは無言でポケットティッシュを取り出し、鼻水の橋を拭きとった。
「洗濯、しておくでありんす」
「お願いね」
妓楼の一階には、大浴場が備わっている。
入る順序に規則はなく、既に浴場では何人もの遊女が湯浴みを楽しんでいた。
紅椿が浴場に足を踏み入れると、浴場内の空気がぴりっと引き締まった。
豪華絢爛な衣装を脱いでも、厚く塗った化粧を落としても、紅椿は人を惹きつける。
背筋を伸ばして静かに歩く姿には、気品が溢れ出ていた。
「紅椿花魁よ」
「相変わらず、綺麗」
「私も、あんなふうになりたいなあ」
紅椿は、周囲からのひそひそ話を聞こえていないかのように振舞い、シャワーで自身の体を洗い流した。
湯浴みを終えると、紅椿は座敷に戻る。
座敷では、すずねともう一人の遊女――輝水仙が待機をしていた。
紅椿が化粧台の前に座ると、すずねと輝水仙が準備していた化粧道具で、紅椿に化粧を施していく。
紅椿が身に纏う打掛も、結った髪の毛も、紅椿一人で整えることはできない。
「いつもありがとね、二人とも」
「Ce n'est pas grave。気にしないでください、お姉様」
「はい! これは私たちのお仕事でありんす!」
新造である輝水仙は、禿のすずねよりも一つ位が高い。
その差を見せつけるように、すずねよりも速く、手際よく、紅椿を着飾っていく。
「終わった。すずね、後は私がやる」
「ふえっ!?」
「その方が速い。お姉様の時間を無駄にはできない」
輝水仙は、すずねから化粧道具を受け取ると、すずねのやりかけの化粧を仕上げていく。
すずねは、もごもごと口を動かしながらも、輝水仙の言葉に反論することもできず、輝水仙のてきぱきとした動きを眺めていた。
「輝水仙。もう少し、言葉を選びなさいね」
「また、何か間違えましたか? ごめんなさい、すずね」
「全然! 全然平気でありんす!」
化粧を終えると、正午に近づこうとしていた。
妓楼によっては、昼見世と呼ばれる昼営業が開始される時間。
しかし、紅楼では昼見世を行っていない。
よって、夜見世の始まる午後六時までが、紅椿にとっての自由時間だ。
「二人とも、ありがとうね」
紅椿は着飾った衣装のまま机に向かい、本を広げて勉学に勤しんだ。
そして時折、勉学に励むすずねと輝水仙の方を見ては、二人が安心して生きられるこの場所を守らねばと、胸の内で誓っていた。
紅楼の最上位花魁として、その役目を決して手放すつもりはなかった。




