十六軒目 ふられる
一週間後、武彦は再び紅楼を訪れた。
お万は武彦の姿を確認すると、キセルで二階を指し示した。
「今日はいるよ」
「あ、ありがとうございます!」
武彦が紅楼の中へ入った後で、お万は近くの廻し方に声をかけた。
「おい。さっきの客に、一杯出してやんな」
「はい」
お万からの指示を受けた廻し方も、すぐに紅楼の中へと入り、台所へと走った。
「ごめんくださいまし!」
「ごめんくださいまし」
武彦が座敷で座っていると、すずねと輝水仙が入ってきた。
「こんばんは。すずねちゃんと、輝水仙さん」
「はいでありんす! お久しぶりでありんす!」
「お久しぶりです」
すずねは名前を覚えてもらっていたことに喜び、上座の座布団へと座った。
輝水仙もその後ろを歩き、座布団へと座る。
「申し訳ないでありんす。お姉様もすぐに伺いたいと言っていたでありんすが、今は廻しでありんすので」
「廻し?」
「Double Réservation。指名が重なっているのです」
「ああ、なるほど」
輝水仙の補足に、武彦は納得したように頷く。
「大丈夫だよ。紅椿花魁が必ず来るわけじゃないって、わかってるから」
「お姉様が来るまでは、私たちが盛り上げるでありんす! 激マブな演奏、お見せするでありんす」
「激マブ?」
首を傾げる武彦の前で、すずねと輝水仙は立ち上がる。
そして、壁に立てかけている三味線を持ち、上座へと戻って演奏の準備を始める。
同時に、廻し方が座敷へと入ってきて、武彦の前に平杯を置いた。
透明な液体が入っている平杯を見て、武彦は不思議そうに言った。
「これは?」
「当楼からのサービスで御座います」
「お酒……ですか?」
「ええ。吉原にある酒蔵で作られた地酒『紅楼』です」
妓楼の名を冠する酒を、武彦は再び覗き込む。
紅の平杯によって目立たなかったが、透明な酒は名に相応しく、うっすらと赤らんでいた。
「いただきます」
紅楼からの詫びを無下にもできないと、武彦は平杯を手に取った。
丁度始まった、すずねと輝水仙の演奏を聴きながら、ちびりと酒を口に含んだ。
「美味しい」
普段は、安居酒屋でしか酒を飲まぬ武彦である。
苦みの取り払われた味に舌鼓をしながら、演奏を楽しんだ。
演奏のリズムにそって平杯が動き、武彦の顔は徐々に赤みを帯びていった。
演奏が三曲を終えたところで、上座側の襖が開き、紅椿が入ってきた。
紅椿は、既に早く顔を赤くしている武彦を見ると、珍しいものを見たようにくすりと笑った。
「お酒、ほどほどにしてくださいね?」
武彦は、酒による酔いと、今日も紅椿に会えたことへの嬉しさも重なり、紅椿の姿を見ると手をあげて叫んだ。
「廻し方さん! 食事を! 松を四人分!」
「お水もお願いしますね」
紅椿は、武彦の叫びの後に注文を付け加える。
そして、自身も三味線を手に取り、すずねと輝水仙の演奏へと参加した。
先日、体調を崩していたことのお詫びを言うつもりだったが、武彦の様子であれば言葉よりも演奏が良いだろうと、弦をはじいた。
「よっ!」
時折入る武彦の手拍子とともに、座敷の中には楽し気な空間が作られていった。
馴染みの時間が終わり、紅椿は武彦を連れて紅楼の出口へと向かう。
いつもよりも陽気な武彦が大きく手を振るので、紅椿も少しだけ大きく振り返す。
武彦を送り出した後は、廻し方と共に二階へと戻り、待機していたすずねと輝水仙と合流する。
「武彦さん、楽しそうだったでありんすね!」
「ふふ。そうね」
紅椿は、武彦の様子を思い出して、再び小さく笑う。
初めて見る油断しきった姿を思い出しながら、機嫌を良くして自室へ戻る。
「ずいぶんとご機嫌でありんすね。紅椿花魁」
薄紅と顔を合わせたのは、その時だ。
薄紅の後ろには、睦月、如月、弥生の三人の花魁だけが立っており、廻し方はいない。
「薄紅花魁、お部屋にお戻りください」
紅椿を案内していた廻し方は、薄紅を非難するように、強い口調で薄紅へと告げた。
「ちょっと、挨拶をしたいだけでありんすよ」
「なりません」
花魁を案内する時間を調整し、花魁と客をすれ違わせないことも、廻し方の仕事だ。
しかし、薄紅の背後に、廻し方はいない。
廻し方は、薄紅が独断で廊下に出たのだと気づき、さらに強い口調で注意を続けた。
しかし、肝心の薄紅は廻し方の言葉など気にも留めていないようで、悠々と紅椿の方へ視線を向けた。
「今日は、馴染みの客に会うことができたのでありんすね」
「ええ。お気遣いありがとうござりんす。薄紅花魁」
紅椿と薄紅は、互いに笑みを浮かべたまま、穏やかな言葉を交わす。
次はどちらが口を開こうかと双方様子を窺っていると、薄紅の背後から弥生が一歩前に出て、紅椿を指差した。
「お、お姉様は、紅椿花魁がお休みの間、紅椿花魁のお客さんを引き受けて、フォローしていました。もっとちゃんと、お礼を言った方がいいと思います」
紅椿が弥生へ視線を向けると、弥生は「ひっ」と声を上げて、薄紅の背後へと隠れていった。
薄紅は弥生を隠すように動き、紅椿に向かって微笑みかける。
「構わないでありんすよ、弥生。わっちと紅椿花魁は、同じ紅楼の太夫。助け合うのは当然のことでありんす」
施しでも与えたかのような薄紅の瞳に、すずねが怒りでこぶしを握る。
輝水仙はすずねの手首をつかみ、万が一を起こさないように備えているが、輝水仙自身の手も小刻みに震えていた。
「ええ。本当に感謝しているでありんすよ。武彦様が来た時も、わざわざ張見世にまで来て、わっちに恥をかかせないようにしてくれたと伺っているでありんす」
が、紅椿は、涼しい顔で言葉を返した。
紅椿の言葉を聞いた薄紅は、唯一自分の意思で誘い、唯一誘いを断ってきた客の顔を思い出し、口角をぴくりと動かした。
薄紅からの返答を待たず、紅椿は言葉を畳みかける。
「本当に、ありがとうござりんした。薄紅花魁のおかげで、わっちは恥をかかずに済みんした」
「……っ!」
わっち――紅椿は、恥をかかずに済んだ。
では、あの場で恥をかいたのは一体誰だったのか。
薄紅は、誘いを断られた時のことを思い出し、振り返って紅椿から表情を隠す。
「どういたしまして」
そして、一言だけ呟き、速足で自室へと戻っていった。
「お姉様!」
睦月、如月、弥生も、薄紅の後を急いで追う。
「おととい来やがれでありんす! シェー!」
「下品」
すずねは、肘を直角に曲げた右手を上げ、同じく直角に曲げた左手を下げ、去っていく四人の背中に向かって叫んだ。
輝水仙は、そんなすずねの頭をひっぱたいた。
「ごめんなさいね」
紅椿は、自身のいざこざに巻き込んでしまった廻し方に、謝罪を口にする。
「いえ、これは薄紅花魁の監督を怠った我々の責任です。紅椿花魁がお気になさることではございません」
廻し方は、そんな紅椿の謝罪を受け取りつつも、毅然と返す。
そして、腕時計で時間を確認するなり、少々焦ったように紅椿へ視線を向けた。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、少々急ぎます」
「あ、そうね。他のお客様への案内が止まってしまうものね」
「ご理解が速くて助かります」
「すずね、輝水仙」
廻し方は、速足で紅椿への自室へと向かい、紅椿たち三人も後を続く。
遠くから覗いていた何人かの廻し方たちは、廊下の通行ができる状態になったことを確認すると、座敷で待たせている客の元へと急いだ。




