十一軒目 1K
帰宅した武彦は、1Kの居室を見渡した。
充分に広いと思っていた場所も、引付座敷と比べれば、なんとも狭く感じられた。
「……楽しかったなあ」
床に鞄を置き、ワークチェアに座る。
そして、スマートフォンの通帳アプリを起動し、険しい目で残高を確認した。
「払えなくはない……けど」
就職してから六年間。
無駄遣いすることなく貯めてきた残高は、裏を買うには十分すぎるほど膨らんでいた。
とはいえ、買えると買うとは、また別の話である。
「五万……か」
事実を口にすることで、武彦は現実を直視する。
腕を組んで目を瞑り、金の使い道を考える。
作り置きしたカレーの香りが武彦を現実に引き戻し、瞼の裏に浮かんでくる紅椿の姿が遊郭へ引き戻す。
シーソーのように心が揺れて、武彦は「うー」と低いうめき声を上げた。
奥歯を強く噛みしめると、こめかみを汗が一滴つたった。
――紅椿で御座います。どうぞ、よしなに。
自分しかいない部屋の中、武彦は紅椿の声が聞こえた気がした。
「買う! どうせ、使い道のない金だ!」
悩み続けた武彦は、心の衝動に任せて立ち上がった。
埃をかぶり続けている金ならば、自身の心に従って使ってしまおうと決意した。
ATMを求めて家を飛び出し、コンビニへと向かって走った。
翌日、土曜日の夕方六時。
大門の扉が開く。
どこの茶屋に向かおうかと悩む客たちをすり抜けて、武彦は一目散に玄屋を目指した。
玄屋の前に立っていた清次郎は、すぐに武彦の存在に気付き、一礼をした。
「こんばんは、武彦様。本日はお早いですね」
「あ、あの! 紅椿花魁の裏って、まだありますか?」
「もちろんで御座います。本日は、武彦様が一番乗りですので」
武彦は緊張した顔で、近くの縁台へと腰かけた。
清次郎は奥から冊子をとってきて、改めて武彦へ広げて見せる。
『六拾分』
『金 伍萬圓 より』
武彦は見覚えのある文章を確認した後で、財布から五万円を取り出し、清次郎へと差し出す。
「買います! 裏!」
が、清次郎は手を広げ、武彦の動きを制す。
「武彦様、お金をお仕舞い下さい。ご説明が遅れて申し訳ありませんが、初会と違って、裏は後払い制。お代は、お楽しみの後で結構です」
武彦は、また勢い任せに行動した自分が恥ずかしくなり、そっと五万円を財布に戻した。
そして、恥ずかしさで赤くなった顔のまま、清次郎の方を向いて説明を待った。
「では、裏についてご説明させていただきます」
清次郎が冊子のページをめくると、裏の詳細について書かれたページが現れた。
ところどころ、文章の横に赤線が引かれており、清次郎は赤線部分を指差しながら説明を始めた。
「まず先日も申し上げたことですが、裏は、あくまで紅椿花魁と会える可能性を買うサービスです。購入されたからと言って、紅椿花魁と会えるとは限りません。よろしいですか?」
「はい」
「結構です。紅椿花魁がお越しにならない間は、禿や新造の方々、つまり遊女見習いの方たちが武彦様のお相手をすることになります。こちらもよろしいですか?」
「はい!」
武彦は、清次郎の言葉と書かれている内容を比べながら、相槌を打つ。
一人ぼっち、座敷で過ごす可能性も考えていたため、禿や新造が相手をしてくれるとわかれば、安堵で少し笑みがこぼれた。
清次郎は指を動かし、次の説明を始める。
「ここからは規則でなく、推奨事項となります。お相手をして下さる禿や新造の方には、感謝を込めてお食事を出して差し上げると、非常に喜ばれます」
「え?」
「もちろん、花魁にもです。お食事は、座敷の中にいる若い者に言えば、用意してくれます」
「しょ、食事……ですか」
武彦は、一瞬言葉に詰まった。
経験上、こういった場所での食事代は、チェーン展開をしている飲食店とは比べ物にならないほど高額であることを知っているからだ。
「ちなみに、お食事っていくらくらいなんですか?」
「各妓楼によって異なりますので、私の口からは何とも」
うっかり情けないことを口にしてしまったことに気付き、武彦は再び顔を赤くした。
昨日覚悟を決めたにもかかわらず、ちょっと金額が上乗せされた程度で覚悟が揺らいだ自分が嫌になった。
清次郎は、そんな武彦の内心を知ってか知らずか、説明を続ける。
「また、私の経験上ですが、裏は最低二時間とることをお勧めします。花魁は忙しいので、滞在時間が長ければ長いほど、会える確率が上がります」
「にじ……!?」
武彦は驚きで口を大きく開け、すぐに目と口をギュッと閉じた。
再び出てきた情けない自分の感情を、気合いで噛み殺した。
「買います! 裏、二時間!」
ここまで来たら五万も十万も一緒だと、高らかに購入を宣言し、覚悟を決めた。
「よろしいのですね?」
「はい!」
「わかりました。では、紅楼へとお連れ致します」
清次郎は、武彦の手から冊子を回収し、奥へと仕舞う。
「こちらへどうぞ」
そして、昨日と同じように、玄屋を出た。
武彦は鼻息を荒くし、少しだけ大股気味で、清次郎の後に続いた。
木戸門が開くと、懐かしい音と香りが武彦を包んだ。




