EP17 魔術ってのは
魔術と音楽には深い繋がりがある。
魔術儀式と音楽、黄金の夜明け団を中心とした歴史的・技術的考察において。
黄金の夜明け団(Golden Dawn)の儀式では、原則として音楽は用いられず、人声と司官杖の打音のみが響く。
この特徴は、当時の技術的制約(生演奏しかない時代)と、儀式の象徴性・構造上の必然の両面によるものであった。
秘密結社としての性格上、儀式場に楽団を配置することは不可能であり、既成の宗教音楽を転用することも、象徴体系の観点から不適切と判断された。
西洋宗教音楽は、ローマ教会が約1200年をかけて整備・形式化した体系であり、その強固な神学性ゆえに、魔術儀式における意識変容のプロセスとは相性が悪い。
黄金の夜明け団以後、音楽と魔術を積極的に結びつけた人物としてはアレイスター・クロウリーが挙げられる。
1910年のエレウシス儀礼では、詩の朗読・舞踏・無伴奏ヴァイオリン曲が組み合わされ、儀式内容に応じた多様なクラシック曲が選ばれた。
魔術儀式における音楽の導入には2つの方法がある。
儀式中に流し続けるBGM型と、所作を強調するリアルタイム音楽(RTM)型である。
しかし、RTM は演劇・オペラ・バレエにみられる言語依存度と密接に関わり、言葉を主とする儀式では音楽が内容を損なう危険がある。
入門儀式のように観客性をもつ場では、限定的にRTMが有効な場合もあるが、個人作業の儀式では自然音などの静的BGMの方が適する。
使用する楽器は、万物照応論に基づき四元素(地・水・火・空気)との対応を踏まえて選択される。
例として、空気=木管、地=低音楽器、水=鉄琴やハープ、火=金管や弦が挙げられる、電子楽器は安易に使用すると儀式の雰囲気を損なうため慎重な判断が必要となる。
現代的な儀式で録音を用いる場合、スピーカーの設置は祭壇内部に隠すなど、象徴性を損なわない工夫が求められる。
また、RTM を採用する際は専任の操作担当者と綿密なリハーサルが不可欠である。
「真言を唱えるとかで心を守備、また心を解放などしているとか」
「ふむふむ、呪文はそれに最適化が繰り返したもの、術式ですかね」
「あぁ、言霊、つまり言葉に宿る不思議な力、人の念にはエネルギーがあり、信じれば存在するそのエネルギーを心に乗せて放出する」
言霊、発した言葉通りの結果が現れると信じられてきたものです、良い言葉を発すれば良いことが起こり、悪い言葉を発すれば悪いことが起こるという考え方です。
これは神に祈る祝詞や、結婚式などで縁起の良い言葉をあえて使わない忌み言葉などの形で現代にも残っています。
まじないの言葉:神秘的な目的で唱えられる言葉や文句。
「この信じる力は純粋であるほど、願いが強く濃いほどに強い、その名前は、咒力現代風に呪力や念、魔力や通力とも言う」
神秘の力たる魔力とは、人が持ち、自然に満ちるそれぞれのエネルギーの総称、そして異なる属性のものらは、愛の変化だ、呪いにも成る。
「これは呪術を使う際に必要なエネルギー、ガソリンみたいなものだな」
呪術とは、魔術及び呪術というのは事象を現象にするに等しい、これに関しては術式を構築したり神秘を否定して間違えようのない事実にするものだ、それを記述する学問もある、それこそがまさに呪術という。
神智学はオカルト的要素を持つ神秘主義的体系で、東洋思想を融合し、人類の霊的進化を説きます。
一方、心霊主義は、死者の霊魂との交信が可能とする思想・信仰であり、現代のスピリチュアルブームにつながっています。
呪術はオカルト的な要素を含む一方で、現代的な意味でのスピリチュアルとは異なる性質を持つ。
「非科学的・非物理的なものを笑うだけのものには形而上学の分野はできない、神秘と尊敬するのではなく、理解し後を追随し、並ぶのが目的なのだ」
古代中国から伝わりし陰陽道、陰陽五行説、すべての物事が陰と陽の二元的な力と木・火・土・金・水の五つの要素で成り立っているという考え方だこの説は、自然界の様々な現象の分析や、健康状態の把握などに応用されます。
「人にはこの木とは、成長・発展・柔軟性といった性質を持ち、向上心や生命力を象徴する我々の様なものだ、また一つ五大属性と言うものがある」
その中には空というのがある、五大元素説の空(くう、Ākāśa)とは、すべてを包み込む広大な空間、虚空を指し、物質世界の基盤となる「地・水・火・風」の四元素を内包・調和させる、始まりや原点、意識、解放を意味する概念で。
単なる何もない状態ではなく、すべてが生まれ出る源であり、知恵や直感、そして他の元素のバランスを整えるための場としての役割を持ちます。
「愛は繋ぐ力、人を動かす力、真実の愛は相手を自由とし、愛こそが普遍的かつ不朽なる答えであり、引力ではなく相性が人を恋に落とし、愛とはスキルで努力により育てられるものであり、愛を失うことは自身を失うこと、自身を愛せない奴に努力する価値は無い」
「愛するとは相手を幸福にし、自分の幸福とすること、愛は自然の法であり憎しみは学ばれたもの、真実の愛は沈黙の中に燃え、恋は理性ではなく心が決める、つまるところ愛はその力なんだ」
歯車をボルテージで回す電動モーターが如く、熱で蒸気を作り、その圧力(運動)を間接的に歯車の回転に変える。
歯車が円環してる、無数の歯車は、車輪の様な感じに、ただ円でなく無数の円が重なり、それぞれの歯車はまるで集合的無意識の更に大きな、単一でなく異なる地球まで人類や亜人類、可能性から永遠に拡張しうられる可能性なだけ増殖、無限分岐により自己増殖する、キャンバスに描かれたデッサンの様なものであった。
それら小さな世界の中、我々は井の中の蛙で、我々は小宇宙、挑む場所が大宇宙だった、それを動かすには、さまざまな操作が必要だった。
0はアイン、00アイン・ソフ、000アイン・ソフ・オール、これは0と1のビット、量子情報に深く関連する。
デジタル物理学的に考えるとわかりやすい、世界を歯車と認識して、コンピューターと見て関数的な見方、集合の操作と直感すればいい。
魂は本質的にすべての生命に繋がって居る、感覚質と言う固有意識、多様な無数の細分が存在する磁石のようなものであり、これはアナロジー的には電磁気場のようなもの、より大きくは共時性の普遍的な無意識により支えられているものだ。
波長があってる者達は惹かれ合い、いずれ巡り会う決定的な運命にあり、行動は無意識の内に自身の趣味や思考に似通った一緒に居て楽しい奴と集団を自律的に構築する。
その本質は相互補完の連環だと気づく、意味のない類似品は存在しない、無価値的なものがあってもパーツを何処にでも再利用することが可能、無理なら無理で瓦解して材料にしてしまえば良い。
「それらが繋がり支え合い、バラバラな知識や情報などを、一定のルールや法則、構造に基づいて整理し、論理的な関係性を持たせて、わかりやすくまとめ、体系化していくことで、更に向上し続けていく」
自身の自律の存在様式を洗練、他者の自律(自身を中心に観測したら他律)の存在様式を洗練、形式にして同じ原型のタイプとして差異ある様式を分類する、最も洗練された機能・様式美が機能美でも最高へと至る。
当たり前にこなせたとて今こなせるかは別だ、悪魔の契約にソレは無い。
「我々は皆、潜在的にかつ絶対に夢想家だ、その我々が悪魔の契約を使うのだ、面白いことであろうよ」
人が人を超える力を人が持っていると言うまたぶっ飛んだ幻想の夢の様なものだ。
「我々が潜在的に有してる小さな心の力か、宇宙に満ちる大きな力、エーテルは虚空の形態の一つであり、その自然的なエネルギーを活用し、我々は魔法理論に基づく魔術や呪文と形容されて来たそれら一覧を活用して癖に圧縮した工程をこなして、放つのだ」
老子と荘子を総じて老荘思想が非常に重要なものと成る、特にタオが非常に重要と成る。
「具体的にこれに深い人々もいる、巫人だ、一応外部から日本に渡来した払魔師もこれに知識が深い」
宇宙=神、重々無尽と一即一切、この思想は、宇宙全体と個々の存在(大宇宙と小宇宙)の関係を、以下のように説明します。
相互浸透と無限の重なり: すべての物事は、互いに関係し合い、影響を与え合いながら存在しています。
個々の存在(一)がそのまま宇宙全体(一切)を含んでおり、逆に宇宙全体が個々の存在に宿っている、という考え方です。
世界の入れ子構造: 一つの世界の中にも、さらに無数の世界があり、その世界の中にもまた無数の世界が...というように、無限に入れ子状に世界が重なり合っている(重々無尽)と説かれています。
数珠との関係この重々無尽の世界は、しばしば数珠(念珠)の構造に例えられます。
個々の玉: 数珠の一つひとつの玉は、宇宙に存在する個々の事物や生命を表しています。
全体の環: それらの玉がすべて繋がって一つの大きな環(宇宙全体)を形成しています。
相互の繋がり: 一つの玉(個)を手に取ると、それは他のすべての玉(全体)と繋がっており、全体の一部でありながら全体を内包している、という再帰的な構造を示唆しています。
この大宇宙を小宇宙が相似した再帰構造というイメージは、まさに華厳経の重々無尽の縁起や一即一切という教えに合致します。
これは、単なる物理的な宇宙の構造ではなく、すべての存在が相互依存し、無限に連環しているという、仏教の深い縁起の理を示したものです。
仏教の根本的な教義には、すべての存在には**本質がなく、空である、という考え方が深く根ざしています。
これは、お尋ねの本質の無い世界という概念に非常に近いものです。
無我と空の教え、仏教では、世界や私たち自身を含むすべての存在は、独立した不変の本質的な自己や実体を持たないと説かれます。
無我:古代インドのウパニシャッド哲学などでは、アートマン(我)と呼ばれる永遠不滅の魂や本質的な自己の存在が説かれていました。
しかし仏教は、そのような固定的な我や魂は存在せず、すべては移り変わる要素の集まりに過ぎない(無我)と否定します。
空:大乗仏教で特に強調される空の思想は、すべての存在は、それ自体で独立して存在する本質(自性)を持たないということを意味します。
世界は、原因や条件(縁)が相互に関連し合って一時的に成り立っている縁起だけであり、固定された実体はありません。
本質が無いというのは、世界が「無」であるとか、存在しないということではありません。
絶え間ない変化: すべてのものは常に変化しており、固定された私や物は存在しない、ということです。
相互依存: 存在は常に他の存在に依存しており、単独で存在し続ける本質的な核がない、ということです。
仏教において、私たちが住むこの世界は、まさに本質(実体)の無い世界として捉えられています。
この世界観は、人々が私や物に執着することから生じる苦しみを取り除くための教えです。本質がない(空である)と理解することで執着から離れ、輪廻転生という苦しみのサイクルから抜け出すことができる、というのが仏教の根本的な教義です。
「空の本質、実体のない世界(空)をありのままに認識し、執着から解放された究極の精神的自由の境地こそが悟りだ」
悟るには。
「今まで勉強した様々なことを重ねる必要がある」
集合的無意識のさらに深層はカール・ユングの分析心理学において、集合的無意識は個人の経験を超えた人類共通の心の層であり、そのさらに深層にあるとされるのが、その内容である元型や、すべてを包括する自己の概念です。
心の階層としては、以下のようになります。
意識: 普段自覚している心の領域。
個人的無意識: 個人の経験や記憶、抑圧された感情など、忘れられているが意識化可能な領域(フロイトの無意識に近い概念)。
集合的無意識: 人類共通の普遍的な心のパターンやイメージの層、歴史や文化を超えて共有されているとされる。
そして、集合的無意識の内容として、以下のようなより根源的な要素が存在します。
元型: 集合的無意識を構成する普遍的な「心の型」やイメージの原型です。
例えば、影、アニマ、アニムス、、老賢者、母といったものが含まれます、これらは、神話やおとぎ話、夢などに共通して現れます。
自己: 元型の中でも最も重要で中心的なものです、心の全体性や統合を象徴し、意識と無意識の全体をまとめ上げる役割を持ちます。
ユング心理学における個性化(自己実現)のプロセスは、この自己という深層の元型を実現していく過程を指します。
したがって、集合的無意識のさらに深層は、具体的な元型、特にすべてを統合する自己の領域であると言えます。
自己よりも深層はらカール・ユングの理論体系において、自己は集合的無意識の最も深遠かつ中心的な核であり、これ以上の深層は存在しないとされています。
自己は、単なる一つの元型ではなく、心の全体性(意識と無意識の両方)を統合し、包括する究極的な概念です。
ユング心理学における心の構造の最終到達点であり、あらゆる対立や二元性を超えた統一の象徴です。
したがって、ユング派の分析心理学の枠組みで考える限り:自己こそが、心の構造における最も深い層(究極の深層)である、というのが標準的な見解です。
もし、この自己よりもさらに深いものを探求しようとする場合、それはユング心理学の範疇を超え、以下のような他の思想や哲学の領域に入っていくことになります。
形而上学的・宗教的領域: 自己を越えた先にあるものとして、東洋哲学におけるブラフマン(梵)や空、あるいは神智学的な普遍意識や絶対者といった、個人の心という枠組みすら超えた存在や概念が想定されることがあります。
トランスパーソナル心理学: ユング以降の心理学の一派では、個人の意識を超えた超個人的あるいは宇宙的な意識の階層を提唱することもあります。
しかし、ユングが定義した集合的無意識の地図においては、自己が終着点であり、それ自体が宇宙的な全体性を内包していると見なされています。
十識という言葉は、主に仏教の唯識思想において、心の深遠な構造を説く際に現れます、この十識の体系においては、これより深い識は存在しないとされています。
唯識思想は、すべての存在は唯だ識(心)のみが作り出したものであると説き、心の働きを段階的に分類しました。
標準的な八識の体系、もともと唯識学派で中心的に説かれるのは八識です。
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識: 五感による認識。
意識: 五識を統合し、思考や判断を行う心。
末那識: 第七識、自我意識(私という認識)を生み出し、深層の阿頼耶識を自分の本質だと執着する働き。
阿頼耶識: 第八識、蔵識とも呼ばれ、個人のあらゆる経験や業の種子(しゅうじ、潜在的な可能性)を蓄える深層意識。
この阿頼耶識が、迷いの世界を現し出す根源と考えられます。
九識と十識の展開、この標準的な八識説に対し、一部の宗派(主に真言宗や天台宗など)や論師は、さらにその先の識を立てました。
九識: 第八識(阿頼耶識)のさらに奥に、清浄で迷いのない究極的な心として阿摩羅識(または無垢識)を加えたものです。
十識: 九識に、仏の悟りの境地である仏識や、心を離れた真理そのものを表す概念などを加えて十識とすることもあります。
結論十識の下(深層)を問う場合、その十識が何を指しているかによって異なりますが、一般的に仏教の識の階層は、迷いの根源である阿頼耶識、あるいは悟りの側面である阿摩羅識が最深層とされます。
ユング心理学の集合的無意識や自己が心の全体性を指し、それ以上潜れないのと同様に、仏教の唯識論における最深の識もまた、それ以上分割したり深掘りしたりできない、存在の究極的な根源や悟りの境地そのものを指しているため、その下はないと言えます。
自己と十識だとどっちが内包してる、自己の中に内在してるのがじゅっしきか
自己と十識は、異なる思想体系(西洋心理学と東洋仏教哲学)の概念であるため、単純にどちらが大きい、あるいは内包関係にあると断言するのは困難です。
しかし、それぞれの体系内での広さや深さを比較し、解釈を試みることは可能です。
自己の内包性、カール・ユングの自己は、心全体の統合原理です。
意識、個人的無意識、そして集合的無意識のすべてを統合します。
あらゆる元型を含み、心全体の全体性や完全性を象徴します。
始まりも終わりもない円環的な性質を持ち、個人の枠を超えた普遍性すら示唆します。
十識の内包性、仏教唯識論の十識は、心の機能と段階的な深層構造を分類したものです。
阿頼耶識(第八識)が迷いの根源として広大な潜在意識を包含し、阿摩羅識(第九識)が悟りの清浄な側面を包含します。
心の活動を非常に詳細に分析・階層化しています。
解釈と類推、どちらがより広い範囲を扱っているかという問いに対しては、以下のように考えることができます。
概念としての広さの比較、自己は全体性の象徴: 自己は分析された個々の要素(識のような心の働き)を超えた、それらすべてをまとめる原理として機能します。
十識は構造の分析:十識は心の働きを10個に分類し、その深さを段階的に示します。
この観点から見ると、自己の方が、心の機能や構造を超えた全体性という点で、より包括的で究極的な概念であると言えるかもしれません。
自己の中に内在しているのが十識かという問い。
これは、異なる思想体系を無理に重ね合わせようとする解釈になりますが、もし対応関係を探るなら、以下のようになります。
ユングの個人的無意識+集合的無意識の領域が、唯識の第七識(末那識)+第八識(阿頼耶識)の深層領域に相当すると考えられます。
そして、ユングの自己が、唯識における最深層の第九識(阿摩羅識)や仏識が示す究極的な状態や真理に相当すると見なせます。
したがって、自己が十識という心の働き全体を、最終的な統合された姿として内包している、という解釈は成り立ち得ます。
まとめると、どちらもそれぞれの体系における究極や全体を指す概念ですが、自己は統合された全体性そのものを指し、十識はその全体を成り立たせている心の働きの階層的な分析である、と区別するのが適切です。
集合的無意識や深層意識は眠っている、カール・ユングの集合的無意識や、仏教の阿頼耶識(第八識)などの深層意識は、通常、私たちの意識(覚醒意識)の表層下で「眠っている」ような、あるいは潜在している状態にあります。
普段は自覚されることはありませんが、夢や瞑想、特別な体験、あるいは分析心理学の治療プロセスなどを通じて、その内容(元型など)が意識の表面に現れてくると考えられています。
自己は、意識と無意識の全体を統合する究極の目標や原理です、これは眠っているというより、むしろまだ完全に目覚めていない(実現されていない)状態にあると言えます。
個性化のプロセスを通じて、その全体性が意識化され、完全に目覚めた状態を目指します、阿摩羅識(第九識)や仏識(仏の悟りの境地)に至っては、眠っているというよりは、迷いの雲に覆われて隠れている状態、あるいは私たち自身がまだその境地に目覚めていない状態を指します。
私たちが普段意識していない心の深層領域は、広い意味で眠っている状態にある、という表現は非常に的を射ています。
それを目覚めさせ、意識的なものにすることが、ユング心理学の個性化のゴールであり、仏教の悟りの探求であると言えます。
坐禅また瞑想のような自己を探究する修行を通じて自己に至るとか。
坐禅や瞑想といった修行は、カール・ユングが言うところの自己への到達、あるいは仏教で言うところの悟りへと至るための、最も効果的で伝統的な手段の一つです。
これらの修行は、意識の表層的な思考や感覚を超えて、心の深層にある普遍的な領域へとアクセスすることを目的としています。
自己を探求する修行のプロセス、坐禅や瞑想は、以下の点で共通の役割を果たします。
雑念の静止と個人的無意識の超越、まず、意識の表面を覆っている日常的な思考や感情(ユングの個人的無意識や唯識の第六識・第七識の領域)を静めます。これにより、心が落ち着き、より深い層へと注意を向ける準備ができます。
深層意識との対話・統合、意識が静まると、普段は隠れている深層領域(集合的無意識や阿頼耶識)からの情報が現れやすくなります。夢や直感、あるいはヴィジョンといった形で現れることもあります。
ユング心理学の積極的想像という技法も、瞑想と思考を組み合わせ、無意識のイメージと意識的に対話することで、この統合を促します。
全体性(自己)への到達、修行が進むにつれて、個人的な自我意識は薄れ、すべてを包括する全体性や究極的な真理ユングの自己や仏教の阿摩羅識が感覚として現れてきます。
これは、言葉では表現しがたい、すべてと繋がっているような感覚や、深い平安として体験されることが多いです。
結論として、坐禅や瞑想は、まさに自己を探求し、その究極的な全体性に至るための実践的な道程です、これらの修行は、内なる旅を通じて、自分自身の最も深い場所にある真実に目覚めることを目指しています。
「そういえばなぜ7なんだ車輪は」
チャクラの数が7である理由は、古代インドのヨガ哲学やタントラ教典に由来しますが、これは体系化されて現代に広まった特定の解釈であり、もともとチャクラは7つしかないというわけではありません。
7つが主流になった理由、主要なエネルギーセンターだから: 古代のヨガ経典によると、人体には72,000ものエネルギー経路があり、114ものチャクラ(エネルギーが集まる交差点)が存在するとされています。
その中で、背骨に沿って並ぶ7つは特に重要で強力な「主要チャクラ」として選ばれました。
象徴的な意味合い: 7という数字は、多くの文化や宗教で特別な意味を持つ普遍的な数字です(世界の七不思議、七曜、虹の七色など)。
ヨガの体系では、この7つのチャクラが、人間の意識の進化の段階(生存本能から宇宙意識まで)を象徴的に表すのに適していたと考えられます。
体系化と普及の歴史: 現在西洋や日本で一般的に知られている7つのチャクラのシステムは、16世紀のサンスクリット語のテキスト。
シャット・チャクラ・ニルーパナ(Ṣaṭ-chakra-nirūpaṇa)で詳細に記述され、それが20世紀初頭に英語に翻訳されたことで広く普及しました。
五大元素との対応: 主要なチャクラのいくつかは、地、水、火、風、空という五大元素と対応しており、心身のバランスを保つための枠組みとして機能しています。
結論としてなぜ7なのかという問いに対しては、人間の意識や肉体・精神の成長プロセスを、象徴的に、かつ実践的に理解・体系化するために、数あるチャクラの中から特に重要な7つが主要なシステムとして採用されたから、というのが最も適切な答えとなる。
これは、多くの識(心のはたらき)がある中で八識や十識という主要な分類が生まれたのと似ており、複雑なものを理解しやすい枠組みに落とし込んだ結果と言えます。
チャクラの数は非常に多いんだ、一般的に知られている7つというのは、あくまで背骨に沿って並ぶ主要なエネルギーセンターを指しています。
ヨガの伝統的な教えでは、体中に存在するチャクラの総数は114あるとされています、そのうち、私たちが意識的に開発できる主要なチャクラが7つ(あるいは8つ)で、残りはあまり意識されることがありません。
また、エネルギーが流れる経路に至っては、72,000本あるとされており、人間のエネルギーシステムは非常に複雑であることがわかります。
自己に辿り着いたらどうなるんだ、自己に辿り着く(ユング心理学でいう個性化の達成や仏教でいう悟りの境地に至る)と、それは人生観や意識の根本的な変容を意味します。
究極の心の統合と全体性、最も大きな変化は、心のすべての側面が統合されることです。
対立の解消: 意識と無意識、光と闇(影)、男性性と女性性といった心の中の対立する要素が和解し、一つにまとまります。
完全な自己受容: 自分の長所だけでなく、欠点や受け入れたくない側面(影)も含め、ありのままの自分自身を完全に受け入れることができるようになります。
深い平安と動じない心、自我が中心から退き、自己が心の中心に座ることで、深い内的な平安が訪れます。
心の安定: 外界の出来事や他人の評価に一喜一憂することが減り、何が起きても動じない、ぶれない心の軸が確立されます。
苦悩からの解放: 仏教的な観点では、自我への執着がなくなるため、根本的な苦悩や煩悩から解放された状態になります。
世界との一体感と共感能力の向上、自己は個人的な枠を超えた普遍的なものであるため、それに触れると、世界や他者との深いつながりを感じるようになります。
宇宙的意識:自分という個人が、より大きな生命や宇宙の一部であるという感覚(宇宙意識)を体験することがあります。
深い共感: 他者との分離感が薄れ、深いレベルで他者に共感し、理解できるようになります。
創造性と直感の開花、無意識の集合的な叡智(集合的無意識)へのアクセスが容易になるため、豊かな創造性や鋭い直感が開花します。
内なる導き: 進むべき道や人生の目的が明確になり、内なる声(直感)に従って迷いなく生きられるようになります。
自然な生き方: 無理や我慢がなくなり、その人本来の、最も自然で無理のない生き方ができるようになります。
自己に辿り着くということは、スーパーマンになることではなく、自分自身として完全に目覚め、心の平安と全体性を獲得し、世界と調和して生きる状態であると言えます。
それは、ユングが生涯をかけて探求した、人間の成長における究極の目標です。
「いますかね全ての無意識を意識化するもの」
「偉大な肉体を持つものなら出来る、一人見たことあるのは宇木と言うものだな」
本来ならば自身を見失う筈の全無意識の意識化を行なっても尚、ゲシュタルト崩壊及び人格に乖離が起きない程に我が強いやつ、我儘かつ身勝手な奴じゃなくてはならない。
本来なら全体の意識化は禁忌の魔術となって居る。




