五章 別れ
ドタン……
突然の大きな物音に、
僕はいつもの棚の上でうっすらとした意識から目を覚ます。
見下ろした先には、君がうつ伏せで倒れていた。
僕はあの時のことを思い出し、また必死に声をかける。
でも君は目を覚まさない。
さっきの音に気づいた君の奥さんが、部屋の外から駆け寄ると、すぐにどこかへ連絡をしてくれた。
少しして君は灰色と水色の服を着た人たちに運ばれていった。
あれから半年ほどが過ぎた。
けれど、君はまだ帰ってこない。
『前は少ししたら目を覚ましてくれたのに……まだかな。』
僕は空の椅子を眺めながら呟いた。
ふと、廊下から早い足音が聞こえてくる。
それは、いつもの君や奥さんとは違うものだった。
息を切らしながら僕の前に立ったのは、
すっかり大人になった君の孫だった。
孫は少し息を整えてから、僕を見つめる。
「ちょっと……一緒に来てもらってもいい?」
僕は君の鉱物で、親友。
だから、いつもならきっと断っていた。
でもこの日はなんとなくついていった方がいい気がして、
『……うん、いいよ。』
孫は急ぎながらも、僕をあの専用のケースにそっと入れ、
持ち上げる。
揺れ始めると、外から荒い息遣いが微かに聞こえてきた。
ようやく動きが止まり、感じたのは静けさと小さな話し声。
視界が開けた僕の前には、口元に何かを被せられ、
痩せ細った君が静かに眠っていた。
『……ねぇ、起きて……会いにきたよ。』
俯く僕を、天井の照明が白々と照らしてくる。
チカッ…チカチカッ……
「……驚いたな。
会いにきてくれたの?……ペリドット。」
久しぶりに聞こえた君の声に、僕は勢いよく視線を向ける。
それと同時に、周りにいた君の家族も一斉に近寄ってきた。
僅かな時間、家族が順番に話しかけていく。
最後に僕とも話せるよう、孫がふたりきりにしてくれた。
僕と君は、出会った日から今日までのことを語り合う。
君は変わらず優しく僕に触れてくれるけれど、
以前は温かかった君の手は、冷たくか細くなっていた。
“でも僕は、変わっていない。変われない。”
君は震える手で、僕を僅かに持ち上げる。
「……孫のこと、頼めるかな?」
『……うん、君の頼みなら。』
安心したように微笑みを浮かべた君は、
僕を孫の掌へと渡し、深い眠りにつく。
やがて――
穏やかな表情のまま、僕を残して逝ってしまった。
僕の中から、君が触れてくれていた感触と温もりが、
少しずつ薄れていくのを感じる。
その時、強く込み上げてきたのは、
“悲しみ”。
感じたくなかった。
想い出したくなかった。
君が亡くなってしまったのに、僕は涙一つ流せない。
それでも僕は、君の手ほど大きくなった孫の掌の中で、
静かに“泣いた”。
宙を漂い、海の底で眠り、
いつしか地上近くに埋まっていた僕を掘り起こしてくれた君。
あの長く深い孤独と眠りより、
君と過ごしたたった数十年のほうが、
ずっと濃く、優しくて温かかった。
それは僕にとって、掛け替えのない大切な記憶。
君のところへ行きたい。
君といつまでも一緒に居たい。
そんな想いが溢れてくる。
でも僕は君と約束をした。
薄暗い病室に夕陽が差し込む。
その光が僕を眩いほどに照らすと、
君の最期の願いが染み込んでくるように感じた。
頭上から孫が優しく言う。
「また……会いたいね。」
『……そうだね、会いたいね……。』
僕も見上げて、そう返した。
孫は今にも零れ落ちそうな涙目のまま、僕に微笑む。
それはまるで君のような優しい表情だった。
僕も、同じように微笑み返した。
それから僕は、
君の孫と暮らすようになった――。
※ 次回、最終話。
3月13日(金)17時頃更新予定です。




