三章 継承
引っ越し当日。
冬の空気に満たされた君の部屋。
目覚めた僕の隣に、あったはずの小さな鉱物たちが入った
ケースは、もう無くなっていた。
冷えきった僕の前で、君は立ち止まり、
ゆっくりと両手を伸ばしてくる。
君は僕の気も知らずに、僕専用のケースを用意していたようだった。
茶色い外装に、内側は美しい白のベルベットが敷かれている。
そこへ、いつもより優しい手つきと眼差しで、
そっと僕を入れる。
「おはよう。
どう?気に入ってくれた?君専用のケース。
よしっ、じゃあ……行こうか。」
そう言って部屋を出た君は、少し足を止めて振り返る。
部屋を見渡しているのだろうか。
僅かに揺れる真っ暗なケースの中、君の表情は見えない。
でも、あの夜の両親と同じ顔をしているような気がした。
ズズッ、スー……ハァ……
聞こえてきたのは、鼻を啜り、息を吐いた音。
僕も、君と過ごしたあの部屋での日々を思い返す。
そうして僕たちは、一緒に新居へと向かった。
──
君の日常は再び忙しさに追われた。
帰ってくると、ほとんどがぐったりとしていたり、
休日も寝て終わっていた。
そんな君がある日。
帰ってきてリビングに入った途端、倒れ込んだ。
僕は聞こえないと分かっていても、
君が目を覚ますまで必死に声をかけ続けた。
そのあとなんとか目を覚ましてくれたけれど、
僕は新しい棚の上から、見守り続けることしかできなかった。
段々と仕事も落ち着いてきた頃、
君は結婚し、少しして子も授かった。
君の両親も祖父母となり、時々家へやってくる。
変わっていく情景を、僕は静かに棚の上から見ていた。
すると、君の両親が囁くように話しかけてきた。
「約束……守ってくれて、ありがとうね。」
僕は何もしていないし、できなかった。
それなのに。
以前とはまた少し違う“何か”が、
内側から僕を押し潰しそうとしてくる。
でも今は、そんな言葉をかけてくれた二人に、
伝えるべきことがある。
『……こちらこそ。僕のことを願ってくれた人を、
産み育ててくれてありがとうございます。』
そう返した。
君の子はというと、それほど鉱物に興味を示さなかった。
けれど、大事な日には若い頃の君と同じように、
こっそりと僕の前で手を合わせていた。
子が大きくなり一人暮らしを始めると、
君は再び鉱物採取へ行き始め、夜には以前のようによく話しかけてくれるようになった。
ただ変わらず、一方通行の会話。
それでもずっと一緒にいたからか、
君は僕が返しそうな言葉を分かってくれるようになって、
まるで対話しているようで少し“嬉しかった”。
“でも本当は、君と……。”
君が持ち帰った鉱物が増えていく度、僕は話しかける。
けれど変わらず話せるものは、一つとしてなかった。
──
時は流れ、君も歳を重ねた。
気づけば子も親になり、君に孫が出来た。
君に抱きかかえられて部屋へやってきた孫は、
瞳を輝かせながら棚の上の僕に手を伸ばす。
まだ赤子だけど、鉱物に興味がある子のようだった。
あっという間に一人で歩き回れるようになった孫は、
よく君の部屋へやってくる。
届きそうにない僕たちのいる棚の前で、
目一杯背伸びをしては、むくれていた。
やがて君に鉱物の話を聞きたがるようになり、
君はいつも嬉しそうな表情で、過去のコレクションを見せながら語り聞かせた。
すっかり鉱物好きになった孫は、帰る前になると
月明かりが仄かに照らす薄暗い君の部屋へ、
再び入ってくる。
棚の上段で黄緑に透かされ光る一番大きな僕を、
静かに輝く瞳で見上げていた。
廊下から差し込む光は、開けっ放しの扉の前に立つ
誰かの影を伸ばしている――。
※次回更新は2月13日(金) 17時頃を予定しています。




