第十一話 よい治癒師とは
1
最初は何が起こったのか分からなかった。
矢を放つまでは最大限注視していたが、軌道を見てこれは当たる、と思った瞬間に緊張の糸が一瞬切れていた。
正しくアルリクの狙いはそこにあり、ほんの一時生まれた隙を見事に突いてきたのだ。
荒れ狂う風を纏いながら飛び立ち、最前線、つまりフォリントを目掛け鋭い爪を突き立てんと滑空する。
驚異的な猛進である。二百五十歩の距離を瞬時に詰めるその推進力は、アルリクを覆う風のマナだろう。渦巻く疾風がアルリクの背をずいと押しているのだ。
まるで嵐が横薙ぎに襲うかの如き光景であった。
「危ないッ」
咄嗟に動いたのは、すぐ後ろに控えていたレディエールである。盾を構えて素早くフォリントを庇うように前へ出る。
ぐっと足を広げ、全身と盾に力とマナを込め踏ん張るが、アルリクの後爪による弾くような一撃に思わずのけぞった。
なんたる脚力!
咄嗟とは言えマナを込めた上で踏ん張った守勢が崩され、レディエールは文字通り衝撃を覚えた。腕に感じる痺れが、アルリクの力を何よりも証明している。
以前に戦った飛亜竜のそれと同じか或いは上回っているかもしれない。盾に刻まれた悍ましい爪痕を見て、レディエールの頬に一筋の冷や汗が流れた。
「フォリントッ、呆けている場合ですかッ!
戦闘中ですよッ!」
「わ、分かってるわよ! ちょっと驚いただけ……!」
急いで二本目の矢を番え、羽ばたくアルリクに向け放つ。が、またも風の障壁に阻まれて傷一つつけられなかった。
「ちょっと、反則よあんなの!
あれじゃ攻撃当たんないじゃないッ!」
魔獣が魔術を使うことはほぼない。アルリクの風にしたって魔術のそれではない。ただ、魔獣は本能的にマナの扱い方を知っているのだ。
術に昇華させるまでもなく、どう扱えば効率的に力を得られるのかを体で覚えている。特にネームドの個体であれば尚更である。
想定の倍は手強いな。あれでは私の剣も相当威力を削がれる、か。
アニス様もいるし、ここは撤退した方がいいか……?
逃亡は決して悪いことではない。寧ろ引き際を見誤ることのほうが冒険者としては落第である。
逃げ帰るということは情報を提供できるということだ。どういう技を使うのか、力はどれくらいか、実際に体験したものから語られるデータは金言だ。
今回は速い、気性が荒いという情報しかなかった。風の鎧のことや盾を抉る膂力があることを伝えれば、後続は随分助かるだろう。
思案していると、数匹の青い蝶が二人のもとまで漂ってきた。癒やしの蝶だ。戦況の芳しくなさを見てアニスが回復魔法を打ったのだ。
衝撃は受けたが怪我はしていないので蝶は消費されない。この魔法の優秀さは、本人も気づいていない傷にも作用するところである。しかもそれが視覚的に分かる。
術者としても仲間が無傷であると知れるのは大きい。
そうだ、アニス様がいるから逃げる、じゃないんだ。
アニス様がいるから、戦えるんだ。
レディエールは片手に持ったロングソードの柄を握りしめ、思い切り盾を叩いて音を立てた。
中空で二人を睥睨していたアルリクの視線がレディエール一人へと注がれ、つんざく声を上げながら急降下、殆ど真っ逆さまに落ちるように滑空しその鋭爪が唸りを上げる。
びゅうと風を切りながら襲い掛かるアルリクを真正面に見上げつつ、レディエールは剣を構えて微動だにしない。瞼を閉じて、剣にマナが螺旋を描いて渦を巻くようなイメージを送った。
レディエールのマナは風と土、鉱物の相である。土の中で生まれ育った鉄が風によって曝け出され、磨かれていく。
アルリクの風は純然たる暴の風だ。怒り狂った風を従わせるには、同じく風でなくてはならない。
魔獣はマナを手足のように使い、尋常ならざる技を見せる。それでは、人間にはそういった技は使えないのだろうか?
否! 戦士たちは弛まぬ努力を重ね己が技を磨き、マナを練り上げ、ついには成し遂げたのだ。
魔術でもなく魔法でもなく、魔獣のようにマナを力として発現させる技術――即ち、魔技である。
レディエールの剣身と心の内に、見えない疾風が渦巻いた。風を研ぎ澄ませ研ぎ澄ませ、いつしかそれは幾重もの刃の塊となる。
アルリクとレディエールが今まさに交差せんとした瞬間、
ここだッ!
目を開き雄叫びを上げ、斜め掛けに剣を振り上げる! 開放された"嵐"は無数の斬撃と化し、アルリクの腕を、翼をざんばらに斬り裂いた。
刃の如く鋭く、銀色に吹き荒んだそれを見て、人は彼女を"銀嵐"のレディエールと呼んだ。
被害度外視の魔技は強力無比な一撃であり、翼を喪ったアルリクから風が失せ去った。
その代わりアルリクの爪はレディエールに届き、片腕を抉った。
……はずだったが、甲虫の加護にお陰で本来腕は引きちぎれてもおかしくないところを、歪んだ長い抉り痕が付くに留まった。
その傷すらも蝶が群がったためにすぐに癒え、レディエールは賭けに勝ったと確信した。
魔技「銀嵐」は日に一度しか打てぬ大技である。マナの大半と気力を使い切るため打てば暫く十全に動けないため、躱されてはならぬ奥義なのだ。
今回のように素早い相手に対しては中々打ちどころがなく扱いの難しい技だが、アニスの魔法があれば相手は最も接近する瞬間、即ち攻撃のタイミングで自らを囮にすることで打てるのではないかと賭けたのだ。
一撃を浴びせられても自分が死ぬのでは意味がないが、魔法によってその心配をせずに済むのであればこの方法が一番確実である。
しかし。
翼を喪い、腕をズタズタに引き裂かれても尚、アルリクの眼から闘争の炎が消えることはなかった。
寧ろ痛みと憎しみに余計に怒り、半狂乱になってレディエールにぼろぼろになった爪を振るい上げた。
万事休すと思ったその瞬間、なにか大きなものがアルリクの視界を横切り、
「わぁ~~~~っ!」
となぜか可愛らしい声で鳴いた。
その滑稽さに一瞬、アルリクが横切ったものに目をやった。
「フォリントさんっ、今ですっ!」
アニスだ。アニスの伝令蜻蛉がどういう理由でか巨大化し、アルリクの気を散らしたのだ。
「風のないあんたなんか、ただの的よッ!」
ずっとチャンスを窺っていたのだろう。すでに弓を構えていたフォリントから放たれた矢は今度こそアルリクの脳天に突き刺さった。
断末魔を上げながら倒れ込み暫くじたばたと暴れたが、やがてそれも大人しくなり、鷲獅子のアルリクは落命した。
2
「まったくっ。
なんて無茶をするんですか、もうっ!」
予想していたことだが、レディエールはアニスにたっぷりとお説教を食らっていた。
自分でもうまくいくかどうかの賭けであったので、そりゃアニス様は怒るよなあ、と甘んじて受ける。
「あんな無茶やらせるために魔法を使ったわけじゃないんですよっ。
あれじゃ、わたしがレディさんにやらせたみたいじゃないですか!」
「まあまあ、おかげでアルリクも倒せたんだしそんな怒らないでいいじゃない。
あたしはカンドーしたわよっ、"銀嵐"!
あんなかっこいい技とか思わなかったわ、ああいう必殺技があるのいいわねえ」
対照的にフォリントは随分な喜びようであった。自分の一撃が止めになったことも嬉しいのだろう、上機嫌だ。
「いや、しかし事前に説明ぐらいはするべきでした、申し訳ありません。
……ところで、あの大きな伝令蜻蛉ですが。あれはアニス様がご自身で考えた策なのですか?」
「ん? ああ、あれはアルリクがまだ生きていることが分かってもう慌てちゃって。
とにかくなんとかしなきゃと思って、わたしの出せる一番速い魔法が伝令蜻蛉だったので出したって感じです。
レディさんのお陰で、いろんな意志が乗っちゃったんでしょうね。自分でもびっくりするぐらい大きな子が出ちゃいましたよ、もう……」
あの蜻蛉のお陰でアルリクに一瞬隙が生まれ、フォリントの一打がうまいこと刺さったのだ。
考えてやっているのであればとんでもない策士であると思ったが、偶然だというので少しほっとした。
「あたしもあれはかなりうまい使い方だったと思うわ。
あんなおっきな蜻蛉がアニスの声でうわ~~~って鳴いてるんですもの、そりゃ気になって見ちゃうわよね」
「ええ、今回だけでなく今後も通用する戦法だと思います。
……叱られることを承知で言いますが、アニス様の魔法は、前衛の私のとってはこう……敵の隙を作るのに長けていて、かなりやりやすいんですよね」
「わ、わたしの魔法は人々を癒やしたり助けたりするためのものですのに……なにか、なにかうまく利用されてしまっている気がします……」
がっくりと肩を落とすアニスの頭をよしよしと撫でながら、フォリントがレディエールに問う。
「それで、あたしの合否はどうかしら。
結局最初の矢は当たらなかったわけだけど、不合格?」
もともとそれを判定するための場である。じっとレディエールを見る青い瞳は、ほんのりと緊張が滲んでいた。
なんだかんだ言って最初の一撃を防がれたことが大分堪えているようだ。
フ、と口元を緩ませてレディエールは頷き、右手を差し出した。
「あの矢は防がれていなければ確実に目に当たっていました。
弓の腕は確かというのは本当のようですね、もちろん合格です。
これからよろしくお願いします、フォリント」
ぱっと花が咲くような笑顔でレディエールと固く手を結び、フォリントが正式に仲間になった。
そのあとは、楽しい楽しい解体作業の時間である。アルリクほどの獲物なら、その素材はかなりの値がつく。
"銀嵐"のせいでぼろついてはいるが、使えそうな爪もまだあり、羽は錬金術の素材にもなる。
しかし、巨体のためこれがかなりの時間を要した。全てが終わった頃にはすっかり日も暮れ、辺りは真っ暗になってしまった。
薪を集めて焚べ、その日は野営をすることになった。
「う~、もう血がべったべたで最悪……お風呂に入ってさっぱりしたいわねえ」
近くに川もないためできることと言えば飲水として用意していたものを布に浸して拭うぐらいである。
いくらかマシにはなるが、べたつきと鉄っぽく獣臭い悪臭は完全には取れない。
「すっかり倒した後のことを忘れていましたね……もう少しお水を用意しておくんでした」
もう少し小さければ多少無理やりにでも解体せずにまるごと街まで運ぶのだが、大きすぎて幌馬車に入らなかったのでしょうがない。
大きさ問わずどんなものでもいくらでも収納できるという魔法のカバンなるものが世にはあるらしいが、とんでもなく高価でカバンひとつで馬が何百頭も買えるという。
魔術具というのは基本的に高価だが、その最たる例だろう。無論そんな物を持っている冒険者などおらず、解体は自然と冒険者の必須スキルになった。
「きっと、今後もこういう夜を過ごすことはあります。
慣れですよ慣れ」
レディエールはソロでずっと依頼をこなしていたため、解体にも一番慣れていた。
臭いや汚れにも慣れっこなのだろう、二人ほどは気にした様子がなかった。
そして、今夜の食事は勿論鷲獅子の肉である。
鷲獅子の肉は部位ごとに食感も味わいもまるで違うため、以前食べた時は美味しかったのに今度は固くて食えたものじゃない、などということがよく起きる。
最も美味とされているのは喉元で、珍味とされているのが鷲と獅子の丁度中間点、つまり首の付根である。
内蔵、特に肝臓は食すべきではない。鷲獅子が好んで食すものの中にバルジャイという毒蛇がおり、その毒を溜め込んでいる場合が多いためだ。
今回食べるのは美味な喉肉である。ここは新鮮な内に焼いて食べるのが一番美味い。一度噛み締めれば、シャキシャキとした歯ごたえが楽しい。
その肉の繊維が舌の上で踊り、口いっぱいに広がる風味は、疲労感も相まってまさに舌福である。
採れる量の少ない部位だが、大きな個体のため思ったより腹は膨れた。血の匂いに辟易としていたアニスとフォリントもよく食べ、大いに満足した。
何かが襲ってきても対応できるレディエールとフォリントが交代で番をして、夜を過ごした。流石にこの日は血の臭いを気にして、アニスとレディエールが抱き合って眠ることはなかった。
戦闘と解体作業で極度に疲れていたため、三人とも泥のように眠った。
3
「ちょっとむずかしいかなと思っていたんですけど、無事討伐できたようで何よりです。
手配書が燃えた時、私ちょっと興奮してしまいましたよ」
翌朝、街に戻って依頼の達成を報告すると受付嬢が実に嬉しそうに言った。
「大変な相手でした。二人がいなければどうなっていたことか……」
「フォリントさんはともかく、革級のアニスさんもですか?
なるほど、レディエールさんが連れてきただけあって優秀なんですね。頼もしい限りです」
「いやあ、そんな。
治癒師として当然の……あれ、そういえば治癒師らしいことはあんまりできていないような……」
眉を悩ましげに顰めながら考え込み始めたので、これには受付嬢も困惑してしまう。
無用な誤解を与えかねないとレディエールは慌てて受付嬢にアニスの活躍を説明した。
「なるほどなるほど。
……うん、あれ? 全然活躍できてるじゃないですか。
なにが不満なんですか?」
「不満、っていうわけじゃないんですけどね。
やっぱり治癒師って言うと怪我を癒やしたりするのが仕事だと思うんですけど、二人共お強いので一回しかその機会がなかったというか」
「それは違います。いいですかアニスさん。よい治癒師というのは、そもそも怪我をさせないものです。
怪我を未然に防ぎ、仲間をサポートする。そのサポートの中には、今回アニスさんがやったような撹乱も当然含まれます。
撹乱することによって敵の攻撃を防げるなら、それは立派な支援です。これは普通の治癒師にはできないことなんですよ。
もっと自信を持ってください。あなたは十分立派な治癒師ですよ」
受付嬢の言葉にうんうんと頷いて、フォリントも続ける。
「そうよアニス、それに大事なのはそれっぽいかどうかじゃなくて、パーティに貢献できたかどうかでしょ?
それでいうと今回一番貢献したのはアニスなんだから、もっと胸張んなさい!」
アニスの中で、何か強張っていたものがほろりと剥けた。
やれることをやる。大切なのは役割ではなく選択だ。
舞台装置が如く与えられた役割をただこなすのではなく、その場その時に合わせた選択こそがパーティには必要であり、難所突破の鍵である。
ずっと自分の魔法で、魔獣とは言えど翻弄してしまったことが気がかりであった。
酷な言い方をすれば、自分の手を汚したくなかったのだ。
わたし、甘えてたんだな。
半開きだった拳をきゅっと握りしめて、レディエールとフォリントに向き合った。
「わたし、頑張っていい治癒師になります。
まだまだ半人前ですけど、よろしくお願いしますねっ」
改めて頭を下げられて二人は一瞬困惑してお互いを見合わせたが、すぐに頬が弛緩し、こちらこそ! と返した。
グリフォンの肉とか現実にあったら絶対おいしくないでしょうけど、そこはマナが隠し味になっているということでひとつ。




