第9話
「さあ、業務開始だ」
圧倒的なプレッシャーを放つ大ボスを見据え、俺は屋上のコンクリートに力強く足を踏み出した。
突風が吹き荒れ、ヨレたスーツの裾がバタバタとはためく。
目の前に広がるのは、見慣れた自社ビルの屋上ではない。どす黒い雲が渦を巻き、空調の室外機や巨大な貯水槽が、まるで紙くずのようにひしゃげて転がっている。
その中央に鎮座しているのは、四つん這いの獣のような、それでいて無数の腕を持つ異形の巨躯だった。
体表からは濃密な紫色の瘴気が立ち上り、周囲の空気を歪ませている。
「グルルルルォォォォッ!」
大ボスが咆哮を上げた。
ただの音ではない。物理的な衝撃波を伴った轟音だ。
ビリビリと空気が震え、足元のコンクリートに細かい亀裂が走る。
「……ひどい有様だな。屋上設備の修繕費だけで、今年の利益が吹き飛びそうだ」
俺は手元の用箋挟みに挟んだ被害状況のメモに目を落とし、ため息をついた。
だが、嘆いていても始まらない。これ以上の損害を防ぎ、何より下層に避難させた社員たちの安全を確保するためには、こいつを迅速に処理する必要がある。
俺はラベルプリンターを構え、キーボードを素早く叩いた。
『備品コード:総-999』
印字されたシールが、ジーッという音とともに吐き出される。
「まずは、在庫として登録させてもらう」
俺はシールを指先に貼り付け、大ボスの巨躯に向かって駆け出した。
相手の図体がデカい分、的は広い。適当な部位に触れてラベルを貼り付ければ、会社の所有物として強制的に機能を停止させられるはずだ。
大ボスが太い腕を振り下ろしてくる。
俺はそれを間一髪で躱し、獣の分厚い皮膚に向かって手を伸ばした。
「よし、もらった——」
ペタリ。
指先が巨躯に触れ、シールを押し付けた。
だが。
「……なっ?」
バチィッ! という弾けるような音とともに、俺の指先が強烈な静電気に撃たれたように弾き飛ばされた。
「グォォォォッ!」
大ボスは痛痒すら感じていない様子で、再び腕を振り上げる。
俺は慌てて後方に飛び退き、地面を転がって距離を取った。
見ると、大ボスの皮膚に貼り付けたはずのラベルが、濃密な瘴気に触れてボロボロに崩れ落ちていくではないか。
「概念付与が弾かれた……?」
俺は自分の指先と、崩れ去ったシールの残骸を交互に見つめた。
これまで、どんなモンスターであろうと、会社のルールで縛ることで強制的に備品化してきた。
だが、こいつにはそれが通じない。会社のルールという概念そのものを、圧倒的な暴力と瘴気で塗り潰しているのだ。
「冗談じゃないぞ。これじゃあ、ただの物理的な化け物退治じゃないか」
俺は悪態をつきながら、再び立ち上がった。
大ボスは俺を明確な敵と認識したらしい。六本ある腕のうちの二本を地面に突き立て、屋上のコンクリートを抉りながら突進してきた。
「おいおい、これ以上の器物損壊は勘弁してくれ!」
俺は全力で走り出し、屋上の端に鎮座している巨大な鉄の塊の背後へ飛び込んだ。
マッハ建機からリースした、双腕の大型重機だ。
ガァァァンッ!
大ボスの突進が重機に激突し、凄まじい金属音が響き渡る。
数十トンはあるはずの重機が、ズズズッと数メートルも押し込まれた。
「佐藤様! 大丈夫ですか!」
俺の胸ポケットに入れたトランシーバーから、黒川の焦った声が響いた。
「なんとか無事です。ですが、黒川さん。納入してもらった重機が、早くもスクラップになりそうです」
「ハハハ! 経費で落ちるなら、いくらでも新品を手配しますよ! とはいえ、あの化け物を相手に重機を盾にするのは、少々分が悪いんじゃないですか?」
「ええ、おっしゃる通りです。物理的な装甲だけじゃ、長くは持ちませんね」
俺は重機のキャタピラの陰に身を潜めながら、荒い息を整えた。
大ボスは重機を邪魔な障害物と見なしたのか、太い腕で何度も殴りつけている。そのたびに分厚い装甲がひしゃげ、火花が散った。
このままでは、重機が破壊されるのも時間の問題だ。
そして、重機がなくなれば、俺はあの規格外の暴力の前に丸裸となる。
「……仕方ない。奥の手を使うか」
俺は用箋挟みの裏側に挟んでおいた、分厚くて古臭い冊子を取り出した。
総務課のキャビネットの奥底で埃を被っていた、先代社長時代の遺物。
『社内安全基準書』だ。
この時代遅れの冊子には、ダンジョン内のありとあらゆる危険と、その対処法が網羅されている。
俺は重機の陰に座り込み、パラパラとページをめくった。
「ええと、大型の異常生物に対する安全確保の手順、と……」
極限状態の中、俺はあえて『事務作業』に没頭した。
恐怖や焦りに支配されれば、ミスを犯す。ミスは労災に直結する。
だからこそ、俺はどこまでも冷静に、基準書通りに処理を進める。
ズドォォォン!
重機が激しく揺れ、頭上からコンクリートの破片がパラパラと降り注ぐ。
俺はそれを意に介さず、基準書の記述と、大ボスの挙動を照らし合わせた。
『項番四-二:対象が多腕型の場合、攻撃の起点は右側の中段腕に集中する傾向あり』
俺は重機の隙間から、大ボスの動きを観察した。
確かに、重機を殴りつけているのは主に右側の腕だ。しかも、真ん中の腕が最も大きく振りかぶられている。
『項番四-三:右中段腕の振り下ろし後、約二・五秒の硬直が発生。この間、対象の左側面に安全地帯が形成される』
「なるほど。攻撃パターンと安全地帯の割り出しか」
俺は口元に薄い笑みを浮かべた。
どんなに規格外の化け物であろうと、一定の法則があるなら、それは『業務フロー』に落とし込める。
フローさえ構築できれば、あとは事務的に処理するだけだ。
「黒川さん、聞こえますか」
「はい、佐藤様。何か打開策が見つかりましたか?」
「ええ。少し無茶をしますが、重機の遠隔操作をお願いできますか? 私の合図で、アームを最大出力で振り回してください」
「お安い御用です! 請求書には特別操作手当を上乗せしておきますよ!」
通信越しに聞こえる黒川の頼もしい声に、俺は短く礼を言った。
「よし……行くぞ」
俺は基準書を用箋挟みに挟み直し、重機の陰から飛び出した。
大ボスの右中段腕が、大きく振りかぶられる。
「今だ! 黒川さん!」
俺の叫びと同時に、重機の双腕が唸りを上げて動き出した。
巨大な鉄の爪が、大ボスの右腕に下からカチ上げるように激突する。
「ギャァァァッ!」
大ボスの姿勢が大きく崩れた。
基準書の記述通り、右腕の攻撃が阻害されたことで、奴の動きに明確な硬直が生まれた。
「二・五秒……!」
俺は頭の中でカウントダウンをしながら、大ボスの左側面へと回り込んだ。
そこには、瘴気が薄れ、無防備になった分厚い皮膚が露出している。
ここなら、概念付与が通るかもしれない。
俺は再びラベルプリンターを構え、新しいシールを印字した。
次の刹那。
「……なんだ?」
俺がシールを貼り付けようと手を伸ばした矢先、大ボスの周囲の空気が、不自然に歪み始めた。
硬直しているはずの巨躯が、内側から膨張するように脈打っている。
『項番四-四:対象が未知の予備動作に入った場合——』
基準書の続きを思い出す。
そこには、明確な対処法が書かれていなかった。ただ一言、『直ちに退避せよ』とだけ記されていたのだ。
大ボスの六本の腕が、不気味な角度でねじれ上がる。
そして、周囲の空間そのものを引き裂くような、甲高い異音が鳴り響いた。
マニュアルに記載されていない、未知の攻撃。
俺はラベルを握りしめたまま、歪みゆく空間の中で息を呑んだ。




