第10話
大ボスの六本の腕が、不気味な角度でねじれ上がる。
そして、周囲の空間そのものを引き裂くような、甲高い異音が鳴り響いた。
マニュアルに記載されていない、未知の攻撃。
俺はラベルを握りしめたまま、歪みゆく空間の中で息を呑んだ。
空間の歪みは、大ボスの周囲だけにとどまらなかった。
屋上のコンクリート床に走った無数の亀裂から、どす黒い靄が噴き出す。それは瞬く間に実体を結び、異形の姿へと変わっていった。
鋼鉄のような毛並みを持つ巨大な猿。
両腕が鋭い鎌のようになっている四足歩行の獣。
どれもこれも、以前中層で遭遇した厄介な個体に匹敵する威圧感を放っている。それが十、二十と、次々に屋上へ召喚されていく。
「増援の呼び出し……いや、一斉発注かよ」
俺は印字機を持った手を下ろし、思わず悪態をついた。
大ボスは六本の腕をだらりと下げたまま、俺を嘲笑うかのように見下ろしている。奴自身が動く気配はない。代わりに、召喚された取り巻きたちが一斉に咆哮を上げた。
だが、奴らの狙いは俺ではなかった。
大ボスが顎をしゃくるような仕草を見せると、取り巻きの群れは一斉に向きを変えた。その視線の先にあるのは、屋上から下の階へと続く非常階段の入り口だ。
「させないぞ。社内への無断立ち入りは、総務の管轄だ」
俺は腰の無線機を掴みながら、傍らに控える大型重機へ指示を飛ばした。
遠隔操作で繋がっている黒川社長の操縦技術を信じ、重機のアームを階段前へと旋回させる。分厚い鉄の爪が、先頭を走っていた巨大猿の胴体を薙ぎ払った。
鈍い衝突音が響き、猿が吹き飛ぶ。
しかし、群れの勢いは止まらない。倒れた仲間の上を越え、鎌を持つ獣たちが次々と階段の入り口へ殺到していく。
「くそっ、数が多すぎる!」
重機の振り下ろす一撃は強力だが、手数が圧倒的に足りない。
俺はバインダーに挟んだ安全基準書をめくり、広範囲を制圧できる手段を探した。だが、この状況を打開する都合の良い項目など、どこにも見当たらない。
大ボスは、俺が重機に気を取られている隙を逃さなかった。
歪んだ空間から生み出された見えない衝撃波が、俺の足元を抉る。咄嗟に横へ跳んで回避したが、スーツの裾が大きく裂け、コンクリートの破片が頬を掠めた。
「俺を足止めして、下を壊滅させる気か……!」
もし奴らが下の階へなだれ込めば、どうなるか。
現在、社内には避難し遅れた社員や、救護所で手当てを受けている者たちがいる。あんな化け物の群れがオフィスに侵入すれば、大惨事は免れない。
それはつまり、取り返しのつかない規模の労災事故を意味する。
遺族への謝罪、警察や労働基準監督署の調査、膨大な事後処理。そして何より、同僚たちの命が失われるという最悪の結末。
「ふざけるな。そんな残業、絶対に断る」
俺は無線機のスイッチを押し込み、怒鳴るように声を張り上げた。
「白石! 青井! 聞こえるか! 敵の群れがそっちに向かっている! 数は十以上、どれも中層クラスだ!」
ノイズ混じりのスピーカーから、すぐに返事があった。
『はい、佐藤先輩! こちらも足音で気づいてます!』
白石の明るい声が、緊迫した空気を少しだけ和らげる。
「絶対に無理はするな! 防火扉を閉めて、安全な場所まで退避しろ!」
『それが、防火扉のシャッターが歪んでて、完全に閉まらないんです。でも大丈夫ですよ、総務の意地、見せてやりますから!』
「おい、白石! 何をする気だ!」
俺の呼びかけに対し、無線はプツリと切れてしまった。
階段へ向かうモンスターの群れは、すでに数体が入り口を突破している。俺は重機を盾にしながら、大ボスの牽制を掻い潜り、どうにかして下へ向かうルートを確保しようと駆け出した。
◆ーーーー◆
三階と四階の間にある、非常階段の踊り場。
わたしは額の汗を手の甲で拭いながら、目の前に積み上げられた巨大な壁を見上げた。
「よし、これで第一防衛ラインは完成ですね!」
「し、白石さん……本当にこれで防げるんでしょうか……」
隣で震える声を出したのは、ダンジョン事業部から異動してきたばかりの青井だった。
彼はサイズの合っていない真新しい防具を着込み、両手には分厚い決算書のファイルを盾のように構えている。その膝は、生まれたての子鹿のようにガクガクと震えていた。
「大丈夫ですよ。総務の備品を甘く見ちゃいけません」
わたしは胸を張って答えた。
踊り場を塞ぐように構築された即席のバリケード。
その土台となっているのは、廃棄予定だった旧型の大型コピー機だ。その上にスチール製のキャビネットを横倒しにして重ね、隙間には過去五年分の稟議書が詰まった段ボール箱をぎっしりと詰め込んでいる。
さらに、キャビネットの引き出しを抜き取り、階段の上へ向けてトゲのように配置した。
物理的な重量と、社内の歴史が詰まった書類の壁。これぞまさに、総務課が誇る鉄壁の要塞である。
「佐藤先輩が上で頑張ってるんですから、わたしたちもここで食い止めないと。下には怪我をした人たちもいるんですからね」
「そ、そうですよね。僕も、先輩に助けてもらった命ですから……逃げるわけにはいきません」
青井は決算書を握る手に力を込め、大きく深呼吸をした。
気弱でオドオドしているけれど、彼は根が真面目で優しい。上司の無茶な指示に振り回されてばかりだった彼が、今は自分の意志でここに立っている。
その時、階段の上から地響きのような足音が聞こえてきた。
コンクリートを削る鋭い爪の音。そして、獣たちの飢えた唸り声。
空気が急に冷たくなり、鼻を突くような獣臭が漂ってくる。
「来ますよ、青井くん。備品台帳の準備はいいですか?」
「は、はい! いつでもいけます!」
青井は決算書の裏に隠し持っていた、予備の印字機を取り出した。
佐藤先輩が使っているものと同じ、備品番号を打ち出すための機械だ。わたしたちは戦闘スキルなんて持っていない。でも、総務としての仕事ならできる。
階段の角を曲がり、最初の影が姿を現した。
両腕が鎌のようになっている、四足歩行の不気味な獣だ。
血走った目がわたしたちを捉え、口から粘ついた唾液を垂らしながら跳躍する。
「いっけええええ!」
わたしは手元にあった消火器のピンを抜き、レバーを強く握りしめた。
真っ白な粉末が勢いよく噴射され、獣の顔面を直撃する。
「ギャァァァッ!」
視界を奪われた獣は空中でバランスを崩し、バリケードの要である大型コピー機に激突した。
ドスン、という重い音が響く。
「今です、青井くん!」
「はいっ!」
青井が身を乗り出し、コピー機の上でもがく獣の額に、素早くシールを貼り付けた。
『備品番号:臨-001』
その文字が定着した瞬間、獣の動きがピタリと止まった。
まるで電源を切られた機械のように硬直し、そのまま重力に従って階段を転げ落ちていく。
「やりました! 備品化、成功です!」
青井が嬉しそうに声を上げる。
だが、喜んでいる暇はなかった。
倒れた獣の後ろから、今度は鋼鉄の毛並みを持つ巨大な猿が二体、同時に姿を現したのだ。
猿たちは仲間の屍を蹴り飛ばし、怒りの咆哮を上げながらバリケードへと突進してくる。
その圧倒的な質量が、スチールキャビネットに激突した。
ガァァンッ!
鼓膜を破るような金属音と共に、バリケード全体が大きく揺れた。
積み上げられた段ボール箱が崩れ落ち、中から古い稟議書が紙吹雪のように舞い散る。
「きゃっ!」
わたしはバランスを崩し、床に手をついた。
青井も決算書を盾にして身を屈めている。
「白石さん! キャビネットが……!」
青井の悲鳴に近い声を聞き、わたしは顔を上げた。
巨大猿の太い腕が、キャビネットの鋼鉄をベコベコに凹ませている。奴らは力任せに障害物をどかそうと、さらに体重をかけて押し込んできた。
ギギギギ……ッ!
嫌な軋み音が、踊り場に響き渡る。
コピー機のキャスターが床を削り、少しずつ、確実にバリケードが後退し始めていた。
「くっ……総務の壁は、こんなにヤワじゃないんだから……!」
わたしは立ち上がり、崩れかけた段ボールの山を背中で押し返した。
青井も慌てて駆け寄り、一緒にキャビネットを支える。
だが、相手は中層クラスのモンスターだ。
人間の力で押し留められるような相手ではない。
猿の鋭い爪がキャビネットの隙間から突き出され、わたしのカーディガンの袖を掠めた。
「ひっ……」
恐怖で足がすくむ。
突破されるのは、もう時間の問題だった。
この壁が崩れれば、わたしたちは一溜まりもない。そして、下の階にいる人たちも。
それでも、逃げるという選択肢はなかった。
「青井くん、印字機の設定を『一括処理』に変更して!」
「えっ!? で、でも、それだとエラーが出る確率が……」
「構いません! 隙間から手を出してきた瞬間に、まとめて備品登録してやります!」
わたしは震える膝に力を込め、目の前の巨大な壁を睨みつけた。
軋む金属音。獣の荒い息遣い。
絶体絶命の状況。
だけど、わたしたちの目には、まだ抗う意志が宿っている。
佐藤先輩が上で命懸けで戦っているのだ。後輩であるわたしたちが、ここで諦めるわけにはいかない。
「来なさい、不良在庫ども……! 総務の恐ろしさを、たっぷり味わわせてあげる!」
軋み続けるバリケードの向こう側で、巨大猿が最後の一撃を振り上げる気配がした。
わたしたちは息を呑み、その瞬間を待ち構えた。
迫り来る崩壊の足音を前に、総務課の意地を懸けた防衛戦は、いよいよ最大の山場を迎えようとしていた。




