第11話
軋み続けるバリケードの向こう側で、巨大猿が最後の一撃を振り上げる気配がした。
わたしたちは息を呑み、その直後を待ち構えた。
「青井さん、紐をしっかり握っていてください。タイミングはわたしが指示します」
「わ、わかりました。でも、本当にこれで止まるんでしょうか……」
「止めるんです。総務の仕事で起きたトラブルは、総務が責任を持って処理する。それが先輩の教えですから」
わたしは震える膝を必死に押さえつけながら、目の前のひしゃげたキャビネットを睨みつけた。
直接利益を生まない部署だと馬鹿にされても、会社を裏から支えているのはわたしたちなのだ。
轟音と共に、スチール製の扉が完全に吹き飛び、太い毛むくじゃらの腕が突き破ってくる。
金属が引き裂かれる甲高い音が非常階段に響き渡り、獣の生臭い息がわたしの頬を撫でた。
「今です、青井さん!」
「はいっ!」
青井さんが手元の紐を力強く引いた。
あらかじめバリケードの隙間に仕掛けておいた、使用済みトナーカートリッジの束。先週業者に引き取ってもらうはずだったのに、他部署の書類提出が遅れたせいで残っていた不良在庫だ。
紐に連動してストッパーが外れ、カートリッジが一斉に破裂した。
真っ黒な粉塵が踊り場に充満し、視界が完全に奪われる。
肺に吸い込めばむせるような化学物質の臭いが鼻を突いた。
「グガァッ!?」
目と鼻の粘膜を強烈な微粒子で焼かれ、巨大猿が顔を押さえてのけぞる。
「まだまだ! 足元に注意してくださいよ!」
奴らが後ずさった足元には、廃棄予定だったシュレッダーの交換刃を大量にばら撒いてある。刃の交換は重労働で、指を切らないように軍手必須の危険な作業だ。
その鋭い金属片を無防備に踏み抜いた猿たちは、たまらず悲鳴を上げて体勢を崩した。
「いけます! 印字機、一括処理モード起動!」
わたしは手元の機械を構え、黒煙の向こうで身悶えする影に向けてトリガーを引いた。
連続射出される登録コードのシールが、次々と猿たちの額や胸に貼り付いていく。
『登録コード:総-045』『登録コード:総-046』
ピピピッという無機質な電子音と共に、暴れ狂っていたモンスターたちが次々と石像のように硬直していく。
まるで時間が止まったかのような静寂が訪れた。
「や、やりました……!」
青井さんがへたり込みながら歓声を上げた。
わたしも安堵の息を吐き、煤だらけの顔で笑い合う。
総務の意地、見せてやりましたよ、佐藤先輩。
◆ーーーー◆
「こちら臨時救護所。パニックを起こした社員のトリアージは完了しました。負傷者はゼロです」
インカムから聞こえてきた冷静な声に、俺は重機の陰で深く息を吐き出した。
「緑川先生、ありがとうございます。下の階に降りた取り巻きはどうなりましたか」
「総務の二人が見事に撃退したようです。廃棄トナーとシュレッダーの刃で足止めし、すべて備品化して機能停止させたと報告がありました」
「あいつら……無茶しやがって」
呆れつつも、口元が緩むのを止められなかった。
後輩たちが体を張って防衛ラインを死守してくれたのだ。これで俺は、背後を気にすることなく目の前の厄介な仕事に専念できる。
「先生、引き続き社員の安全確保をお願いします。営業部の連中が勝手に動き出さないように、しっかり見張っていてください」
「ええ、わかっています。先ほども『俺たちのプロジェクトのデータが!』と騒いでいる者がいましたが、鎮静剤の注射器をちらつかせたら大人しくなりました。命あっての物種ですからね」
「さすが先生、頼りになります」
冗談とも本気ともつかない緑川先生の言葉に、俺は苦笑した。
「あなたは屋上の制圧に集中しなさい。私の目の前で、労災なんて一件も出させませんからね」
「了解しました。定時までに終わらせてみせます」
通信が切れ、俺は改めて屋上の惨状を見渡した。
先ほどまで群がっていた取り巻きは消えたが、中央には未だに規格外の巨体を誇る大ボスが鎮座している。
四つん這いの獣のような骨格に、無数の刃を纏った異形の姿。
奴の周囲だけ、空気が重く淀んでいるように感じられた。
大ボスの吐き出す瘴気が、屋上の空調室外機をじわじわと腐食させているのが見える。
金属の表面が泡立ち、茶色く変色していく。
「修繕費がいくらかかると思ってるんだ……経理の高梨がまた頭を抱えるぞ」
俺は手元の端末を操作し、リースした重機のアームを動かした。
操縦席のレバーを握る手に汗が滲む。二本のアームを同時に動かすのは骨が折れるが、備品管理の延長だと思えばなんとかなる。要は、巨大な荷物を所定の位置に移動させるだけだ。
巨大な鉄の爪が、大ボスの側面に迫る。
奴は鬱陶しそうに身を捩り、刃のついた尾でアームを弾き飛ばそうとした。
だが、重機のパワーは伊達ではない。金属同士が激しくぶつかり合う甲高い音が響き、大ボスの巨体がわずかに横へと流れる。
「よし、体勢が崩れた!」
俺はすかさず懐から手元の機械を取り出し、登録コードのシールを射出しようと構えた。
だが、大ボスはただの獣ではなかった。
体勢を崩されながらも、奴の赤い眼光が俺ではなく、足元の床——つまり、自社ビルの最上階の天井へと向けられたのだ。
「グルルルォォォッ!」
怒りに満ちた咆哮と共に、大ボスは前足を高く振り上げた。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
安全規定には、モンスターが建物の構造自体を破壊するような行動パターンは記載されていない。
「おい、まさか……!」
ドゴォォォンッ!!
凄まじい衝撃音が屋上を揺らした。
まるで地震が起きたかのように足元がぐらつき、俺は思わず重機の操縦席で姿勢を低くした。
大ボスの前足が、コンクリートの床を容赦なく粉砕する。
ひび割れが蜘蛛の巣のように広がり、防水シートが引き裂かれた。
「やめろ! そこを壊されたら下の階が!」
俺の叫びも虚しく、大ボスはさらに追撃を加える。
二度、三度と叩きつけられる重い一撃。
その度に、足元から嫌な軋み音が響き渡る。
会社の決まりでは、屋上の耐荷重はそれなりにあるはずだが、規格外のモンスターによる直接的な破壊行動を想定しているわけがない。
「グォォォォッ!」
大ボスが苛立ちを込めて四度目の打撃を振り下ろした。
バキィィィッ!
ついに、コンクリートの床が限界を迎えた。
直径数メートルにわたって床が陥没し、パラパラと瓦礫が下の階へと落ちていくのが見える。
剥き出しになった鉄筋がひしゃげ、無惨な姿を晒している。
「冗談じゃないぞ……!」
ぽっかりと開いた巨大な穴の向こうには、見慣れた最上階のオフィスが見えた。
あそこは確か、第一会議室の真上だ。
役員会議で使うための特注のデスクやパソコンが瓦礫に埋もれ、高価なプロジェクターが粉々に砕け散っているのが見える。天井の蛍光灯がぶら下がり、火花を散らしていた。
「また稟議書を書き直さなきゃならないじゃないか!」
幸い、緑川先生の指示で社員はすでに下の階へ避難しているはずだが、このまま穴が広がれば、大ボスが直接社内へ侵入してしまう。
もしそんなことになれば、会社は完全に倒壊し、取り返しのつかない大惨事になる。
労災どころの騒ぎではない。
「どうする……このままじゃ、会社ごと潰される」
大ボスは開いた穴を覗き込み、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべたように見えた。
奴は自らの巨体を穴にねじ込もうと、さらに周囲のコンクリートを削り始めている。
崩落していく床。
迫り来る社内への直接侵入。
俺は手元の書類板を強く握りしめ、必死に解決策を探った。
この巨大な穴を、どうやって塞げばいい?
重機のアームで押さえつけるか? いや、それでは耐えきれない。
手持ちの備品で塞げるサイズでもない。
特別稟議で何か巨大な防壁を召喚するか? だが、社長や経理の承認プロセスを待っている時間はない。稟議書を回している間に、会社が物理的に消滅してしまう。
崩れ落ちる瓦礫の音を聞きながら、俺は絶望的な状況の中で、次なる一手を必死に思考し続けていた。




