第8話
階段の奥からは、これまでの比ではないほどの、濃密で圧倒的なプレッシャーが放たれている。
ただ立っているだけで、肌が粟立つような感覚。
間違いなく、このダンジョンの最深部。すべての元凶がそこにいる。
重機から降りて階段に足を踏み入れたのは、つい先ほどのことだ。一段ずつ登りながら、手元の書類挟みをしっかりと抱え直した俺は、直前のやり取りを反芻していた。
「分かっています。ここからは、俺自身の足で行きます」
通信機を切り、俺はここまで運んでくれた重機の装甲を軽く叩いた。先ほど高梨に宣言した通り、きっちりと精算を済ませて定時退社を勝ち取るためには、一秒の無駄も許されない。大きく深呼吸をして肺に冷たい空気を満たすと、淀んだ瘴気が渦巻く階段口へと迷いなく足を踏み出した。
屋上へ続く最後の階段は、ひんやりとしたコンクリートの冷気を帯びていた。
一段登るごとに、空気が粘り気を増していくように感じる。呼吸をするだけで肺が重くなり、肌を刺すような瘴気がスーツの生地越しにじわじわと浸透してくるようだった。
非常灯の薄暗い緑色の光だけが、足元を頼りなく照らしている。
静寂の中、俺の革靴がコンクリートを叩く音だけが響く。
いや、それだけではない。
微かに、誰かの荒い息遣いと、歯の根が合わずにカチカチと鳴る音が聞こえてきた。
階段を半ばまで登りきったところにある、少し広い踊り場。
そこの薄暗い隅に、二つの影がうずくまっていた。
「……ひっ、あ、ああ……」
泥と埃にまみれ、見る影もなく汚れた高級なオーダーメイドスーツ。
一人は壁に背を預け、両膝を抱え込んでガタガタと震えている。もう一人は床に這いつくばり、頭を抱えてうわ言のように何かを呟いていた。
ダンジョン事業部のトップとして意気揚々と乗り込んでいったエリートたち。
赤城部長と、灰島副部長だった。
俺の足音に気づいたのか、床に這いつくばっていた灰島副部長がビクッと肩を跳ねさせた。
ゆっくりと顔を上げた彼の表情は、恐怖と絶望で完全に歪んでいた。神経質そうに押し上げていた眼鏡はひび割れ、鼻水と涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
「さ、佐藤……?」
俺の姿を認めた瞬間、灰島副部長は信じられないものを見るように目を丸くした。
そして次の瞬間、プライドも何もかも投げ捨てたように、這いずりながら俺の足元にすがりついてきた。
「た、助けてくれ! 死にたくない、私はまだ死にたくないんだ!」
必死に俺のズボンの裾を掴む手は、小刻みに震えている。
データ至上主義を掲げ、安全管理を「机上の空論」と切り捨てていた彼の面影は、そこには微塵もなかった。本物のスタンピードという規格外の暴力に直面し、完全に心が折れてしまったのだろう。
彼らがどれほど無謀なスケジュールを組み、現場の泥臭い実務を軽視していたか。そのツケが、この無惨な姿となって表れていた。
俺は小さく息を吐き、視線をもう一人の方へ向けた。
壁に寄りかかっている赤城部長は、俺の姿を見ても動こうとしなかった。
常に自信に満ちた笑みを浮かべていた顔は青ざめ、目は虚ろに宙を彷徨っている。野心もエリートとしての矜持も、圧倒的な恐怖の前に粉々に砕け散ったらしい。
結果を出すためなら手段を選ばず、俺の忠告を「臆病者の言い訳」と切り捨てた男の末路としては、あまりにも惨めだった。
「……赤城部長、灰島副部長」
俺は静かに呼びかけた。
彼らを嘲笑う気も、見下す気も起きなかった。
かつて彼らは、総務である俺を「直接利益を生まない部署」と揶揄し、安全管理を無視して無謀な突入を強行した。その結果がこの惨状だ。
だが、ここで彼らに説教をしたところで何の意味もない。
俺にとって最も重要なのは、彼らがここで命を落とすこと——つまり、重大な労災事故を防ぐことだ。
もしここで死人が出れば、遺族への対応、労働基準監督署の調査、膨大な事後処理に追われ、俺の平穏な日常は永遠に失われる。それだけは絶対に避けなければならない。
感情的なしこりなど、業務の遂行においてはノイズでしかない。
俺は手元のクリップボードに挟んだ避難経路図を確認し、極めて事務的なトーンで口を開いた。
「お二人とも、落ち着いてください。ここから下の階層は、すでに安全が確保されています」
俺の言葉に、灰島副部長がすがりつく手に力を込めた。
「ほ、本当か!? 下に行けば助かるのか!?」
「はい。壁沿いに進み、三階の会議室へ向かってください。そこを臨時の救護所として設営してあります。産業医の緑川先生が待機しており、解毒剤と応急処置の準備が整っています」
俺は灰島副部長の手を優しく、しかし確かな力で引き剥がし、彼を立たせた。
「自力で歩けますか?」
「あ、ああ……歩ける、歩けるとも……」
灰島副部長は何度も頷き、ふらつく足取りで立ち上がった。
俺は壁際の赤城部長にも向き直る。
「赤城部長。お怪我がないなら、速やかに退避を。ここは危険です」
赤城部長はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと俺を見上げた。
その目には、かつての見下すような色はなく、ただ圧倒的な無力感と、俺に対する得体の知れない畏怖のようなものが混じっていた。
彼は乾いた唇を震わせ、何かを言おうとしたが、結局言葉にはならなかった。ただ、力なく一度だけ頷き、壁伝いに立ち上がる。
「ルート上のモンスターは処理済みですが、念のため周囲を警戒しながら降りてください。では、お気をつけて」
俺は深く一礼し、彼らに背を向けた。
背後から、逃げるように階段を駆け下りていく二人の足音が遠ざかっていく。
これで、最大の懸念だった労災の火種は取り除かれた。あとは、元凶を処理するだけだ。
俺は再び階段を登り始めた。
足取りは軽くはないが、迷いはなかった。
バックアップ陣の奮闘のおかげで、ここまで辿り着くことができた。経理の高梨がリアルタイムで換金処理を進めてくれているおかげで、会社の経費という名の弾薬は十分に装填されている。
俺一人で戦っているわけではない。会社という組織の歯車が、今は完璧に噛み合って回っているのだ。
やがて、階段の突き当たりが見えてきた。
屋上へと続く、重厚な鉄扉。
普段なら、定期点検の時にしか開けることのないその扉の隙間から、建物全体を揺るがすような地響きと、濃密な瘴気が漏れ出している。
扉の前に立ち、俺はクリップボードを小脇に抱え直した。
ポケットから日常業務用のアイテム——備品管理ラベルを出力するラベルプリンターを取り出し、しっかりと握りしめる。
「さて、定時退社に向けた最後の残業といくか」
俺は冷たい鉄のハンドルを押し下げた。
ギギギ……と、錆びた蝶番が嫌な音を立てる。
開け放たれた扉の先。
本来なら空調設備や貯水槽が並んでいるはずの屋上は、異様な空間に変貌していた。
空はどす黒い雲に覆われ、渦を巻くように瘴気が立ち込めている。
そして、その中央。
自社ビルの屋上という限られたスペースを埋め尽くさんばかりの、巨大な影がそびえ立っていた。
全身から絶望的なプレッシャーを放つ、規格外の大ボス。
その威圧感は、これまで処理してきたどのモンスターとも比較にならない。ただそこに存在するだけで、空間そのものが軋みを上げているように感じられた。
見上げるほどの巨躯は、まるで神話に登場する魔獣のようだ。
だが、俺の心は不思議と落ち着いていた。
どれほど巨大で恐ろしい存在であろうと、ここは会社の敷地内だ。
ルールを乱す不法侵入者は、総務の権限において適切に処理する。
俺はヨレたスーツの襟を正し、ラベルプリンターの電源を入れた。
小さな電子音が鳴り、準備完了のランプが緑色に点灯する。
「さあ、業務開始だ」
圧倒的なプレッシャーを放つ大ボスを見据え、俺は屋上のコンクリートに力強く足を踏み出した。




