↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/20

第7話

赤い瘴気がオフィスを埋め尽くしていく中、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。

この異常な活性化が引き起こす現象とは、一体何なのか。

確かなのは、俺の平穏な日常が、かつてない危機に瀕しているということだけだった。


「ゴホッ……なんだこれ、息が……」


買取業者の金子がむせ返り、カーペットの上に膝をついた。マッハ建機の黒川も、顔をしかめて口元を覆っている。

俺はすぐさま重機のキャノピーを密閉し、空調を内気循環に切り替えた。だが、オフィスに取り残された彼らや、別フロアにいる社員たちは無防備だ。

窓際の観葉植物が、瘴気に触れた端から変色し、パラパラと葉を落としていく。デスク上のパソコンのモニターは不規則に明滅し、電子機器にまで影響を及ぼしているのが分かった。


「まずい、このままじゃ全員が労災認定どころか、命に関わるぞ」


操縦席のモニター越しに、急速に視界が赤く染まっていくのを確認する。ダンジョン由来の有毒ガスだとしたら、一般的なオフィスの換気システムでは到底太刀打ちできない。

焦りが胃の奥を冷たく撫でたとき、エレベーターホールの方から、ガラガラと車輪の鳴る音が響いてきた。


「慌てないで。浅く呼吸をして、これを装着しなさい」


白衣姿の女性が、医療用の大型ワゴンを押して現れた。ミナト商事の産業医、緑川薫だ。

彼女はタイトなスーツの上に羽織った白衣を翻し、ワゴンに積まれた防毒マスクを次々と周囲の人間へ投げ渡していく。


「緑川先生! 避難していなかったんですか!」


外部スピーカーを通して叫ぶと、緑川は鋭い眼差しをこちらに向けた。


「社員の健康と安全を守るのが私の仕事よ。こんな得体の知れないガスで集団労災なんて起こされたら、事後処理で私が過労死してしまうわ」


淡々とした口調のまま、緑川は注射器を取り出した。瘴気を吸い込んでうずくまっている金子の腕に、手際よく解毒剤を打ち込んでいく。彼女の動きに迷いはなく、まるで毎年のインフルエンザ予防接種でも行っているかのような手際の良さだった。

薬効が回ったのか、金子の呼吸が次第に落ち着きを取り戻していく。


「佐藤、あなたは前線に集中しなさい。後方の安全確保と初期治療は私が引き受けるわ。会社の敷地内で健康被害など、絶対に許しません」


「……了解しました。頼みます」


緑川の言葉に、俺は深く頷いた。

後方の安全は確保された。なら、俺がやるべきことは一つだ。

この異常事態の元凶を絶つこと。


重機の操縦桿を握り直し、屋上へ続く階段の方向へ機体を向ける。

だが、赤い瘴気が渦巻く空間から、新たな影が次々と這い出してきた。

先ほどの巨大獣の断末魔が、ダンジョン内の生態系を完全に狂わせたらしい。狼のような四つ足の獣や、硬い甲殻を持った虫型のモンスターが、オフィスのデスクを薙ぎ倒しながら押し寄せてくる。


「次から次へと……キリがないな」


俺は重機のアームを振り回し、備品登録のラベルを連続で射出する。


『登録番号:総-104』

『登録番号:総-105』


空を飛ぶように射出されたラベルが、迫り来るモンスターたちの額や甲殻にペタリと貼り付く。

直後、対象は「会社の所有物」として強制的にシステムへ登録され、ピタリと動きを止めた。石像のように固まったモンスターたちは、次々と光の粒子となって崩れ落ち、後には換金用の青い石だけが残される。


だが、問題があった。

重機のコンソールに表示されたエネルギー残量と、ラベル射出機構の弾薬ゲージが、危険な速度で減少していたのだ。

いくら強力な防衛設備でも、稼働には莫大なコストがかかる。このままでは、屋上に辿り着く前にガス欠で立ち往生してしまう。


「くそっ、このペースで処理し続けたら、予算が底をつくぞ」


「弱音を吐かないでください、あなたらしくもない」


通信機から、ノイズ混じりの鋭い声が飛んできた。経理の高梨結衣だ。


「高梨さん! 経理部も下の階へ避難したんじゃ……」


「今、私がキーボードから手を離したら、誰がその重機の追加リース代を払うんですか?」


通信越しの背景からは、猛烈な勢いでキーボードを叩く打鍵音が響いている。彼女は経理部のデスクに残り、一人でシステムと格闘しているのだ。


「あなたが倒したモンスターの素材は、私がこの場でリアルタイム換金しています。防衛設備の稼働資金は、一円たりとも途切れさせません」


「しかし、この数の処理を一人でやるなんて無茶だ!」


「だいたい合ってる、なんて甘い仕事はしません。一円のズレも許さない正確な経理で、会社の利益を守り抜きます。だからあなたは、目の前の不良在庫を一掃することだけを考えてください」


高梨の語気は強かった。その声には、自分が帳簿をつけてきた会社を絶対に守り抜くという、強烈な自負が込められている。

彼女の言葉に、俺は胃の奥が熱くなるのを感じた。

経理と産業医。バックアップ陣がこれほどまでに奮闘しているのだ。

直接利益を生まない部署だと見下されてきた総務が、ここで引くわけにはいかない。


「……分かりました。経費の適正な使用、お約束します」


俺は重機のスロットルを全開にした。

高梨が換金した資金が即座にシステムに反映され、重機のエネルギーゲージが急速に回復していく。弾薬の補充サインも緑色に点灯した。


「よし、これなら行ける!」


次々と湧き出すモンスターの群れを、俺はひたすら事務的に処理していく。

備品化のラベルを貼り付け、機能を停止させ、高梨が換金する。

その完璧なサイクルが、瘴気で満たされたオフィスに確かな道を切り開いていく。

重機の駆動音がフロアに響き渡り、青い石が次々と床に転がっては光となって消えていく。経理システムの処理速度と、俺の備品登録の速度が完全に同期していた。


やがて、重機の前に立ちはだかるモンスターの姿が途絶えた。

瘴気の濃度は依然として高いが、発生源へのルートは完全に確保できたようだ。

俺は重機を停止させ、キャノピーを開けた。


「佐藤、ここから先は重機が入れないわ」


緑川が防毒マスク越しに声をかけてくる。

彼女の言う通り、屋上へ続く最後の階段は狭く、重機の巨体では到底通れない。ここから先は、生身で進むしかない。


「分かっています。ここからは、俺自身の足で行きます」


俺は手元の書類挟みをしっかりと抱え直し、重機から降りた。

階段の奥からは、これまでの比ではないほどの、濃密で圧倒的なプレッシャーが放たれている。

ただ立っているだけで、肌が粟立つような感覚。

間違いなく、このダンジョンの最深部。すべての元凶がそこにいる。


「あなた」


通信機から、高梨の少しトーンの落ちた声が聞こえた。


「……必ず、領収書を持って帰ってきてくださいね。未精算のままなんて、絶対に許しませんから」


「ええ。きっちり精算して、定時で帰りますよ」


俺は深く息を吸い込み、ヨレたスーツの襟を正した。

そして、緩んでいたネクタイをギリッと締め直す。


屋上には一体何が待ち受けているのか。

確かな前進の手応えはある。バックアップ陣の奮闘のおかげで、ここまで辿り着くことができた。

だが、まだ何も終わっていない。本当の仕事は、この階段を登り切った先にある。

俺は静かな決意とともに、屋上へ続く最後の階段に足を踏み出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。