第6話
階段の踊り場を埋め尽くすほどの巨体が、ゆっくりと姿を現した。
天井の蛍光灯をへし折りながら進んでくるのは、二足歩行の巨大な獣だった。全身を覆う黒い体毛は鋼線のように太く、鋭い牙の隙間からは紫色の粘液が滴り落ちている。
以前、営業部の連中が中層で遭遇したというボス個体よりも、さらに一回り以上でかい。
「……冗談じゃないぞ」
俺は乾いた唇を舐め、ラベルプリンターのカートリッジ残量を確認した。
こんな規格外のバケモノを相手に、手元の事務用品だけで立ち向かうのは無謀すぎる。安全ガイドラインの第一項には『自身の手に負えない事態に直面した際は、速やかに適切な設備を導入すること』と明記されている。
「桃子、青井。君たちはさらに後ろへ下がれ。防火扉の向こうまでだ」
「先輩はどうするんですか!?」
「俺は総務の仕事をするだけだ。備品の受け入れ準備がある」
後輩たちを避難させると同時、背後のエレベーターホールからけたたましい駆動音が響き渡った。
到着を知らせる電子音とともに、貨物用エレベーターの巨大な扉が左右に開く。
「お待たせしました、お客さん! マッハ建機、特急便でお届けに上がりましたよ!」
土埃とオイルの匂いを漂わせながら現れたのは、パリッとしたスーツにヘルメット姿の黒川鉄馬だった。
彼の背後には、エレベーターの積載限界ギリギリまで詰め込まれた、真新しい黄色の重機が鎮座している。キャタピラ駆動の多目的双腕作業機——通称『アスタコ』の最新モデルだ。
「遅いですよ、黒川さん。労災が起きたらどう責任を取ってくれるんですか」
「いやいや、ミナト商事の総務課からの特別発注ですからね。自社の総力を挙げて、アームの強化パーツまで追加で引っ張ってきたんですよ。最高の顧客をお待たせするわけにはいきませんから」
黒川はニヤリと笑い、手元のタブレットを操作して重機を前進させた。
キャタピラがオフィスのカーペットを無残に引き裂きながら進むが、今は原状回復費用を気にしている場合ではない。
「それで、動力源の件はどうなりました?」
俺が尋ねると、黒川の後ろから派手な柄シャツを着た男が顔を出した。
ダンジョン素材専門の買取業者、金子満だ。
「へっへっへ、あんたも人使いが荒いねえ。さっきの第一波で出た魔石、全部特急で換金して、指定のエネルギーパックに変換してきたぜ」
金子は台車に山積みされた銀色のケースを叩いた。
通常、ダンジョン内で重機を動かすには特殊な魔力燃料が必要になる。俺は金子に依頼し、先ほど処理したモンスターのドロップアイテムを即座に経費として計上、そのまま燃料代に充てたのだ。
「助かります、金子さん。これで稟議書の予算枠に収まります」
「あんたの商売の腕には恐れ入るよ。さあ、こいつを重機にぶち込んでくれ」
金子がエネルギーパックを重機の後部スロットに押し込むと、双腕作業機は低い唸り声を上げて起動した。
計器類が緑色に発光し、二本の巨大なアームが滑らかに持ち上がる。
「さあ、佐藤さん。あとはあなたの腕次第です。存分に暴れてください」
黒川が操縦席へのタラップを下ろす。
俺はクリップボードを小脇に抱え、操縦席へと飛び乗った。
シートベルトを締め、安全確認を徹底する。ヘルメットのあご紐を締め直した直後、階段の奥から巨大獣が咆哮を上げた。
ビリビリと窓ガラスが震え、天井からパラパラと石膏ボードの粉が落ちてくる。
獣は太い腕を振り上げ、バリケードごと俺たちを粉砕しようと突進してきた。
「やらせるかよ」
俺は操縦桿を握り込み、右のアームを前方に突き出した。
油圧の唸りとともに、鋼鉄の爪が獣の突進を真正面から受け止める。
凄まじい衝撃が操縦席を揺らし、キャタピラが床を削りながら後退した。
「パワーじゃ向こうが上か……!」
重機の出力計がレッドゾーンに振り切れる。
このまま力比べを続ければ、いずれアームがへし折られるのは明白だった。
だが、俺の目的は物理的な破壊ではない。
「黒川さん、左アームのオプションを展開!」
「了解しました! 特別仕様の『アレ』ですね!」
黒川の声がインカムから響く。
俺が左の操縦桿のスイッチを押し込むと、左アームの先端カバーがパカッと開き、中から巨大なロール状の紙が姿を現した。
それは、マッハ建機に特注で組み込ませた、超大型のラベルプリンター・ユニットだった。
「金子さん、経費の追加投入だ! 出力を最大に!」
「おうよ! 景気よく使ってくれや!」
金子が予備のエネルギーパックを次々と接続していく。
俺は操縦席のコンソールに備品台帳のデータを打ち込み、印字ボタンを叩きつけた。
『備品登録:総-002(大型廃棄予定物)』
ガチャン! という重々しい機械音とともに、左アームから幅一メートルほどの巨大な粘着ラベルが射出された。
俺は右アームで獣の動きを封じ込めたまま、左アームを振りかぶり、その巨大ラベルを獣の広い額に力任せに叩きつけた。
「これで、お前はうちの会社の所有物だ」
ペタリ、と間抜けな音を立ててラベルが貼り付く。
途端に、獣の巨体がビクンと跳ねた。
物理的な拘束ではない。会社のルールという絶対的な概念が、対象の機能を強制的に停止させるのだ。
「グォォォ……ッ!?」
獣の目から敵意が薄れ、代わりに困惑の色が浮かぶ。
全身の筋肉が硬直し、振り上げられた腕がピタリと空中で止まった。
「今だ!」
俺は両方のアームを全開にし、動けなくなった獣の巨体を掴み上げた。
そのまま旋回し、オフィスの分厚いコンクリート壁に向かって力一杯に叩きつける。
ズドォォォン!!
ビル全体が激しく揺れ、もうもうと粉塵が舞い上がった。
壁にめり込んだ獣は、備品化の効力と物理的な衝撃のダブルパンチを受け、完全に沈黙した。
「……ふう」
俺は操縦桿から手を離し、大きく息を吐き出した。
モニター越しに確認すると、獣の体は徐々に光の粒子となって崩れ始めている。
どうやら、無事に処理が完了したようだ。
「やりましたね、佐藤さん! 完璧な仕事ぶりです!」
黒川が下から拍手を送ってくる。
金子も満足げに頷きながら、ドロップアイテムの回収準備を始めていた。
「ええ、おかげさまで。これでようやく、定時に……」
俺がシートベルトを外そうとした、その時だった。
壁に縫い付けられ、消滅しかけていた獣の残骸から、突如として赤黒い光が漏れ出した。
それは光の粒子を逆流させるかのように収縮し、次の瞬間、鼓膜を破るような絶叫となって爆発した。
「ギィィィィィィィィヤァァァァァァァァッ!!!」
それは、断末魔の咆哮だった。
ただの鳴き声ではない。音波そのものが物理的な破壊力を持ち、オフィスの窓ガラスが一斉に砕け散る。
俺は慌てて耳を塞ぎ、操縦席に身を伏せた。
咆哮は数秒で収まったが、本当の異常はそこからだった。
足元から、不気味な地鳴りが響き始めたのだ。
ビルの構造が軋む音ではない。ダンジョンそのものが、獣の断末魔に呼応して脈動しているような感覚。
「おいおい、なんだこりゃ……」
金子が顔を引きつらせ、床を指差した。
カーペットの隙間から、見たこともない赤い瘴気が噴き出し始めている。
「佐藤さん、計器の数値がおかしいです! ダンジョン内の魔力濃度が、先ほどの数十倍に跳ね上がっています!」
黒川がタブレットを見つめながら叫ぶ。
俺は操縦席のモニターを睨みつけた。
屋上へと続く階段の奥。そこから、先ほどの巨大獣すら比較にならないほどの、圧倒的で濃密な気配が膨れ上がっていくのを感じた。
獣の咆哮は、ただの断末魔ではなかった。
それは、さらに奥底に眠る『何か』を呼び覚ますための、最悪の目覚まし時計だったのだ。
「……嘘だろ。まだ残業が続くっていうのか」
赤い瘴気がオフィスを埋め尽くしていく中、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
この異常な活性化が引き起こす現象とは、一体何なのか。
確かなのは、俺の平穏な日常が、かつてない危機に瀕しているということだけだった。




