第5話
廊下の奥から、悲鳴が上がった。
残業していた他部署の社員たちが、雪崩れ込んできた異形の群れを見てパニックに陥っている。
「落ち着け! 走ると転倒して怪我をするぞ!」
俺は腹の底から声を張り上げた。
パニックによる二次災害。それが一番恐ろしい。階段で将棋倒しにでもなれば、それこそ取り返しのつかない労災事故に発展する。
震えていた右手に力を込め、クリップボードを小脇に抱え直した。
左手には、使い慣れたラベルプリンターを構える。
先頭を走ってきたのは、緑色の肌をした人型の魔物だった。手には錆びた鉈のようなものを握っている。
それが三体、四体と連なり、オフィスのカーペットを泥だらけの足で踏み荒らしながら突進してくる。
「清掃業者の請求が跳ね上がるだろうが……!」
俺はラベルプリンターの出力ボタンを押し込んだ。
ジーッという小気味よい印字音とともに、裏面が粘着質になった白いテープが射出される。
『総務部管轄-001』
印字されたラベルが、空を切り裂いて先頭の魔物の額に貼り付いた。
その瞬間、振り上げられていた錆びた鉈がピタリと空中で停止する。魔物の濁った瞳から光が消え、まるで精巧な蝋人形のように硬直した。
「よし、次!」
俺は連続して出力ボタンを押し込む。
『総務部管轄-002』『総務部管轄-003』。
次々と射出されるラベルが、後続の魔物たちの胸や肩に吸い込まれるように貼り付いていく。
ドスン、ドスンと重い音を立てて、魔物たちが次々と床に転がった。
物理的なダメージを与えたわけではない。会社の所有物として強制的に台帳へ登録し、その機能を停止させたのだ。
だが、倒れた魔物を乗り越えて、さらに奥から新たな群れが押し寄せてくる。
狼のような姿をした獣型の魔物が、牙を剥き出しにして跳躍した。
「先輩、危ない!」
背後から声が響いた。
同時に、キャスター付きの巨大なホワイトボードが、俺の横を猛スピードで通り過ぎていく。
ガァン!
跳躍した獣型魔物の鼻先に、ホワイトボードが激突した。
キャンという情けない鳴き声を上げて、魔物が床に転がる。すかさず俺はラベルを撃ち込み、その動きを封じた。
振り返ると、後輩の白石桃子が、パーテーションの陰から顔を出していた。
ゆるふわなボブヘアを揺らしながら、なぜか少し楽しそうな表情を浮かべている。
「白石さん、なんでここにいる! 避難しろと言ったはずだぞ!」
「総務の留守番を任されてたじゃないですか。それに、先輩ひとりに残業を押し付けるわけにはいきませんよ」
桃子はそう言いながら、今度はパイプ椅子を両手に抱えて走ってきた。
「ほら、どんどん積みますよ! 備品ならいくらでもありますから!」
彼女は倒れた魔物たちの前に、パイプ椅子や折りたたみ机、さらには空になった段ボール箱を次々と積み上げ始めた。
即席のバリケードだ。
「おい、それは来月の会議で使うやつだぞ!」
「経費で買い直せばいいじゃないですか。命には代えられませんよ」
あっけらかんと言い放つ桃子に、俺は頭を抱えそうになった。
だが、彼女の言う通りだ。今は会社の資産を惜しんでいる場合ではない。
「わかった。手伝うから、キャビネットの中身を全部出して軽くしろ! 重いものを運ぶときは腰を落とせよ、ぎっくり腰になったら労災の手続きが面倒だからな!」
「はーい!」
俺たちは協力して、廊下の幅を塞ぐように備品を積み上げていった。
魔物たちの侵攻速度が、バリケードに阻まれてわずかに鈍る。その隙を突いて、俺はラベルプリンターで次々と備品化の処理を進めていった。
しかし、敵の数は一向に減る気配がない。
印字用のテープカートリッジが、早くも一本空になった。
「くそっ、弾切れか……!」
新しいカートリッジをポケットから取り出そうとしたとき、バリケードの隙間から、長い槍を持った魔物が突き出しを放ってきた。
「先輩!」
桃子の悲鳴。
俺が身をかわすより早く、横から飛び出してきた人影が、その槍の柄を分厚いファイルで叩き落とした。
「……っ、間に合って、よかったです!」
息を切らして立っていたのは、青井翔太だった。
サイズの合っていない真新しい防具を身にまとい、手にはなぜか分厚い過去の決算書を束ねたものを盾のように構えている。
「青井くん! なんで君まで……」
「僕も、総務課への異動願いを出した身ですから! 佐藤先輩の部下として、ここで逃げるわけにはいきません!」
普段はオドオドしている青井が、震える足を踏ん張りながら叫んだ。
その目には、かつてないほどの強い意志が宿っている。
「馬鹿野郎、お前はまだ正式に配属されたわけじゃない! 万が一怪我でもしたら、どこの部署の責任になると思ってるんだ!」
「その時は、僕の自己責任ということで処理してください! それより、早く次のテープを!」
青井の言葉に、俺は思わず口元を緩めた。
自己責任で処理できるほど、この会社の労務管理は甘くない。だが、その心意気は素直に嬉しかった。
「……わかった。青井くんは白石さんと一緒に、バリケードの補強を頼む。絶対に無理はするなよ」
「はい!」
青井が合流したことで、防衛ラインの構築が一気に加速した。
彼らは手分けして、コピー用紙の束やウォーターサーバーの予備ボトルなど、重量のある備品を次々と運んでは積み上げていく。
「青井くん、そのボトル重いから気をつけてね。落としたら床が水浸しになっちゃうから」
「わ、わかってます! 白石先輩も、その観葉植物はちょっと邪魔じゃないですか……?」
「えー、でもこれ、癒し効果があるって社長が言ってたし」
緊迫した状況下でも、二人のやり取りはどこか間の抜けた空気を漂わせている。
だが、そのおかげで俺も冷静さを取り戻すことができた。
新しいカートリッジを装填し、再びラベルプリンターを構える。
「よし、ここからは作業効率を上げるぞ。青井くん、白石さん、魔物の足止めを頼む。俺が端から順番に処理していく!」
「了解です!」
青井が決算書の束を振り回し、魔物の視界を遮る。
桃子がキャスター付きの椅子を滑らせて、魔物の足元をすくう。
体勢を崩したところに、俺が的確にラベルを撃ち込む。
『総務部管轄-045』
『総務部管轄-046』
『総務部管轄-047』
三人の連携は、まるで長年一緒に働いてきたチームのようにスムーズだった。
次々と魔物たちが硬直して倒れ、光の粒子となって消えていく。後には、換金用の青い石だけが床に散らばっていた。
「……ふう。これで、第一波は片付いたか」
最後の魔物を処理し終え、俺は額の汗を拭った。
廊下は備品の残骸と魔石で散らかっているが、ひとまずは静寂が戻った。
「やりましたね、先輩! これ全部換金したら、また会社の利益が上がっちゃいますよ」
桃子が床に落ちた魔石を拾い集めながら、無邪気に笑う。
「僕も、少しはお役に立てたでしょうか……」
青井がボロボロになった決算書の束を抱きしめながら、安堵の表情を浮かべた。
「ああ、助かった。二人とも、怪我はないな?」
俺が確認すると、二人は力強く頷いた。
ひとまず、最悪の事態は免れた。労災事故ゼロでこの場を乗り切れたことに、俺は深く安堵の息を吐いた。
有給休暇の取得まで、あと少し。
このまま残りの魔物も事務的に処理してしまえば、平穏な日常が戻ってくるはずだ。
そう思った、次の瞬間だった。
ズン……。
足元から、微かな振動が伝わってきた。
最初は、遠くを走る大型トラックの振動かと思った。だが、違う。
ズン……、ズン……。
振動は一定のリズムを刻みながら、徐々に大きくなっていく。
それは、屋上へと続く階段の下から響いてくる、巨大な足音だった。
「……先輩、今の音、なんですか?」
桃子の顔から、笑みが消えた。
青井も青ざめた顔で、階段の方角を見つめている。
ズン……!
ひときわ大きな音が響き、廊下の蛍光灯がチカチカと明滅した。
積み上げたバリケードの隙間から、階段の奥の暗がりが見える。
そこに、あり得ないほど巨大な影が揺らめいていた。
「……冗談だろ」
俺は乾いた唇を舐めた。
先ほどの魔物たちとは、明らかに次元が違う。
ただ歩いているだけで、ビル全体を揺るがすほどの質量。
第一波は、単なる露払いに過ぎなかったのだ。
「青井くん、白石さん。バリケードから離れろ」
俺はラベルプリンターを強く握り直し、二人の前に進み出た。
手元のカートリッジの残量は、あと半分。
こんなもので、あの巨大な影を止められるのか。
ズン……!
足音が、すぐそこまで迫っている。
冷たい汗が、背筋を伝い落ちた。
定時退社への道は、まだ遠く険しい。




