第4話
先ほどから続く足元の微かな揺れは、収まるどころか徐々にその規模を拡大していた。粉砕したボスの残骸の奥底、さらに深い階層から伝わってきた重く冷たい振動は、今や明確な音を伴って空間全体を震わせている。
先ほど感じたあの不気味な地鳴りは、単なるボスの断末魔の余韻などではなかった。ダンジョンの深層で目覚めた巨大な脅威が、明確な殺意を持ってこの階層へと迫ってきていることを告げる、破滅への足音へと変貌していたのだ。
這い上がってくる未知の冷気に、俺は思わず足を止めた。規定書には、こんな異常事態についての記載は一切ない。
この地鳴りは、一体何を意味しているのか。
定時退社への希望が遠のいていくのを感じながら、俺は暗闇の奥を睨みつけ、胃の奥にさらに重く冷たい石が沈んでいくのを自覚していた。
「急いで撤収するぞ。怪我人を優先しろ」
俺は営業部の青井たちを促し、ホイールローダーをバックさせた。背後から迫る地鳴りは、一歩進むごとにその音量を増していく。
屋上の扉を抜け、総務課のフロアに戻ったときには、自社ビル全体が微かな振動に包まれていた。窓ガラスがカタカタと鳴り、天井の蛍光灯が不規則に点滅している。
キャビネットの奥から引っ張り出した分厚い安全規定書をめくり、俺は付録のページに目を落とした。そこには、赤字で警告文が記されていた。
『階層崩壊による魔物大暴走。最深部の主が覚醒した場合、内部の魔物が外部へ溢れ出す危険性あり』
血の気が引くのを感じながら、俺は規定書を乱暴に閉じた。
もしそんなものがオフィスになだれ込んでくれば、会社は物理的に倒産する。社員の命はもちろん、俺の有給休暇も、平穏な日常もすべて消滅してしまう。
「佐藤君、君を今日付けで『特命ダンジョン管理部長』に任命する。なんとかしたまえ」
社長室に呼び出された俺は、震える声の社長から一枚の辞令を渡された。危険手当もつかないのに、またしても理不尽な責任を押し付けられた形だ。
だが、文句を言っている暇はない。労災事故が起きて遺族への対応や膨大な事後処理に追われるくらいなら、徹底的な事前準備で迎撃するしかない。
俺は辞令をポケットにねじ込み、経理部のフロアへ向かった。
「高梨主任、至急決済をお願いしたい」
デスクで電卓を叩いていた結衣が、怪訝な顔で顔を上げた。彼女の黒縁メガネの奥の瞳が、俺の手にある書類を鋭く見据える。
「佐藤特命部長。これは何の冗談ですか? 会社の全予算を投入する特別稟議なんて、承認できるわけがありません」
「冗談で済む状況じゃないんだ。屋上のダンジョンから、スタンピードが起きようとしている。会社が物理的に潰れれば、帳簿をつける意味もなくなるぞ」
結衣の指先がピタリと止まった。彼女が最も恐れているのは、会社の倒産だ。社員全員が路頭に迷う事態を前にして、彼女の表情が険しくなる。
「……不正な経費請求は絶対に拒否します。ですが、これが会社を守るための唯一の手段だと言うのなら」
彼女は赤いペンを握り直し、稟議書の決裁欄に力強くサインを書き込んだ。
「1円のズレも許しませんからね。必ず、会社に利益をもたらす形で終わらせてください」
「ああ、約束する。定時退社を死守するためにもな」
決死の全予算稟議が通った。これで、経費を使って最強の防衛設備を召喚できる。
◆ーーーー◆
数時間後、会社の裏口に大型トラックが横付けされた。
派手な柄シャツを着た買取業者の金子満が、荷台から次々と木箱を下ろしていく。
「特命部長、あんたの注文通り、裏ルートから極上の対魔物用バリケード資材を調達してきたぜ」
胡散臭い笑顔を浮かべながらも、金子の目は真剣だった。質の高い素材を安定供給してきた俺の商売の腕を、彼なりに認めている証拠だ。
「助かる。請求書は経理に回してくれ」
「毎度あり。あの経理のねえちゃんには、俺も頭が上がらねえからな。きっちり納品させてもらうよ」
一方、三階の会議室では、産業医の緑川薫が救護所の設置を完了させていた。白衣の下のタイトなスーツを翻し、彼女は医療物資の在庫を素早く確認している。
「佐藤特命部長、ベッドと応急処置の準備は整いました。ですが、これを使う事態にならないことを祈りますよ」
「もちろんです。安全第一で動きますから」
「ええ。無茶をする社員には、容赦なく注射器を突きつけますからね」
俺は小さく頷き、踵を返した。
準備の最終段階として、俺は総務の地下倉庫へ足を運んだ。
埃をかぶった棚の奥に、用途不明の巨大な壺や、奇妙な形をした銅像がいくつも転がっている。経理がかつてぼやいていた、先代社長時代の「使途不明金」の正体だ。
規定書の記述と照らし合わせると、これらは単なるガラクタ備品ではない。過去に起きたダンジョン騒動を封印するために用意された、防衛用アーティファクトだった。
俺は日常業務用のラベルプリンターを取り出し、キーボードを叩いた。
対象を会社の所有物として強制的に管理下に置く、絶対的な概念付与。
『登録ナンバー:防-001』
印刷されたラベルを、巨大な壺の表面にペタリと貼り付ける。
その瞬間、壺の表面に青白い幾何学模様が浮かび上がり、低い駆動音を立てて空中に浮遊し始めた。銅像たちにも次々とラベルを貼り付けると、それらも自律的に動き出し、屋上へと続く階段の前に強固な防衛ラインを形成していく。
地道に記録し続けたダンジョンの構造データを、俺は手元のタブレットに入力した。アーティファクトと連動させ、侵入してくる魔物を自動的に迎撃し、素材として処理するシステムを構築する。
これで、最深部から来る大ボスすらも完全に処理できるはずだ。
危険なダンジョンは、莫大な利益を生み出す安全な自社工場へと変貌を遂げた。
「完璧だ。これで労災の心配もない」
俺は備品台帳を閉じ、深く息を吐き出した。
時計の針は、午後五時を少し回ったところを指している。特命ダンジョン管理部長としての初仕事は、無事に完了した。
「よし、今日も優雅に定時退社をキメるとしよう」
ネクタイを緩め、エレベーターホールへと歩き出そうとした。
有給休暇を消化し、平穏な日常を取り戻す。その確かな手応えが、俺の足取りを軽くしていた。
しかし。
鼓膜を破るような轟音が、ビル全体を激しく揺さぶった。
直後、屋上へと続く階段の奥で、分厚い防爆扉が内側からひしゃげ、紙くずのように吹き飛んだ。
構築したはずの完璧な防衛ラインが、凄まじい衝撃でなぎ倒されていく。
粉々になった銅像の破片が、廊下の壁に突き刺さった。
「な……」
俺は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
吹き飛んだ扉の向こうから、無数の魔物が咆哮とともに廊下へ雪崩れ込み、備品のキャビネットを次々と薙ぎ倒していく。
それは、大ボスを自動処理するシステムすら間に合わないほどの、圧倒的な物量だった。
かつてない規模のモンスター群が、スタンピードの先陣として社内になだれ込んでくる。
這い寄る冷気が、スーツの襟元から入り込み、背筋を凍らせた。
有給休暇と定時退社を守るための完璧な計画が、音を立てて崩れ去っていく。
絶望的な光景を前に、俺の手に握られた備品台帳が微かに震えていた。
この圧倒的な物量に、俺たちはどう立ち向かえばいいのか。




