第3話
社内放送のチャイムが鳴り響き、営業部を中心とした「ダンジョン事業部」の設立が高らかに宣言されたのは、彼らが屋上の扉の向こうへ消えた直後のことだった。
俺はデスクに座ったまま、手元の『労働安全衛生マニュアル』に視線を落とした。分厚く古臭いその冊子には、ダンジョン内のあらゆる危険と対処法が完璧に網羅されている。中層エリアの項目には、落石トラップの多発や、連携して狩りを行う大型モンスターの群れについての警告が赤字で記されていた。
「総務のちまちましたやり方では遅すぎる。我々は一気に中層の資源を確保し、会社に莫大な利益をもたらす」
出撃前、高級なオーダーメイドスーツに真新しい防具を羽織った赤城修平は、そう豪語して屋上への扉を蹴り開けた。背後に続く実働部隊リーダーの黄桜剛も、元傭兵の経歴をひけらかすように安全管理マニュアルをゴミ箱へ放り捨てて嗤う。
一方で、彼らの部下として配属された若手の青井翔太は、サイズの合っていない防具を着せられ、常にオドオドと周囲の顔色を窺っていた。青井が「安全確認は……」と震える声で進言しても、赤城は「臆病者の言い訳だ」と一蹴し、黄桜は力任せに彼の背中を叩いて黙らせていた。
利益とスピードを最優先し、現場の泥臭い実務や安全管理を軽視するエリートたち。彼らの計画がどれほど無謀なものか、マニュアルを熟読している俺には痛いほどわかっていた。
それから数時間後。
総務課のフロアに、けたたましい電子音が鳴り響いた。ダンジョン事業部に持たせていた緊急通信用の端末からだ。俺が受話器を取ると、ノイズ混じりの悲痛な叫び声が鼓膜を打った。
「た、助けてください! 赤城部長が罠を踏んで、モンスターの群れに囲まれて……黄桜さんも足を怪我して動けません!」
青井のパニックに陥った声の背後で、獣の咆哮と岩が砕ける轟音が響く。通信はそこで唐突に途切れた。
フロアが水を打ったように静まり返り、次いで爆発的な騒ぎに包まれた。役員たちは青ざめ、誰が突入の許可を出したのかと責任の押し付け合いを始めている。
俺は受話器を置いたまま、胃の奥が急速に冷えていくのを感じていた。労働安全衛生法違反による労災事故の発生。最悪の事態だ。
もし彼らが命を落とせばどうなるか。遺族への謝罪行脚、労働基準監督署の厳しい立ち入り調査、警察の事情聴取。そして、それらすべての事後処理は、間違いなく総務である俺に回ってくる。終わりの見えないサービス残業と、一生会社に縛り付けられる地獄の日々。
「……冗談じゃない。そんな面倒事、絶対に御免だ」
俺はクリップボードを掴み上がり、スマートフォンを取り出した。迷うことなく、建機リース会社「マッハ建機」の担当者へダイヤルする。
「お世話になっております、総務の佐藤です。至急、中層救出用の重機を手配してください。一番出力が高くて、装甲の厚い奴を」
「おや、佐藤さん。また無茶を仰る」
電話の向こうで、ベテラン営業マンの黒川鉄馬が面白そうに喉を鳴らした。日に焼けた肌に作業着が似合う彼は、どんな突飛な要求でも経費が落ちるなら即座に手配するプロフェッショナルだ。
「ですが、あなたからの発注なら大歓迎です。最新型のホイールローダーを即納状態にしておきましょう」
「助かります。支払いは経費精算で処理します」
通話を切ると同時に、俺は経理部の高梨結衣に内線を入れた。これまで浅層の備品管理で稼ぎ出した魔石の売却益、いわゆる雑収入がプールされているはずだ。
「高梨さん、特別稟議を回します。名目は『労働安全衛生法違反の是正および人命救助』。プールしてある予算を全額突っ込んでください」
「……営業部の尻拭いなんて腹立たしいですが、佐藤さんの堅実な精算実績を信じます。承認ルートは私が裏で回しますから、行ってください!」
結衣の力強い声とともに、俺の手元にある備品台帳の端末が淡く光り輝いた。社内システム上で決裁リレーが猛スピードで駆け巡り、社長の承認印が押された瞬間、経費精算のスキルが発動する。
俺はマニュアルを片手に、屋上への階段を駆け上がった。
中層第3区画。落石トラップによって退路を断たれたすり鉢状の岩場では、絶望的な光景が広がっていた。
赤城は腰を抜かし、泥に塗れた高級スーツを震わせている。彼の誇っていたデータや計画は、未知の暴力の前には何の役にも立たなかった。戦闘狂の黄桜でさえ、足を負傷して岩壁に寄りかかり、迫り来る巨大な装甲イノシシの群れを前に顔面を蒼白にしている。
唯一、青井だけが涙目で盾を構え、上司たちを庇うように立っていたが、限界は明らかだった。群れのボスである一回り巨大な個体が、前足を高く振り上げ、彼らを完全に踏み潰そうとした。
その時だ。
轟音と共に、すり鉢状の岩壁が外側から粉砕された。土煙と岩の破片を撒き散らしながら乱入してきたのは、黄色い塗装も真新しい最新型のホイールローダーだった。
運転席の窓を開け、俺は拡声器のスイッチを入れる。
「お待たせしました。総務課です。これより、労災防止のための安全確保作業を開始します」
「さ、佐藤!? なぜお前がここに……それにその重機はなんだ!」
赤城が裏返った声で叫ぶが、俺は事務的にレバーを引いた。ホイールローダーの巨大なタイヤが唸りを上げ、突進してくる装甲イノシシたちを次々と撥ね飛ばしていく。経費で召喚された最新重機の圧倒的な質量と馬力の前では、中層のモンスターなどただの障害物に過ぎない。
ボス個体が怒り狂い、重機に向かって突進してくる。俺はタイミングを見計らい、窓から身を乗り出して日常業務用の印字シールを射出した。
『総務部所有・廃棄予定』
シールがボスの分厚い装甲に貼り付いた瞬間、その巨体が会社のルールに縛られ、ピタリと機能を停止した。空中で静止した石像のようなボスを、俺はホイールローダーの巨大なバケットで掬い上げ、そのまま岩壁に向かってフルスロットルで叩きつけた。
凄まじい衝撃音とともに、ボスの装甲が砕け散り、光の粒子となって消滅する。残された群れも、ボスの敗北を悟ったのか蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
静寂が戻った中層エリアに、重機のアイドリング音だけが響く。俺は運転席から降り、クリップボードを片手に赤城たちの元へ歩み寄った。
「マニュアル違反による労災未遂。始末書だけでは済みませんよ、赤城部長」
俺が冷たく見下ろすと、赤城は屈辱に顔を歪め、ギリッと唇を噛み締めた。エリートとしてのプライドを粉々に打ち砕かれ、見下していた裏方の総務に命を救われたのだ。反論の言葉など出るはずもない。
黄桜もまた、ただの平社員が操る重機の暴力的な破壊力にトラウマを植え付けられたのか、俺と目を合わせようとせず、震える手で自身の足を抱え込んでいた。
「佐藤先輩……! ありがとうございます、本当に……!」
青井だけが、ボロボロになりながらも涙を流して俺を拝んでいる。彼の無事を確認し、俺はようやく安堵の息をついた。これで死亡事故は防げた。社内のヒエラルキーも完全に逆転し、今後は営業部から無謀な横槍が入ることもなくなるだろう。
「さあ、定時も近いですし、さっさと撤収しますよ」
俺が備品台帳を閉じ、ホイールローダーの運転席へ足を掛けた瞬間だった。
ズズン、と足元の岩盤が微かに揺れた。粉砕したはずのボスの残骸の奥底、さらに深い階層から、重く冷たい振動が伝わってくる。
それはただのモンスターの咆哮ではない。ダンジョンそのものが怒り狂い、何か巨大なものを目覚めさせようとしているかのような、不気味な地鳴りだった。
這い上がってくる未知の冷気に、俺は思わず足を止めた。マニュアルには、こんな異常事態についての記載は一切ない。
この地鳴りは、一体何を意味しているのか。
定時退社への希望が遠のいていくのを感じながら、俺は暗闇の奥を睨みつけ、胃の奥にさらに重く冷たい石が沈んでいくのを自覚していた。




