第2話
その重苦しい空気を肺から追い出すように、俺は一つ大きなため息をついた。
考えても答えの出ない謎に頭を悩ませるのは、総務の仕事ではない。俺の最優先事項は、与えられた業務を安全かつ迅速に処理し、定時退社を死守することだ。
俺はクリップボードを小脇に抱え、経費で落としたばかりの栄養ドリンクの小瓶を手に取った。キャップを捻り、褐色の液体を一気に喉の奥へ流し込む。強烈なカフェインと糖分が、疲労の溜まった体に無理やり活力をねじ込んでくる。
「さて、今日の残業代わりといくか」
空き瓶をゴミ箱に放り込み、俺は屋上へと続く階段を上り始めた。
重い鉄扉を押し開けると、そこには見慣れた自社ビルの屋上ではなく、薄暗く湿った洞窟のような空間——ダンジョンの浅層が広がっていた。
冷たい風が吹き抜け、得体の知れない獣の匂いが鼻を突く。つい数日前まで、ここで昼休みにお弁当を食べていたのが嘘のようだ。
岩肌が剥き出しになった通路を少し進むと、前方の暗がりから低い唸り声が聞こえてきた。
現れたのは、緑色の皮膚を持った小鬼のようなモンスター——いわゆるゴブリンらしき生物が三匹。手には粗末な棍棒を握り、こちらを威嚇するように牙を剥き出しにしている。
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だろう。だが、俺の心にあるのは恐怖よりも、終わりの見えないサービス残業に対する苛立ちだった。
「まったく、次から次へと湧いてきやがって。こっちは早く帰ってビールが飲みたいんだよ」
俺は立ち止まり、腰のベルトに装着した備品管理ラベルプリンター、通称「テプラ」の電源を入れた。
液晶画面に『印刷可能』の文字が点灯するのを確認し、キーボードを素早く叩く。
『管理番号:総-002』
『管理番号:総-003』
『管理番号:総-004』
ウィーンという小さな駆動音とともに、白いラベルが次々と吐き出されていく。
ゴブリンたちが奇声を上げ、棍棒を振りかぶって突進してきた。
俺は冷静にラベルを剥がし、先頭のゴブリンの額にペタリと貼り付けた。
その瞬間、ゴブリンの動きがピタリと止まった。
振り下ろされようとしていた棍棒は空中で静止し、怒りに満ちた表情のまま、まるで精巧な蝋人形のように固まってしまう。
初日は半信半疑だったこの『備品化』による機能停止も、今やすっかり手慣れたものだ。会社のルールという絶対的な縛りの前では、異世界の怪物もただの動く粗大ゴミに過ぎない。俺は無駄のない動作でラベルプリンターを操作し続けた。
残る二匹も、状況が理解できないまま立ち止まったところを、すかさずラベルを貼り付けていく。
三匹のゴブリンは完全に沈黙し、やがて光の粒子となって空中に溶け込んでいった。後には、ビー玉ほどの大きさの青い魔石が三つ、カランと音を立てて転がった。
「よし、これでこの区画の安全確認は完了、と」
俺は手元の備品台帳にチェックを入れ、魔石を拾い上げて専用の回収袋に放り込んだ。
危険手当もつかない理不尽な業務だが、この事務的な処理さえ徹底していれば、浅層の制圧は造作もない。俺は残業時間を少しでも減らすため、淡々と作業を続けた。
翌日の午後。俺は回収した大量の魔石を台車に載せ、経理部のフロアへ向かった。
フロアの奥、ひときわ書類の山が高く積まれたデスクで、高梨結衣は電卓を叩いていた。きっちりとまとめられた髪に、黒縁メガネ。彼女の周囲だけ、空気が数度低いような錯覚を覚える。
「高梨さん、お疲れ様です。昨日の分のドロップアイテムをお持ちしました。換金処理をお願いできますか」
俺が声をかけると、高梨さんは電卓を叩く手を止め、メガネの奥の鋭い視線をこちらに向けた。
「佐藤さん。ご苦労様です。……それにしても、またすごい量ですね」
彼女は立ち上がり、台車に積まれた魔石の山を素早く確認し始めた。手には常に持ち歩いている赤いペンが握られている。
「これだけの純度と量なら、昨日の倍以上の利益になります。換金ルートの開拓も順調ですし、会社としては過去最高益を更新するペースですよ」
「それは何よりです。会社の業績が上がれば、少しは有給休暇も取りやすくなるかもしれませんしね」
俺が苦笑交じりに言うと、高梨さんはふっと表情を和らげた。
「佐藤さんの経費精算はいつも完璧ですから、私も助かっています。どこかの部署とは大違いです」
そう言って、彼女は自分のデスクの端に積まれた、付箋が大量に貼られた書類の山を顎でしゃくった。
「営業部の接待交際費、また差し戻しですか?」
「ええ。領収書の宛名が空欄だったり、目的が不明確だったり。だいたい合っているからいいだろう、なんて甘い考えは経理には通用しません。1円のズレも許さないのが私の仕事ですから」
キビキビとした口調で言い切る高梨さん。彼女の厳格な姿勢は、社内の一部から煙たがられているが、俺は高く評価していた。
不正な経費請求を許さない彼女の価値観は、俺の「安全第一」という方針とどこか通じるものがある。
「それにしても、営業部の連中は相変わらずですね。自分たちが稼いでいるからと、経費を湯水のように使っていいと思っている」
「おっしゃる通りです。会社の倒産を招くのは、いつだってそういう無謀な投資や不正な経費請求なんですよ。私が帳簿をつけている限り、そんな真似は絶対に許しません」
高梨さんは赤いペンを強く握りしめ、決意を込めるように言った。
「ダンジョンの利益が今の会社を支えているのは事実です。これからも、適正な経費の使用と確実な利益の回収をお願いしますね、佐藤さん」
「了解です。無理のない範囲で、安全第一でやらせてもらいます」
高梨さんは満足げに頷くと、受領書に赤いハンコを力強く押し付けた。俺はそれを受け取り、空になった台車を押して経理部を後にした。
しかし、そんな平穏な日常は長くは続かなかった。
数日後の朝、総務課のフロアに場違いな足音が響いた。
コツコツと硬い革靴の音が近づいてくる。顔を上げると、高級なオーダーメイドスーツを着こなし、オールバックに髪を整えた体格の良い男が立っていた。その後ろには、タブレットを手にした神経質そうな細身の男が続いている。
営業部エースの赤城修平部長と、その腰巾着である灰島慎吾副部長だ。普段はコストセンターである総務課になど寄り付きもしない彼らが、わざわざ足を運んでくる理由など一つしかない。
「やあ、佐藤君。朝から精が出ているね」
赤城は自信に満ちた笑みを浮かべ、俺のデスクの前に立った。その見下ろすような視線には、明らかな優越感が混じっている。
「赤城部長。何か御用でしょうか」
俺は立ち上がり、事務的なトーンで応じた。
「単刀直入に言おう。今日からダンジョンの攻略は、我々『ダンジョン事業部』が引き継ぐことになった」
「ダンジョン事業部、ですか」
「ああ。君たち総務が持ち帰った石ころが、莫大な利益を生むとわかってね。経営陣も本腰を入れることにしたのさ。これからは、我々エリートが会社の利益を牽引する」
赤城の背後で、灰島が眼鏡を押し上げながらタブレットの画面を見せてきた。
「データによれば、浅層のアイテムでこれだけの利益が出るなら、中層以降はさらに桁違いの利益が見込めます。総務のような裏方ではなく、我々営業のプロが主導権を握るべきだという結論に達したのです」
インテリぶった嫌味な口調で、灰島が早口にまくしたてる。
俺は内心で、小さく安堵の息を漏らした。
これで理不尽なダンジョン管理業務から解放され、元の定時退社できる生活に戻れる。彼らが手柄を独り占めしようが、俺にとっては知ったことではない。
「それは助かります。では、業務の引き継ぎと、安全管理マニュアルの共有を——」
俺がキャビネットの方へ歩き出そうとした瞬間、赤城が鼻で笑った。
「マニュアル? そんなものは不要だ」
「……不要、とはどういうことですか」
「我々はスピードと行動力を重視する。ちまちまとラベルを貼るような真似はしない。最新の装備を揃え、一気に中層を制圧する。結果と利益がすべてだ」
赤城の言葉に、俺は耳を疑った。
「お待ちください。ダンジョン内は法的に会社の敷地内です。労働安全衛生法が適用されますし、万が一のことがあれば労災になります。安全管理を無視した計画は承認できません」
俺の語気が、無意識のうちに強くなる。
労災事故が起きれば、遺族への対応や膨大な事後処理に追われ、一生会社に縛り付けられる。それだけは絶対に避けなければならない。
だが、赤城の顔から笑みが消え、高圧的な態度があらわになった。
「お前、たかが総務が、エリートである俺に意見する気か? 利益より安全が優先だとでも言うつもりか」
「事実を申し上げているだけです。マニュアル違反は——」
「臆病者の言い訳など聞きたくない。我々は結果を出す。君は大人しく、我々が持ち帰る利益の計算でもしていればいい」
赤城は俺の言葉を冷酷に遮り、踵を返した。
「データも我々の計画の正当性を証明していますよ、佐藤君。せいぜい、裏方として我々の活躍を応援していてくれたまえ」
灰島が嫌味な笑いを残し、赤城の後を追う。
彼らは俺の忠告を完全に無視し、フロアを出て行った。
「……厄介事が減ったのはいいが」
俺はキャビネットから『労働安全衛生マニュアル』を引き抜き、中層エリアの労災事例のページを開いた。
あの古臭いマニュアルには、ダンジョン内のあらゆる危険と対処法が完璧に網羅されている。それを無視して、未知の領域である中層へ突入するなど、自殺行為に等しい。
窓の外を見ると、赤城たちが真新しい装備を身につけ、意気揚々と屋上へ向かう後ろ姿が見えた。
利益至上主義に憑りつかれた彼らの足取りは、あまりにも軽い。
胃の奥に、再び冷たい石を飲み込んだような感覚が蘇る。
安全管理を軽視した営業部に、果たしてどんな災難が降りかかるのか。
俺は手元の備品台帳を強く握りしめ、静かに顔を曇らせた。




