第1話
「屋上ダンジョン定期点検業務、ですか」
総務課のデスクで、俺は手元のクリップボードに挟まれた書類を見つめ、深くため息をついた。
稟議書の決裁欄には、見慣れた社長の印鑑が押されている。自社ビルの屋上に突如として未知の空間——いわゆるダンジョンが湧いたのは、つい三日前のことだ。
警察や消防も「私有地内の異常現象」として及び腰になり、会社はこれを放置できなくなった。結果として、なぜか「備品管理の延長」という謎の理屈で、総務課の俺に管理業務が押し付けられたのである。
「危険手当もつかないのに、どうして俺が……」
誰にも聞こえない声で悪態をつく。俺、佐藤健太は、ただ平穏に定時退社をしたいだけの平凡なサラリーマンだ。直接利益を生まない「コストセンター」と揶揄されようが、面倒事を避けて事務処理をこなす日々に満足していた。
「先輩、行きますよー。早くしないとお昼休みになっちゃいます」
のんきな声とともに、後輩の白石桃子が近づいてきた。ゆるふわなボブヘアを揺らし、少し大きめのカーディガンを羽織った彼女は、なぜかピクニックにでも行くような足取りだ。
「白石さん、遊びに行くんじゃないんだぞ。得体の知れない空間に入るんだ。安全第一で頼む」
「わかってますって。でも、屋上にダンジョンなんてちょっとワクワクしませんか?」
「しない。万が一、お前が怪我でもしたら労災申請の手続きが面倒なんだよ。遺族への対応や事後処理で、俺が一生会社に縛り付けられる状況だけは絶対に避けたい」
俺はキャビネットの奥から、埃を被った分厚いバインダーを取り出した。表紙には色褪せた文字で『労働安全衛生マニュアル』と書かれている。
時代遅れの遺物だが、労災を防ぐためのルールブックとしては使えるはずだ。これを小脇に抱え、俺は桃子とともに屋上へと向かう階段を上り始めた。
◆ーーーー◆
重い鉄扉を押し開けると、そこはいつもの殺風景なコンクリートの屋上ではなかった。
薄暗い洞窟のような空間が広がり、壁面には青白く発光する苔が張り付いている。空気はひんやりと冷たく、微かに土の匂いが漂っていた。
「わあ、本当にダンジョンですね! 会社の屋上じゃないみたいです」
「はしゃぐな。足元に気をつけろ。転んで捻挫でもしたら、それだけで労働基準監督署への報告書が必要になる」
俺はクリップボードに挟んだ点検シートにチェックを入れながら、慎重に足を進めた。法的にここは「会社の敷地内」だ。業務中の負傷はすべて労災扱いになる。それだけは絶対に防がなければならない。
「あ、先輩。あそこに何かいますよ」
桃子が指差した先には、半透明のゼリー状の物体が蠢いていた。RPGなどでよく見るスライムというやつだろう。
「可愛いですね。ペットとして総務で飼えませんか?」
「馬鹿なことを言うな。得体の知れないものに触るんじゃない」
桃子が不用意に近づこうとするのを、俺は慌てて制止した。
その声に反応したのか、スライムが突然、表面を波立たせて跳躍した。狙いは真っ直ぐに俺たちの顔面だ。
「ひゃっ!」
桃子が短い悲鳴を上げる。俺は反射的に、ポケットに入っていた日常業務用のアイテムを取り出した。
備品管理ラベル——通称「テプラ」だ。
迫り来るスライムの額にあたる部分へ、俺はペタリとラベルを貼り付けた。
『管理番号:総-001』
その瞬間、信じられないことが起きた。
空中で襲いかかってきたスライムが、ピタリと静止したのだ。まるで時間を止められたかのように空中で固まり、そのまま石像のように重い音を立てて地面に落下した。
「え……?」
桃子が目を丸くしている。俺自身も、手元のラベルプリンターと動かなくなったスライムを交互に見比べた。
物理的なダメージを与えたわけではない。ただ、会社のルールで縛ったのだ。対象に管理ラベルを貼り付けることで、「会社の所有物(備品)」として強制的に登録し、その機能を停止させたらしい。
「先輩、すごい! 不良在庫の処分みたいでしたね!」
「……まあ、安全に処理できたならそれでいい」
動かなくなったスライムは、やがて光の粒子となって空中に溶け込み、後にはビー玉ほどの大きさの青い石が残された。
俺はそれを拾い上げ、クリップボードの端にメモを書き込んだ。
「とりあえず、これは『雑収入』扱いだな。換金して経費の足しにしよう」
◆ーーーー◆
総務課に戻った俺は、回収した青い石——魔石と、換金業者から受け取った明細書を持って経理部へ向かった。
「佐藤さん。この『屋上拾得物売却益』という名目の現金……出所はどこですか?」
経理の高梨結衣は、持ち込まれた書類と現金を交互に見て、黒縁メガネの奥の目を細めた。きっちりとまとめられた髪と、手に持った赤いペンが、彼女の几帳面さを物語っている。
「屋上のダンジョンです。一応、専門の業者を通したらこの額になりました」
「ダンジョン……ですか」
結衣は眉間に深いシワを寄せた。彼女は1円のズレも許さない厳格な性格だ。異常な利益の出所に疑念を抱くのは当然だろう。
「会社の利益になるのは結構ですが、不正な経費請求や出所不明の入金は容赦しませんからね。税務調査で指摘されたら、会社が傾きかねません」
「わかっています。すべて適正な手続きを踏んでいますよ。労災を防ぐための必要経費も、ここから捻出させてもらいますから」
「……わかりました。今回は処理しておきます」
結衣は電卓を素早く叩き、書類に承認の印を押した。彼女の会社への愛着は人一倍強い。業績に貢献する数字であれば、最終的には受け入れてくれると信じていた。
経理部を後にした俺は、総務の奥にある備品倉庫へと向かった。
備品台帳の更新と、先ほどのラベルの補充をするためだ。薄暗い倉庫の中には、パイプ椅子や予備のコピー用紙に混じって、用途不明のガラクタ備品が埃を被っている。
俺はふと、部屋の隅に置かれた巨大な壺と、謎の銅像に目を留めた。
「そういえば……高梨さんが以前、ぼやいていたな」
手元の備品台帳をめくると、その壺の取得価格欄には『一千万円』という異常な数字が記載されていた。高梨さんが『先代社長時代の使途不明金』とぼやいていたのはこれのことか。
だが、今日ダンジョンで起きたことを考えると、妙な符合を感じる。
この用途不明の巨大な壺や銅像は、本当にただのガラクタなのだろうか。
備品管理ラベルでモンスターを機能停止させられるという、俺の異常なスキルの発現。そして、会社に眠る時代遅れの分厚い『労働安全衛生マニュアル』。
まるで、この会社が過去にも「ダンジョン騒動」を経験し、それを封印するための防衛策を講じていたかのような——。
「……いや、考えすぎか」
俺は首を振り、台帳に目を落とした。
だが、胃の奥に冷たい石を飲み込んだような不穏な感覚が、どうしても拭えなかった。埃っぽい倉庫の空気が、急に重く感じられる。
この会社には、まだ俺の知らない裏の顔があるのかもしれない。




