第16話
電力が完全に復旧したことで、屋上に設置されたすべての防衛システムがオンライン状態に移行している。
遠くで、巨大なクレーン設備が重々しい駆動音を立てて動き始めていた。複数のワイヤーが張り詰め、滑車が回転する音が夜空に響く。
大ボスを完全に拘束し、処理するための巨大ギミック。その準備が、ついに整ったのだ。
「赤城さん、灰島さん。あなたたちは速やかに下の階へ退避してください」
俺は手元の端末から目を離さず、へたり込んでいる二人に事務的に告げた。彼らのスーツはボロボロに引き裂かれ、息も絶え絶えになっている。エリート営業マンの面影はどこにもない。
「ここから先は、重機と設備の独壇場です。生身の人間がウロウロしていると、作業の邪魔になります」
「お、おう……頼んだぞ、佐藤」
赤城が灰島に肩を貸しながら、よろめく足取りで非常階段の方へと向かっていく。彼らの背中を見送る間も、俺の指先は端末の画面を叩き続けていた。
屋上の中央では、巨大な異形の獣——大ボスが、忌々しげに咆哮を上げていた。先ほどまで赤城たちを追い詰めていた圧倒的な暴力の化身だ。全身から黒い靄のようなものを立ち昇らせ、周囲の空気を歪ませている。
だが、電力が戻った今、状況は変わった。
「さて、大型備品の搬入作業を始めましょうか」
俺は端末の実行ボタンをタップした。
屋上の四隅に設置されたクレーンが、一斉にアームを旋回させる。モーターの低い唸り声が響き、太い鋼索がギリギリと音を立てて引き伸ばされていく。
先端から吊り下げられているのは、先ほど金子さんが納品してくれた特殊ワイヤーネットだ。超高張力鋼線で編まれたそれは、本来なら巨大な橋梁工事などで使われる代物である。経費精算の際、高梨さんがその桁違いのリース料を見て一瞬フリーズしたほどの特注品だ。
クレーンの動きに合わせて、ワイヤーネットが夜空に広がり、大ボスの頭上へと巨大な影を落とした。
『グォォォォッ!』
頭上の異変に気づいた大ボスが、鋭い爪を振り上げてネットを引き裂こうとする。その一撃は、分厚いコンクリートの床を容易く抉り取るほどの威力を持っている。
だが、俺はすかさずリース品の重機——マッハ建機のロゴが入ったアーム付きバックホーを遠隔操作した。手元の端末でマクロプログラムを走らせると、無人の重機が唸りを上げて前進する。
重機の巨大なバケットが、大ボスの側面に容赦なく叩きつけられた。
ダメージを与えるためではない。体勢を崩し、爪の軌道を逸らすための牽制だ。
鈍い衝突音とともに大ボスがよろけた隙に、ワイヤーネットがバサリと被せられた。鋼線が巨体に絡みつき、重々しい音を立てて地面に擦れる。
「第一段階クリア。続いて、四方のアンカー固定に入ります」
俺一人で四台のクレーンと重機を同時に完璧に制御するのは不可能だ。だが、今の俺には強力なバックアップがある。
『佐藤さん、クレーンの第2ウインチ、こちらで巻き上げを開始します』
インカムから、高梨さんの凛とした声が響いた。下の階のオフィスから、復旧した社内LANを経由してシステムにアクセスしているのだ。彼女のキーボードを叩く音が、微かにインカム越しに聞こえてくる。
『第3アームの旋回角、わたしがマニュアル通りに入力しておきましたー!』
続いて、白石さんののんきな声が聞こえる。相変わらず緊張感のないトーンだが、入力された数値に狂いはない。
『佐藤さん、足場の固定アンカー、こっちの端末からロックかけました! いつでも引けます!』
青井くんの力強い声も重なった。彼もまた、自分のデスクから必死にサポートしてくれている。
会社全体が一丸となって、この巨大な事務作業をバックアップしてくれているのだ。
「助かります。各所のテンション維持をお願いします。少しでも緩めば、引きちぎられますよ」
『言われなくても分かっています。ワイヤーの耐荷重限界まで、あと八パーセント。これ以上暴れられると、設備が破損して莫大な修繕費が発生します。絶対に抑え込んでください』
高梨さんの容赦ないプレッシャーに、俺は苦笑した。
「了解しました。経費削減のためにも、迅速に処理します」
大ボスがネットを引きちぎろうと暴れ回るたびに、屋上の床が軋み、ワイヤーが悲鳴のような金属音を立てる。だが、高梨さんたちが絶妙なタイミングでウインチの巻き上げ速度を調整し、張力のバランスを保っている。
巨大な質量がもがけばもがくほど、ワイヤーネットは複雑に絡み合い、大ボスの動きを封じていく。四方から引っ張られる形で、大ボスは徐々に地面へと押さえつけられていった。
「よし、動きが制限されてきましたね」
大ボスの四肢がネットに絡め取られ、地面に縫い付けられるようにして姿勢を低くした。まだ首や尾は激しく動いているが、決定的な隙が生まれつつある。
俺はポケットから、日常業務で使い慣れたアイテムを取り出した。
備品管理ラベル——通称「テプラ」だ。
あらかじめ印字しておいたラベルの台紙を剥がす。指先に触れる粘着面の感触が、いつも通りの事務作業であることを思い出させてくれる。
『管理番号:特-001』
これを対象に貼り付ければ、会社の所有物として強制的に登録され、機能は完全に停止する。どんなに強大なモンスターであろうと、会社のルールには逆らえない。
「高梨さん、白石さん、青井くん。今の張力を維持してください。俺が直接、ラベルを貼りに行きます」
『了解しました。気をつけてくださいね!』
白石さんの明るい声に背中を押され、俺は重機の陰から飛び出した。
大ボスまでの距離は約二十メートル。暴れる巨体が巻き起こす風圧と、鼻をつくような嫌な臭いが押し寄せてくる。
だが、恐怖はない。これはただの備品登録作業だ。
俺はバインダーを小脇に抱え、ラベルを右手に持ったまま、大ボスの懐へと駆け込んだ。足元には砕けたコンクリートの破片が散乱しているが、迷わず最短距離を突っ切る。
『ガァァァァッ!』
大ボスが俺を睨みつけ、巨大な顎を開いて威嚇してくる。無数の鋭い牙が並ぶ口腔から、生暖かい息が吹き付けられた。
だが、ワイヤーに拘束された首は、俺に届く直前でガクンと止まった。鋼線が皮膚に食い込み、それ以上の前進を許さない。
「大人しくしてください。手続きが遅れます」
俺は大ボスの額——硬い外殻に覆われた平らな部分に狙いを定めた。あそこなら、ラベルがしっかりと貼り付くはずだ。
ラベルを押し付けようと手を伸ばした、その瞬間だった。
ピキッ、と嫌な音が響いた。
大ボスの全身に刻まれた血管のような模様が、突如として不気味な赤色に発光し始めたのだ。同時に、周囲の空気が陽炎のように歪み、異常な熱波が押し寄せてくる。
「……なんだ?」
俺は思わず動きを止め、顔をしかめた。
インカムから、高梨さんの切羽詰まった声が鼓膜を打つ。
『佐藤さん、待って! その個体、内部の熱量が急激に上昇しています!』
「熱量? どういうことですか」
『分かりません! でも、このままじゃ……爆発します!』
その言葉に、俺は息を呑んだ。
追い詰められた大ボスが、自己崩壊——つまり自爆の兆候を見せているのだ。
ワイヤーネットで物理的に拘束することはできた。だが、内部から膨れ上がる熱エネルギーまでは抑え込めない。赤熱化は急速に進み、大ボスの体表からシューシューと白い蒸気が噴き出し始めている。
周囲の空気が極度に乾燥し、呼吸をするだけで喉が焼けるように痛い。足元のコンクリートが、熱に耐えきれずにパチパチと音を立ててひび割れていく。
このサイズのモンスターが自爆すれば、屋上どころか自社ビル全体が吹き飛ぶ。会社が消滅すれば、俺の平穏な日常も、定時退社も、すべてが灰と化す。
「冗談じゃない……」
俺は熱波に耐えながら、赤く染まっていく大ボスの額を見つめた。
ラベルを貼るのが先か、自爆が先か。いや、仮にラベルを貼って機能を停止させたとしても、すでに臨界点に達しつつある熱エネルギーがどうなるかは未知数だ。最悪の場合、備品として登録された瞬間に爆発するかもしれない。
「労災どころか、会社が消滅するぞ……」
俺はラベルを持った手を止めたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。圧倒的な熱量が、俺のスーツを焦がし始めていた。




