第15話
大ボスの巨大な爪が、囮となった二人の頭上へと無慈悲に振り下ろされる。
風を切り裂くような鋭い音の直後、屋上のコンクリート床が爆発したように砕け散った。凄まじい衝撃波が周囲の空気を震わせ、機能停止した重機の装甲すらも軋ませる。
「ひぃぃぃっ!」
もうもうと立ち込める土煙の中から、灰島の裏返った悲鳴が聞こえた。
視界が晴れると、赤城と灰島は泥水と瓦礫の中に無様に転がっていた。直撃の瞬間に横へ飛び退き、間一髪で致命傷を免れたらしい。だが、彼らの顔には明らかな死の恐怖が張り付いていた。
「ふざけるな! 営業部のエースを舐めるなよ!」
赤城が破れたスーツのまま立ち上がり、その辺に落ちていた手頃な瓦礫を拾って投げつけた。石塊は大ボスの硬い皮膚に当たって虚しく弾け飛んだが、ヘイトを稼ぐという目的は十分に果たしている。
「こっちだ、この図体ばかりデカい不良債権め!」
二人が大ボスを引きつけている隙を突き、俺は沈黙した重機の操縦席から飛び降りた。目指すは、大ボスの足元を通り抜けた先にある予備電源の配電盤だ。先ほど彼らが決死の覚悟で辿り着き、震える手でブレーカーを操作しようとしたものの、素人の手には負えずに放棄せざるを得なかったあの場所。彼らが命懸けで大ボスを引き離してくれた今、俺がその作業を引き継ぐ。
息を殺し、ひび割れた床を蹴って走る。周囲には大ボスが発する濃密な瘴気が漂い、呼吸をするだけで肺が焼けるように痛む。ダンジョン化の影響で、かつて見慣れた屋上の風景は異界の荒野のように変貌していた。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
先ほど赤城がこじ開けてくれた金属カバーの前に滑り込み、内部を覗き込んだ。
「……最悪だな」
スマホのライトで照らし出すと、メインのケーブルが黒焦げになって断線していた。大ボスの攻撃の余波か、あるいは過電流によるショートか。いずれにせよ、単にブレーカーを押し上げるだけでは通電しない。物理的なバイパス工事が必要だった。
俺は脳内の記憶を検索した。
総務課のキャビネットの奥底に保管されていた、分厚くて古臭い社内安全基準書。その付録ページに記載されていた、自社ビル屋上の電気系統の配線図だ。誰も読まないようなマニュアルの隅々まで目を通しておくのは、面倒なトラブルを未然に防ぐための俺の防衛術である。
「赤の端子から予備回路へ迂回させて……」
工具袋から絶縁テープと予備の導線を取り出し、暗闇の中で作業を開始する。
手元が狂えば感電の危険があるが、不思議と焦りはなかった。日々の備品修理や蛍光灯の交換で培った指先の感覚が、正確にケーブルの被膜を剥がし、銅線を撚り合わせていく。冷たい金属の感触が、俺の意識を極限まで研ぎ澄ませていた。
背後からは、地響きのような咆哮と、二人の絶叫が絶え間なく聞こえてくる。
「私にもう少し足の速さがあれば……! 確率論的に逃げ切れません!」
「うるさい、走れ! 俺は次期役員になる男だぞ!」
大ボスが薙ぎ払うように腕を振るうたび、突風が巻き起こり、俺の作業を妨害しようとする。
だが、手を止めるわけにはいかない。もし彼らがここで命を落とせば、それは業務中の重大な労災事故となる。遺族への対応、労働基準監督署の調査、膨大な報告書の作成。そんな終わりの見えない事後処理に追われるくらいなら、今ここで完璧なバイパス工事を完了させる方がマシだ。
「あと一本……」
最後の導線を端子に噛ませ、絶縁テープで幾重にも固定する。
その時、背後で嫌な音がした。
「あ……」
灰島が瓦礫につまずき、派手に転倒したのだ。赤城もそれに巻き込まれるようにバランスを崩し、泥の中に倒れ込んだ。二人は必死に立ち上がろうとするが、疲労で足がもつれている。
大ボスが、好機とばかりに巨大な両腕を高く振り上げた。今度こそ逃げ場はない。
「佐藤ォォォ!」
赤城の悲痛な叫びが夜空に響く。
俺は、配電盤のメインブレーカーを力強く押し上げた。
「通電確認」
バチィッ、という火花とともに、屋上の照明が一斉に点灯した。
眩い光が大ボスの目を一瞬だけ眩ませる。
同時に、俺の背後で低い駆動音が響き渡った。電力が復旧し、沈黙していた重機が息を吹き返したのだ。
俺は手元のタブレット端末を叩き、あらかじめ設定しておいたマクロプログラムを実行した。
「アーム旋回、最大出力」
旋回した鋼鉄のアームが、大ボスの両腕に激突した。
鼓膜を破るような金属音と衝撃波が弾け飛ぶ。経費でリースした最新重機のパワーは、規格外のモンスターの質量をも凌駕していた。
大ボスの巨体が大きくよろけ、その攻撃の軌道が逸れた。巨大な爪は赤城たちの数メートル横の床を深く抉り、コンクリートの破片を撒き散らすにとどまった。
もうもうと立ち込める粉塵の中、大ボスは苛立ちの咆哮を上げて後退していった。
俺は配電盤のカバーを閉め、ゆっくりと立ち上がった。
数歩先では、泥と埃にまみれた赤城と灰島が、腰を抜かしたままへたり込んでいる。高級だったはずのオーダーメイドスーツは見る影もなくボロボロで、灰島の眼鏡は片方のレンズがひび割れていた。エリートとしての威厳は完全に消え失せ、ただの疲れ切ったサラリーマンの姿がそこにあった。
「……助かった、のか?」
赤城が震える声で呟く。
俺は彼らの前に歩み寄り、手元の端末を操作しながら事務的に告げた。
「お疲れ様です。見事な囮業務でした」
「さ、佐藤……お前……」
「ただし、事前申請のない無断の残業ですので、手当はお支払いできません。ですが、ご協力には感謝します」
俺の言葉に、赤城は何か言い返そうと口を開いたが、結局何も言えずに力なく笑った。灰島に至っては、安堵のあまり涙目になって何度も頷いている。
彼らのプライドは完全に粉砕されたかもしれないが、命が繋がったならそれで十分だ。労災事故という最悪の事態は、未然に防ぐことができた。
「さて、ここからが本番です」
俺は屋上の奥へと視線を向けた。
電力が完全に復旧したことで、屋上に設置されたすべての防衛システムがオンライン状態に移行している。
遠くで、巨大なクレーン設備が重々しい駆動音を立てて動き始めていた。複数のワイヤーが張り詰め、滑車が回転する音が夜空に響く。
大ボスを完全に拘束し、処理するための巨大ギミック。その準備が、ついに整ったのだ。




