第17話
圧倒的な熱量が、俺のスーツを焦がし始めていた。
大ボスの体表から噴き出す白い蒸気が、視界を容赦なく白く染め上げる。極度に乾燥した空気が喉の奥を焼き、呼吸をするたびに肺が悲鳴を上げそうになる。足元の床面は、異常な高温に耐えきれず、パチパチと不気味な音を立ててひび割れ、一部はすでにドロドロに溶け出していた。
手にしたラベルプリンターのプラスチック外装が、熱で柔らかく歪み始めている。これ以上近づけば、俺自身が炭化してしまうのは火を見るより明らかだった。
「……撤退だ」
仮に熱波を突破して備品登録できたとしても、行き場を失った熱エネルギーが大爆発を起こすリスクがある。
労災を未然に防ぐための行動で、自らが致命傷を負っては本末転倒である。俺は歪み始めたラベルプリンターを素早くポケットに突っ込み、すぐさま背後で待機させていた重機へと駆け戻った。
操縦席に飛び込み、レバーを引いてキャタピラを後退させる。重々しい駆動音を響かせながら、重機は熱源から距離を取っていく。
ワイヤーネットの中で拘束された大ボスは、まるで巨大な溶鉱炉のように赤く明滅していた。周囲の空気が陽炎のように激しく歪み、その姿は輪郭すら曖昧になっている。
安全圏と思われる位置まで後退したところで、インカムからノイズ混じりの音声が飛び込んできた。
『聞こえますか、健太くん』
落ち着き払った、理知的な声。産業医の緑川薫だった。
「緑川先生。申し訳ありませんが、今は健康相談の時間を取っている余裕はありません。火傷の治療どころか、全員が灰になる寸前です」
『ええ、モニターで見ています。対象の膨張率と表面温度の上昇カーブから、現在の状態を計算しました』
緑川は、まるで社員の定期健診の結果を読み上げるような、淡々とした口調で告げた。
『細胞レベルでの崩壊が始まっていますね。医学的、あるいは生態的な見地から言っても、もはや自己修復は不可能な段階です。内部のエネルギーが外殻の耐久限界を超えようとしています』
「つまり、自爆は止められないと?」
『その通りです。あと十五分。正確には、十四分四十秒後に臨界点に達します。その瞬間に放出されるエネルギー量は、自社ビルはおろか、半径数百メートルを完全に消し飛ばす規模になるでしょう』
「十五分……」
操縦席の時計に目をやる。定時まではまだ時間があるが、会社が消滅すれば残業どころの話ではない。俺の平穏な日常も、有給休暇の消化も、すべてが灰と化してしまう。
「何か、医学的なアプローチで進行を遅らせることはできませんか? 例えば、冷却効果のある薬品を大量に投与するとか」
『無理ですね。すでに致死量のエネルギーを内包した爆弾と同じです。鎮静剤や冷却剤を打とうにも、接近した時点で注射針が溶けて蒸発します。物理的な干渉は一切不可能です』
「ですよね。わかりました、正確な情報提供に感謝します」
俺はインカムの通信を全社回線に切り替えた。
自爆を止めることが不可能ならば、被害を最小限に抑えるしかない。この状況は、会社への甚大な損害をもたらす重大インシデントだ。総務として、適切な危機管理対応を行う必要がある。
「総務より各部署へ。現在、屋上の対象物が自己崩壊プロセスに移行しました。タイムリミットは約十四分。これを止めることは不可能です」
インカムの向こうで、複数の息を呑む気配が伝わってくる。下の階でサポートしてくれている後輩や、経理担当の結衣たちだろう。
「ですが、会社を吹き飛ばさせるわけにはいきません。これより『緊急排気プロジェクト』を発動します」
『排気、ですか?』
結衣の戸惑ったような声が響く。
「そうです。爆発のエネルギーを密閉空間で受けるから、ビル全体が吹き飛ぶんです。ならば、エネルギーの逃げ道を作ってやればいい」
俺は操縦席のモニターに、屋上の平面図を呼び出した。
「対象の熱エネルギーを、安全な方向へ指向性を持たせて排出します。つまり、屋上に巨大な煙突を作るんです」
『なるほど。圧力を一方向に逃がすわけですね』
緑川が感心したように呟いた。
『ですが、どうやって? 莫大なエネルギーに耐えうる素材など、そう簡単には用意できませんよ』
「経費を使います。結衣、現在の会社口座の残高は?」
『ええと……先ほどのドロップアイテム換金分を含めて、過去最高益を更新中です。かなりの額が即座に動かせます』
「よし。なら、耐熱シールドと特殊合金のパネルを至急手配してくれ。納品先は屋上。最短で届く業者を選定しろ。金額は糸目をつけなくていい」
『承知しました。すぐに発注をかけます!』
キーボードを激しく叩く音がインカム越しに響く。彼女の処理能力なら、数分以内に必要な資材を召喚してくれるはずだ。
「営業部のエリート社員たちも、聞いていますね? 手の空いている者は、下の階の非常階段の防火扉をすべてロックして回ってください。熱風が下層に逆流するのを防ぐためです」
『わ、わかった! すぐに手配する!』
かつては俺たちを直接利益を生まない部署だと見下していた営業部トップの声が、今は素直に指示に従っている。労災の危機を前にして、社内のヒエラルキーは完全に機能しなくなっていた。
「後輩たちは、屋上のクレーン設備の制御をこちらに回してくれ。届いた資材を即座に組み上げる」
『はいっ! システムの権限を移行します!』
各部署が、俺の指示のもとに一斉に動き出す。会社全体が一つの巨大なプロジェクトチームとして機能し始めていた。
だが、本当の問題はここからだ。
タイムリミットが迫る中、莫大なエネルギーを逃がすための排気ルートをどう構築するか。
ただ壁で囲めばいいというものではない。爆風の圧力を計算し、最適な角度で空へ向かってエネルギーを誘導する構造を作らなければ、結局は耐えきれずに崩壊してしまう。少しでも隙間があれば、そこから漏れ出した熱風がビルを焼き尽くすだろう。
十五分以内に、この屋上に巨大かつ完璧な排気システムを組み上げる。
図面を睨みつけながら、俺は脳内で必要な資材の数と配置を猛スピードで計算していく。少しでも計算を間違えれば、すべてが水の泡だ。
「絶対に、定時までに終わらせる」
俺は重機のレバーを握り直し、赤く燃え盛る大ボスを見据えた。
熱波はさらに強さを増し、操縦席の防弾ガラス越しでも肌がジリジリと焼けるような感覚がある。
排気ルートの構築という前代未聞の難題。時間は刻一刻と削られていく。
果たして、十四分以内に完璧な煙突を完成させることができるのか。俺の総務としての事務処理能力が、今、最大の試練を迎えようとしていた。




