第4章:我がレオンハルトは銀の道にあり ( 23 )
王都の片隅、貴族街の外れにある閑静な邸宅。
世間から忘れ去られたように静まり返ったその家で、一人の老人が揺り椅子に揺られていた。
エドガー・ヴァン・レオンハルト。六十歳。
かつて極寒のレオンハルト領を治め、十年前、息子のディートリッヒに家督を譲った男である。
彼は今、王都の速報誌を膝に置き、暖炉の炎をじっと見つめていた。
『レオンハルト領にて、カスティア軍降伏。勝因は、緻密な計算による補給と、魔導兵の運用』
「……計算、か」
エドガーの脳裏に、四十年前の記憶が蘇る。
当時二十歳だった彼は、兄のオズワルドが王都へ出仕することになり、急遽、あの「白い地獄」と呼ばれた領地を継ぐことになった。
若き日のエドガーは絶望した。
兄のオズワルドが領地を治め、自分が兄を支えていくのだと漠然と考えていた。
だがオズワルドはその才を買われて王都に進出してしまった。
そこで次男だった自分が領主となった。
作物は育たず、冬になれば人が凍え死ぬ。そんな土地をどう救えばいいのか。
彼は毎晩、蝋燭の火が尽きるまで羊皮紙に向かった。
『もし、ここに道があれば』
『もし、熱源を効率的に配分できれば』
『もし、人口を一箇所に集約し、労働力を最大化できれば』
そうして書き上げたのが、『領勢基本大系』だった。
それは若き日の彼の血と汗と、理想の結晶だった。だが、当時の技術力と予算では、それはただの「夢物語」でしかなかった。結局、彼は現状維持に汲々(きゅうきゅう)とし、十年前、五十歳を迎えた時に心が折れた。
「……あの時、私は全てを捨てて、王都へ逃げた」
三十年間なんとか領地を治めてきたが、自分の手腕では発展させることができなかった。
後継者のディートリッヒも野心家であるが領地を治める手腕や発想は良かった。
子を得て、次の後継者の問題もなくなった。
十年前のあの日、屋敷を去ると決めたエドガーの目には、一人の少年の姿が焼き付いている。
当時五歳だった孫、アルス。
雪のように白く、少し動けばすぐに熱を出す病弱な子供。
剣も振れず、外遊びもできず、いつも書庫の隅で咳き込みながら本を読んでいた。
『おじい様、この本……すごく面白いですね』
咳き込みながらそう言ったアルスの手には、埃を被った『領勢基本大系』があった。
エドガーは当時、自嘲気味にこう返した覚えがある。
『それは役に立たない紙束だ。夢を見るにはいいが、寒さは凌げないぞ』
……病弱なあの子が生きて成人できるかすら、怪しいと思っていた。
出世に貪欲で有能な息子ディートリッヒの下で領地を発展させていき、アルスの代ではディートリッヒの貯金で領地を存続させていくと思っていた。
だが、どうだ。
「……アルス。お前、あの本を……私の夢を、捨てなかったのか」
速報誌に書かれた戦術。
『銀の道』による物流革命。『熱源』の再利用。
それは、四十年の間、エドガーが頭を悩ませ、震える手で書き記し、実現不可能だと封印した「設計図」そのものだった。
しかもアルスは、そこに現代の『統計学』と『魔導技術』を掛け合わせ、エドガーの想像すら超える精度で完成させていた。
「ハハ……傑作じゃないか」
エドガーの目から、一筋の涙が伝い、皺に吸い込まれた。
誰も評価しなかった自分の青春。無能な領主と罵られ、逃げるように去った故郷。
その全てを、あの病弱だった孫が、肯定してくれたのだ。
「おじい様の計算は間違っていなかった」と、行動で証明してくれたのだ。
「……兄上。オズワルド兄上、聞こえるか」
エドガーは、王宮のある方向へ向かって独りごちた。
「あんたは王都で出世し、私は領地で朽ちたと思っていた。だがな、私の血は……私が残した種は、雪の下で死んではいなかったぞ」
エドガーは立ち上がり、机の引き出しを開けた。
そこには、かつて彼が領主時代に使っていた、古い名簿が入っている。
彼と同じように「理想」を持ちながら、時代の壁や政治の腐敗に阻まれ、野に下った優秀な土木技師、隠居した学者、不遇の魔導研究者たちの連絡先だ。
「アルスよ。お前がその設計図を完成させるつもりなら、人手がいるだろう」
エドガーはペンを執った。
隠居老人の戯言ではない。かつて「設計図」を描いた者として、若き建築家を支えるための手紙を書くために。
「……『昔の馴染み』たちに声をかけるとするか。若き領主様が、面白い計算を始めたとなれば、喜んで骨を貸す連中ばかりだ」
暖炉の火が、老人の瞳に力強い光を灯していた。
十年前、書庫の隅で咳き込んでいた少年と、夢破れて去った老人。
交わるはずのなかった二つの魂が今、四十年越しの設計図の上で、熱く共鳴し始めていた。




