幕間「一応の決着」
どうしようもないのか?
シェリルは迷っていた。
マダルマがあれほどまでに怒りに震えるのもわかる。そしてこのまま放置することがどれだけ危険かもわかっている。だが、だからといって、ここで接触を諦めて彼を再び地下に封じ込めるのが最善の策だと言うのか?
ただ臭いものに蓋をして、根本的な解決を先延ばしにしているだけではないのか?
本当に、このままでいいのか?
このままで――
マダルマが咆哮を上げ、シェリルを現実へと引き戻した。
片手で止められた。
マダルマは屈辱に震えた。
そして屈辱のままに咆哮を上げ、もう片方の足を上げて背中を見せていたジーナに向けて再度振り下ろす。
前を向いたまま、ジーナが僅かに横に体を動かす。大木の如き太さを持つ前脚が紙一重でジーナを掠め、それまで彼女がいた地面に激突する。
それを合図にするかのように剣を振りぬき、レイスが前へと走りだす。
叩きつけられたままの前脚をつたい、一気にマダルマの眼前に躍り出る。
マダルマと視線を交錯させる。怯むこと無くレイスが剣を両手で持ち上段に構える。
「シィィッ!」
息を吐き出すように叫び声を上げながら、『生身の』剣をマダルマの額に叩きつける。
剣を岩石にぶつけたような硬質の音が耳に届く。
マダルマは微動だにしない。
酷い違和感を覚え、レイスが顔をしかめる。
側面から尻尾が迫る。
「おのれ――ッ」
その風の流れを肌で感じ、レイスが剣を押し出し渋顔のまま後ろに飛び退く。
風を切りながら、レイスの眼前を尻尾が横薙ぎに通り過ぎる。
背後から声が響く。
「レイス! 下がって!」
「メアか!」
目だけを背後に向けレイスが叫ぶ。その後方、呪文の詠唱を終えたメアの前方に、無数の風の刃が現出していた。
「魔法は効かないわよ! どうすんの!?」
「まあ見てなさいって!」
メアの横に立った吉音がP90を目元の高さに構えて引き金を引きながら言い、すぐ横でがなりたてる銃声に負けじとメアが叫ぶ。
「風よ風よ! 刃よぶった斬れ!」
メアが続けて叫び、その風の刃の群れを一斉に撃ちだしていく。撃ちだされた刃は弾丸を避けながら、真っ直ぐにマダルマへと向かっていった。
マダルマが視界に風の刃を捉え、意識をレイスからそれらに移して顔を強ばらせる。
だが宙にいるレイスを横切りマダルマの前まで近づいた所で、刃がその軌道を変えた。
「なに!?」
マダルマの体への直撃を避けるようにして群れがそれぞれ急旋回を行う。ある物は壁へ、ある物は床へ、ある物は天井へ。マダルマを取り囲むようにして、それらに向けてスピードを緩めること無く猛然と突っ込んでいった。
「いったい何を……!?」
視界の先で刃が逃げるように軌道を変えた事にマダルマが目を丸くする。メアが不敵な笑みを浮かべて呟く。
「バーンッ!」
壁と床と天井、それぞれに風が激突する。
風とぶつかった部分が盛大に砕け散り、土煙をもうもうと立たせる。そしてそれによって土煙と、同時に生じた大量の飛礫が、風の刃と同等のスピードでマダルマへと殺到する。
「グウウ……ッ!」
小石から岩石まで、大小様々な飛礫が牙を剥き、その全身を叩きつけていく。一つ一つの破壊力は微々たるものだったが、その異常なまでの数の暴力によって風の刃に負けるとも劣らない威力を引き出していた。
メアの横に降り立ったレイスが、その光景を見て素直に感心する。
「なるほど、考えたな」
「私だって頭くらい使うわよ――それより」
メアがそこで言葉を切って顎をしゃくる。レイスが黙って頷き、それを見たメアが言った。
「早くしてよね。彼女が気絶とかしたら終わりなんだから」
「わかっている。ここは任せたぞ!」
「え、ちょ――」
不意にレイスに腕を掴まれシェリルが狼狽する。だがレイスはそれを無視して、メア達のいる所とは反対側の位置に駆け出す。
二手に分かれ、敵の狙いを分散させて生存率を上げる。それは見方を変えれば、防御面で最大の活躍を見せている、この戦いの勝利の鍵でもあるシェリル自身の生存率を上げるためでもあった。
「へえ、あんたも戦略とか考えたりするのね」
「こういう頭使うのは面倒くさいんだけどさ……やらなきゃ駄目な時もあるよね」
素直に感心する吉音にダルそうに返してから、メアが再び風の刃を展開していく。
一回で終わらせる気はなかった。次々刃を生み出してはマダルマの周囲ある床や天井にぶつけ、飛礫の雨をふらせ続けた。
すぐにメアのボルテージが再び上がっていく。
「あはははは! そーれそれそれー!」
「ちょ、程々にしとかないと痛い目見るわよ!?」
そんな高笑いを上げるメアに対して、弾切れを起こしたP90を放り捨て、その場に片膝をついて三つ目のコンソールを弄りながら吉音が苦言を呈す。だがメアは構うこと無く風の刃を撃ち出し続けていった。
その時、飛礫を食らいながらもマダルマが首を動かしてメアを睨みつける。
「あ――」
「いい加減に……」
メアと吉音が同時にデジャヴを覚える。背筋に寒気を覚える。
「いい加減にしろ!」
尻尾を高々と掲げ、二人の頭上に叩きつけるように振り下ろす。
逃げられない。吉音とメアが揃って動きを止める。
二人の前に横から人影が躍り出る。
「蝶々様!」
尻尾が眼前にまで迫る。蝶々――ジーナが裾を摘んで腰を捻り、その尻尾の横っ面を左足で蹴り飛ばす。
快音を鳴り響かせながら尻尾が大きく揺れ、三人の真横に派手な音を立てて落ちていく。
痛みと怒りでマダルマが叫び声を上げる。
「オイタはいけませんよ?」
膝を曲げて左足を持ち上げた姿勢のまま、笑顔を寸分も崩さずにジーナが言った。
吉音とメアがそれまでとは違った意味で硬直する。
その一方でジーナはそれを見届けるやいなや唖然とする二人の前で片膝立ちになり、腕を振り上げて足元の床をぶち抜く。
その時の音で、二人が正気を取り戻す。
「吉音さん」
「え――あ、はい!」
突っ込んだ腕を引っ張って床の表面をひっぺがす。子供の金切り声のような甲高い音を立てさせながら床を折り曲げ、そこから露わになった大型の銃器をもう片方の手で掴んで立ち上がり吉音に向き直る。
「これ、お願いしますね?」
M60。アメリカ合衆国産の軍用機関銃。
「それとこれも」
M60のすぐ横にあった弾丸入りのボックスも合わせて引っ張り上げ、それらを吉音の足元に置く。
「では、よしなに」
「……蝶々様」
「なんでしょう?」
にこやかに応答するジーナに、吉音がジーナの背後にあるぶち抜かれひしゃげた床を見て疲れきった顔で言った。
「もう少しスマートにやって下さい」
「ううん……やろうとは思ったのですが……その……」
「忘れたんですね、パスワード」
「……てへっ」
片目をつぶり、閉じた唇の間から舌をちょろっと出して媚びるような上目遣いで吉音を見やる。
「……」
自分の歳を考えろと言い返すほど、メアは命知らずではなかった。
「おい! 何をやっている! 早くこちらの援護に向かわんか!」
その時、突如として別の方向から人間の声が木霊した。三人が同時にそちらの方に視線を向け、そこでマダルマと相対していたレイスと、彼女から一歩下がった位置にいたシェリルを見て自分たちの本分を思い出す。
「これはいけませんね……とにかく、吉音さん。援護お願いしますね」
「わ、わかりました」
「メアさんも、程々にお願いしますね?」
「う、うっす」
二人にそれぞれそう言ってから、ジーナが身を翻してレイス達の元へ向かう。
この時、吉音とメアの目には、ジーナがマダルマ以上の化物に見えていた。
「……吉音」
「なに?」
ボックスを開き、中にあるベルト状に連なった弾丸を取り出しM60に装填しながら吉音が聞き返す。
メアが静かに言った。
「私、あの人に逆らうのやめようと思う」
「……そうした方がいいと思う」
手の動きを止め、吉音が自分に言い聞かせるように静かに返した。
ジリ貧だ。
レイスは焦りを感じていた。
マダルマからの攻撃に対しては、シェリルの魔法によってそのダメージを全く無効化することが出来ていた。どれだけ殴られてもこちらが実害を受ける事は皆無だった。
だが同時に、こちらがマダルマに与えるダメージも微々たるものだった。効いていないわけでは無さそうだったが、圧倒的なまでに打撃力に欠けていたのも事実だった。
これではいつまでたっても決着がつかない。シェリル自身の魔力にも限界がある。頭上や側面から次々と振り下ろされてくる巨大な前脚を紙一重で躱しながら、レイスは現状の打開策を練る事に神経を集中させた。
早く打開策を見つけなければ――
「レイスさん!」
不意に自身の後方に控えていたシェリルが叫ぶ。頭を靄だらけにしたまま反射的に後ろに飛び退く。
レイスのいた所を前脚が真上から叩き潰す。着弾地点一帯が円形にひび割れ、緩やかな曲線を描いて凹む。
「すまん、助かる!」
「いえ、お気づかいなく。それより――」
内心冷や汗を掻きながら感謝の念を告げてきたレイスに向けて、シェリルが返す。
「ダメージの方はこちらで何とかするので、避ける必要は無かったのでは……?」
「む」
言われてみれば。レイスが顔をしかめる。だがすぐに気持ちを切り替え、開き直ってレイスが言った。
「……まあ、あれだ。これはその、染み付いたクセのような物だ」
そして苦笑しながらレイスがシェリルの方を向く。
シェリルの姿が視界に入る。その顔を見た瞬間、レイスが表情を強張らせる。
「……む……?」
シェリルは唇を固く結び、眉間に皺を寄せ、目に力を込めてこちらを見つめてきていた。それはこちらの戦いの様子を力強く見守っているように見えたが、レイスにはそれは、胸のつっかえが取れずスッキリしない風にも見えた。
――何か悩んでいるような感じが――
「レイスさん、前!」
そのシェリルがレイスの眼前で、不意に目を見開いて叫ぶ。
直後、レイスの腹に前脚の一撃が直撃する。
「がっ――」
首をひねったまま体を弓なりに反らし、足を地面から離して後方に吹き飛ばされていく。そしてすぐさま地面にぶつかってそこで一度跳ね飛びシェリルの足元で滑りこむようにして静止する。
止まると同時に、何事もなかったかのように頭を振りながらゆっくりと立ち上がる。
「なるほど、確かに避けなくても大丈夫ではあるな」
自身の腹を傷一つついてない鎧の上から撫でながら、レイスが傍らのシェリルに言った。シェリルは頬を緩めて苦笑したが、すぐにそれを消してレイスに見えない位置に顔を背ける。
「……」
その表情は先程と同じ――それよりも深く、はっきりと憂いを帯びた物だった。
「……今すぐにでもため息を漏らしそうな顔をしているな」
不意に飛び出したレイスの言葉に、シェリルがその表情を硬くする。そしてレイスがそう言った直後、突撃銃の物よりも重く間隔の広い銃声が通路内に木霊し始める。
吉音の放つM60の銃弾が、マダルマを側面から攻撃し始めたのだ。更にそこにメアの風の刃と飛礫を使った間接的な攻撃も合わさり、今やマダルマの体と意識はそちらの方に向いていた。
銃声と風が通路の四方にぶち当たる音が周囲に響き渡る。それらを無視してレイスが続ける。
「何を悩んでいる?」
「……それは……」
「『敵』の私には話せない事なのか?」
「そんな事は……!」
強く言いかけてシェリルが口ごもる。レイス達より遠方で爆発音が轟く。シェリルが再び顔を背ける。
やがて目に力を込めてシェリルが顔を上げ、レイスをじっと見つめる。
「レイスさん、私はその」
「あらあら、何か込み入ったお話をしているようですね」
だがシェリルが顔を上げ、意を決して何かを言いかけたその時、吉音達の方からやって来たジーナがそれに対して横槍を入れてきた。
不意を突かれた格好になってシェリルが肩を震わせる。マダルマが咆哮し、人間の女性の小さい悲鳴が聞こえてくる。それを背景にして、シェリルの姿を見て小さく笑いながらジーナが言った。
「まあ、そんなに驚く事も無いでしょうに……お姉さん傷ついてしまいますよ」
「あ、いや……すみません」
「ふふっ、いいのですよ。こちらがいきなり声を掛けてきたのが悪いのですから……それより」
馬鹿正直に謝るシェリルの肩に手を置いて、ジーナがシェリルに言った。
「何を悩んでおられたのですか?」
「……それは……」
「私がここに来る前、何か話そうとしていたでは無いですか。ここまで来てだんまりというわけには行きませんよ?」
「うむ、その通りだ。胸の内に溜め込んで辛いままでいるくらいならば全て曝け出してしまえ。そちらの方が気が楽になる」
「……」
ジーナとレイスの催促に、それまで渋い顔をしていたシェリルが再び目に力を込める。
「……少し、聞いてほしい事があるんです」
「この戦いに関係することなのか?」
「はい」
レイスの言葉に強く頷く。そして二人を交互に見やり、シェリルがはっきりした言葉で言った。
「私は――」
M60の給弾ボックスが空になった時、吉音は銃を構えたまま目の前の光景を唖然として見つめていた。
「な……」
吉音に背を向けるようにして、シェリルが彼女の目の前に立っていた。仁王立ちで両手を広げて、体で大の字を描くようにして吉音達とマダルマの間に立ち尽くしていたのだ。
「何やってんのよあいつ!」
この時の吉音の気持ちを、横にいたメアが代弁した。そのメアも胸元で両腕を交差させ風を纏ったまま、攻撃すべきか否かを考えあぐねていた。
「あんな所にいたら、こっちの巻き添え食らっちゃうじゃないの。何がしたいのよ一体」
「そんなのこっちが聞きたいわよ……」
「なに、すぐにわかる」
苦い顔で言い合う吉音とメアにそう返しながら、レイスがジーナと共に二人の元へ歩み寄っていく。この時レイスは剣を腰に納めており、そして二人して戦闘中にもかかわらず肩の力を抜いてリラックスしていた。
「とりあえずは、あ奴に全て任せてみてはくれんか? これはあ奴たっての希望なのだ」
「希望って……具体的に何する気なのよ?」
気の抜けたレイスの言葉にメアが眉をひそめて返す。それを聞いたジーナが顎に人差し指を当て、にこやかに言った。
「ああ、それはですね……」
「それは?」
横から吉音が聞き返す。そちらを向いてジーナが答える。
「説得ですよ」
「説得?」
「はい」
「説得……?」
メアが目を白黒させる。
「……本気で?」
「彼女は本気ですよ?」
「冗談でしょ?」
「冗談であんな事をすると思うのか?」
そう言ってレイスが目線をシェリルの背中に向ける。他の三人も揃って後を追う。
「とにかく、成り行きを見守るとしましょう」
その背中を見つめながら小さく笑みを浮かべてジーナが言った。吉音達もそれに対して反感を露わにする事を止めにした。
「終わりにしましょう」
シェリルが口を開く。ジーナがそれを見て満足気に頷く。
レイスはそのジーナの笑みを、横から気に食わないとでも言いたげな表情で見つめていた。
「なんだと?」
「終わりにしましょうと言っているのです。もう人間を恨むのは止めて、共に前に進もうと――」
「馬鹿馬鹿しい」
マダルマがシェリルの言葉を遮る。
「我が恨みがいかほどの物か、貴様は知っているとでも言うのか」
「……確かにあなたの中にある恨みの程度は、私には測り切る事は出来ません。そしてそれは恐らく、私が想像しているよりもずっと深い物なのでしょう」
「ならばそれが世迷言である事は容易に判断できよう。終わりだ。これでこの話は――」
「いいえ!」
シェリルが一歩前に踏み出す。
「それでも私は、あなたを放っておくことは出来ません!」
「なぜそうまでこだわる? 貴様に何の得がある?」
「損得ではありません。ただ単純にあなたのことが――あなたの置かれた状況が放っておけないのです」
「放っておけないからと何が出来る? 我が恨みを晴らす事は誰にも出来まい!」
「受け止める事は出来る!」
「世迷言をッ!」
マダルマが前脚をシェリルの眼前に叩き落とす。
破片が舞い散り、衝撃が体を打ち付ける。シェリルは顔を歪ませながらもその場を動こうとはしなかった。
余波が過ぎ去る。マダルマをまっすぐに見つめながらシェリルが言った。
「私は本気です」
頑固。お節介焼き。視野狭窄。
シェリルの本性が完全に顔を覗かせていた。
「私は、本当にあなたを助けたい。あなたのために、出来る事がしたい」
「嘘を言うのはやめろ! どうせそう言っておいて、後で後ろから不意打ちを食らわせるつもりなのだろう。そうだ。人間は……魔導士は皆そう言う生き物なのだ!」
「私は違います。その様な事は絶対にしない。私は、あなたに嘘はつかない」
「よくも抜け抜けと」
「信じられないのならば、今ここで確かめてみてください」
シェリルの言葉にマダルマが僅かに眉を動かす。
シェリルが続ける。
「私は今、それまで私が自分自身に対してエンチャントしていた魔法……『あらゆるダメージを無効化する魔法』を解除しています。つまり、今ここであなたの攻撃を受ければ、私は普通にダメージを受ける事になる」
「……だから?」
「それをあなたが証明するのです。私が嘘つきではない事を、あなた自身が確認するのです」
「貴様を殴れと言うのか?」
シェリルが頷く。後ろの四人が揃って愕然とする。マダルマが露骨に顔をしかめる。
「ふざけるな。嘘に決まっている。そんな自分から殴られる事を望む奴がいるものか。どうせ自分に魔法をかけたままで相手の攻撃を誘っておいて、裏で反撃の手段を用意しているんだろう!」
「いいえ。私はその様な事は一切していません」
「嘘を言うな!」
「怖いのですか?」
「……!」
突然の挑発にマダルマが鼻白む。シェリルが畳み掛けるように言った。
「私が嘘つきでないかどうか、それを確かめる度胸も無いのですか?」
「貴様……」
眉間に皺を寄せ、歯を食いしばってギリギリ鳴らすマダルマの前で、シェリルが目を閉じ、改めて体を大の字にして立ち尽くす。
「さあ、早く」
「……」
眼の前で人間が――あまつさえ自分を侮辱した憎き魔導士が無防備な姿を曝け出している。それがマダルマの心の闇を刺激した。
「……」
騙しているだの嘘をついているだの、そう言った推測は既に脳裏から消え去っていた。憎々しい存在が目の前で殴られるのを待っている。それがマダルマの理性を秒刻みで奪っていく。
なけなしの正気が削られていき、怒りと憎しみがふつふつと沸き上がってくる。
「さあ」
寒気がするほど静かに、シェリルが催促の言葉を漏らす。
「早く」
まるでして欲しいとでも言うかのように。
――して欲しい。
「――」
理性の糸が切れる。
過去の光景――人間からの偏見と虐待、そして虐殺の記憶がフラッシュバックする。
次の瞬間、マダルマは前脚を振り上げ、怒りのままにシェリルを殴りつけていた。
シェリルの体が、自身の横にあった壁に側面から叩きつけられる。そして糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
「シェリル!」
他の人間の声がする。マダルマの脳裏には届かない。
勝ち誇ったように――何かを忘れさらんとするかのようにマダルマが顔を真上に上げて咆哮する。
「どうだ、思い知ったか!」
そしてすぐに視線をシェリルに向け、吐き捨てるようにマダルマが言った。
「さあ、さっさと立ち上がってこい! どうせこの程度、魔法を使って凌いでいるのだろう。嘘つきの魔導士め、どうした! 早くしろ!」
反応がない。顔を俯かせて足をだらしなく伸ばしたまま、シェリルはピクリとも動かない。
溜め込んできた怒りの感情を隠すこともしないままマダルマが吠える。
「死んだふりのつもりか? ふざけた事を!」
反応がない。
「いい加減にしろ! そうやっていつまでも我らを騙せると思ったら大間違いだ! 何をしている、おちょくっているのか!?」
反応がない。
シェリルを中心にして真っ赤な水たまりが広がっていく。
「……ッ」
シェリルが俯いたまま小さく咳き込み、口から赤黒い液体を吐き出す。
吐き出されたそれが、服に赤いシミを作っていく。その布地に広がる赤と床に広がる赤が、マダルマに一つの正解を教える。
――私は、あなたに嘘はつかない。
取り巻きの人間が悲痛な声を上げながらシェリルに向かっていく。
マダルマの頭が急速に冷えていく。その頭の中で、一つの文言だけが壊れたスピーカーのようにひたすらに反芻されていた。
――あなたに嘘はつかない。
その後、シェリルはすぐに医療室へと運び込まれた。
魔法による防御も行わず、鍛えられてもいない生身の体で魔獣の――魔族の攻撃を正面から貰ったのだ。素人目から見ても、それが致命傷である事はすぐにわかった。
マダルマは何のアクションも起こさなかった。ただ憑き物が落ちたかのように、無表情のままのろのろと自身の部屋へと帰っていった。
担ぎ込まれてから二分後、緊急手術が行われた。
六時間後、手術は無事終了した。
シェリルは一命を取り留める事が出来たが、術式終了から一週間は全身に包帯を巻き、チューブを繋いだままベッドの上で絶対安静を保つ事が求められた。
その一週間の間、当然ながらルカ達も見舞いに来た。ベッドの上から動くことは出来なかったが、それでも友人の到来を前にシェリルは嬉しそうに顔を綻ばせた。だがルカと面会した直後、シェリルはルカの涙混じりの説教を聞かされる羽目になった。その後シェリルは、もう二度と無茶なことはしないとルカと約束をした。
シェリルがベッドの上から解放されたのは、それから更に四日後の事だった。
回復してから更に五日ほど時が経ったある時の事。
「あら、シェリルさん」
両手に持った松葉杖をつき、まばらに人が行き交う通路内を進む薄地の病人服姿のシェリルを、背後からジーナ――蝶々が呼び止めた。
そちらに向き直り、シェリルが首を使って頭を下げながら蝶々に返した。
「こんにちは、蝶々さん」
「はい。シェリルさんも、だいぶ良くなったようですね」
「お陰様で。本調子を取り戻すのには、まだまだ時間がかかりそうですが……」
「焦ってはいけませんよ。肩の力を抜いて、ゆっくり行きましょう」
「はい」
話しかけながら笑みを浮かべる蝶々に、シェリルもつられて笑みをこぼす。そんな彼女の口からは、自然と『蝶々』の名が発せられていた。
これはあの一件以来「自分の事は蝶々と呼んで欲しい」というジーナ本人の意志を尊重しての事だった。これに対しては何の不都合もない――寧ろ『ジーナ』と呼ぶことの方に違和感を覚える事が多かったので、シェリル達は断ることはしなかったのだ。
「ところで、シェリルさん」
と、『蝶々』が笑みを浮かべたままシェリルに尋ねた。
「今日もあの場所に向かうのですか?」
「はい。放っておけませんから」
あの場所。ガット最下層に存在するマダルマの隔離室の事を尋ねられ、それに対してシェリルが笑顔で返す。
「こうした積み重ねが大切だと思うんです」
シェリルがマダルマの元に向かうのは、動けるようになってからの彼女の習慣となっていた。最初の頃は会う度に邪剣に扱われていたシェリルだったが、何回も顔を合わせる内にマダルマの態度は少しずつ軟化していったのだった。
「まさに『継続は力なり』。頑張った甲斐がありましたね」
「まだまだですよ。私は本当は、どうにかしてあの人の事を助けてあげたいんです。その面から言えば、まだスタートラインにも立てていません」
「何度も言いますが、焦りは禁物ですよ。細く長く、辛抱強く。これが鉄則です」
「わかっています――それでは、私はこれで」
「ええ。いってらっしゃい」
そうして自分に背を向けて再び杖を使って歩き出すシェリルの背中を、蝶々は穏やかな表情で見つめていた。
「……これで、あの子も丸まってくれれば良いのだけれど……」
「そう上手く行くものだろうか」
するとその蝶々の呟きにそう返しながら、レイスが蝶々の横に並んだ。特に驚くでもなくそのレイスの横顔を見つめた後、蝶々が眉根を下げながら言った。
「うーん、どうでしょう……私としては、上手く行ってほしいのですが……」
「……自分からこうなるよう仕組んでおいて、そんな曖昧な態度を取るつもりなのか、そなたは?」
「……どういう意味でしょうか?」
表情を欠片も崩さない蝶々に対して、質問をするような柔らかい口調でレイスが言った。
「そなたはあのシェリルの性格を知っていた。もしくは、その性格を大なり小なり把握していた。だからあの時、あなたはシェリルの提案を飲んだ。彼女を通してあのキツネの心を変えるために――違うか?」
「……」
暫くの間、蝶々は押し黙っていた。レイスも詰め寄る事はしなかった。
やがて胸元で両手を叩き、やけに明るい声で蝶々が言った。
「残念ながら、半分当たりで半分外れです」
「半分?」
「私は、最初からシェリルさんの性格を利用しようと思っていた訳ではありませんよ。私の目的はあくまで、あの子を『無力化する』事。そしてあの時、その目的に一番都合のいい事をシェリルさんがなさろうとしていたので、私はそれを承諾しただけです」
「……つまり?」
「酷い言い方をすれば、止められるのならば『何でも良かった』のですよ。暴力であれ対話であれ、止まるのならなんでも良かった。今回の一件はあくまでこの形に落ち着いただけであって、望んで今の結果にしたのではありません」
「……」
怒る事も蔑む事もしなかった。ただ腹の底から息を吐きだすようにため息をつきながら、レイスが疲れたように言った。
「……そなただけは敵に回したくはないな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
嫌味を含むこと無く、心底嬉しそうに蝶々が返した。
これで番外編は終了です。長かった。長すぎた……。
次から本編に戻ります。どうぞよろしくお願いします。
次回「スパイ」
撃ちます撃ちます




